一度だけ。そう、一度だけでいいから、冬に桜を見てみたかった。
「桜を?」
「はい。もうずいぶんと昔の願いだったのですが、この肌寒い季節になって思い出しました」
何とも頓狂な願い事だと、千本桜は苦笑した。しかし袖白雪は微笑みを浮かべたまま、その願いが心からのものであると千本桜に言った。
「変わっているな」
「そうでしょうか?」
きょとんと呟いた袖白雪は、本当に不思議がっている様子だった。
自分が変わった願いを持っていると、自覚していないらしい。
「なぜ“冬の桜”なのだ? 春では駄目なのか」
「もちろん春の桜も好きです。ですが、私が見てみたいと願うのは“冬の桜”なのです」
これだけは譲れないのか、袖白雪は力強くそう言った。その瞳に無邪気な子供のような色が垣間見え、千本桜は小さく笑みをこぼす。
その頓狂な子供の願いを、叶えてやりたいと思った。
「……仕方ないな」
こんな真似を自ら率先して行うなど、主の命と彼女の願い以外ではありえないことだ。
千本桜はすらりと鞘から刀を抜き、眼前に構えた。
「お前の願い、俺が叶えてやろう」
「千本桜殿?」
千本桜が、霊圧を解放する。
「散れ――」
刹那、二人の眼前に佇んでいた、花にも葉にも飾られていない侘しい木々たちに、息を呑むほどの美しい花弁が咲いた。
ひらり、ひらり。あたり一面に舞い散る桜へと、袖白雪は半ば無意識にその白くしなやかな手を伸ばした。しかし、その指先が花弁に触れる前に、千本桜がすっと袖白雪の手首を掴み制した。
「触れるな、傷がつく」
その声でふと我に返り、袖白雪は千本桜を見上げた。
「千本桜殿……これは……」
「お前の見たがっていた“冬の桜”だ」
千本桜は袖白雪から手を離し、「まがい物だがな」と、どこか寂しそうに続けた。
「所詮は刃。俺には桜を咲かすことなどできぬ。……俺は、この身を紅く染めることしかできぬのだ」
――ああ、なぜそんなに悲しいことを言うのだろうか。自分はこんなにも言いようのない感情に包まれているというのに。
口を開く前に体が動いた。気づけば、袖白雪は千本桜に抱き着いていた。
「袖白雪……?」
「言わないで……」
すがりつくように千本桜の着物を握りしめ、袖白雪は声を振り絞る。
「そんなこと、言わないでください」
「袖白雪……」
「私が今どれほどの幸せに包まれているか、千本桜殿にはわかりますか?」
そう、この溢れ出す感情に名をつけるとしたら、きっとそれは“幸せ”。私は今、言いようのない“幸せ”に包まれている。
「私の願い事、叶えてくださりありがとうございます」
どんな立派な桜よりも、この触れられない桜の刃が、何よりも綺麗だと思った。
まがい物などではない。これは私の望んだ“冬の桜”だ。
「ありがとうございます、千本桜殿」
声を震わせ、もう一度袖白雪は呟いた。
「……礼など、いらぬ」
あたりに舞う桜の刃は、二人を優しく包み込む。傷をつけないようにと、少しの距離を置いて。
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願い叶えて