えいえんをつむごう。 | ナノ
えいえんをつむごう。

 日が沈み、薄暗い室内を手探りで進んでいたミツチがふと振り返る。視線の先に映るのは、美術館に額つきで飾られていそうなほど端正なNの横顔。先ほどまでずいぶんと沈んでいたようだが、今は落ち着いているのか口元に柔らかな微笑みを浮かべ、窓硝子(ガラス)の向こうに広がる紫がかった空を見上げていた。
 そう見えるように取り繕っているだけなのかもしれないが、だからといって無理に聞き出すようなことはしたくない。ここに来るときに紡いだ『はなしたくなったらでいい』という言葉がすべて、だ。
「……動かないね」
「は?」
 血色の悪い唇からこぼれ落ちた言葉と冷たい空気が混ざり、ミツチの思考をぶつんと切断する。突然何を言い出すのかと訝(いぶか)しげな視線を送り、相手の返答を待った。
「あの絵は動くんだよ、本で読んだ」
 なんだそんなことも知らないの、とでも言うかのような自信満々の微笑み――そんなNを、ミツチの生暖かい笑いが出迎える。空を見ていたと思っていたら、実際は壁にかかった絵を見ていただけという容赦ない現実。
 フラワーロマンチストが移ったんだと自分の心に言い聞かせ、ミツチは溜め息の代わりに首を左右に振った。思い込みがどうであれ、本気で絵が動くとNが信じているのは確かで、もうまともに突っ込んでやる気も起きない。
 だからといって無視するわけにもいかず、涙声で名前を呼ばれる前に視線を[あの絵]に向ける。
 音楽室に飾ってあるということは有名な音楽家か何かなのだろうが、名前がぱっと浮かんでこない――モッツァレラだかそんな美味しそうな名前だったような気がする。
 いくら考えても思い出せず、観念したようにミツチは小さく息を吐いた。それから口元に楽しそうな微笑みを浮かべているNの方に視線をやり、喋りさえしなければ非の打ち所がないほど[きれい]なのにと思いながら紡ぐ。
「うーん……恥ずかしがってるんじゃないの、Nの前だから」
「そうなんだ、ちょっと残念。ところでミツチ、あの絵の人が誰だかわかる……?」
 相手がわからないと答えるのを見越しての質問――そうして、いつものようにNの蘊蓄(うんちく)を交えての説明が始まった。壊れたカセットデッキとは言わないが、いつものゆったりとした喋り方からは考えられない二倍速モードに、ミツチが辟易(へきえき)したように何度目かの溜め息を吐く。
 その道の者が聞いたら感涙しそうな丁寧さでいくら説明しようと、そもそも聞き手側がオタマジャクシすら満足に読めないのでは意味がない。モーツァルトだのショパンだのと長ったらしい名前を覚える以前の問題だが、Nは話すこと自体が目的になってしまったかのように熱弁を振るっている。
 そんな姿を見ながら、ミツチはあることに気が付いた。喋るのに夢中になりすぎると、聞き手が目の前からいなくなっても、その声が届く範囲にいる限りは大丈夫だというNの新たな謎属性というべき特性。
「だから――それで……が――素晴らし……美し……」
 それってもしかしなくても駄目なことじゃないか、という考えが浮かんでくるが、あえて見ない知らない気付かない振りをし、ミツチはそっとNの視界から離れた。
「……」
 小さい頃、イタズラで机に掘った文字がそのまま残っている。まさか大人になっても残っているとは思わなかった、とミツチは人差し指でそれをなぞりながら目を細めた。
 幼かった自分の素直すぎる『わかんねー』という思いが、変色して黒ずんだ傷から伝わってくる。他にもいくつかの傷……幼馴染みの名前、献立のリクエスト、教師への愚痴、好きだった女の子の名前。
 思い出がよみがえるようで、なんとなくしんみりとした気分。ふと気付けば、早口になりすぎて呪詛のようになっていた声が消えていた。代わりとしてミツチの耳に届いたのは、ひんやりとしたピアノの音色。
 振り返った茶色の瞳に映ったのは、長椅子に軽く腰掛け、鍵盤の上に指を滑らせているNの姿――まるで一枚の絵画のようで『ちょっとだれか額縁持ってきて』と言いたくなる。
「弾けるんだ」
 ミツチは視線で隣に座っていいかと聞き、顔を上げたNが『どうぞ』と小さく呟いた。大人二人分の体重をかけられ、呻くように長椅子が軋む。
 寝転んだり今のように座っていると、肩の位置が違うことを気にするほどあった差がほとんどなくなるのが好きだった。それは暗にどちらが胴長かということを指すのだが、ミツチにとってはどうでもいいことの一つでしかない。
「うん、習ってたから。ずっとずっと小さい頃に、ほんの少しだけ」
 そう言って若干照れくさそうに笑い、白く細い指で鍵盤を軽く押す。数式によく似た三つの音から成る和音――夢見るように音楽と数学の関連性を語るものの、ミツチにはやはり理解できない。
「あ……ごめんね、ミツチにはわからないでしょう。ボクの好きな話、っていうだけだったんだ。別にバカにしてるわけじゃないんだよ」
 そんなことはわかっているとでも言うかのように、ミツチは申し訳程度に肉のついた白い頬を軽く摘んだ。
「きみのようなあたまのいいひとのいうことはわかりませーん。聞いてもわかんないけど、聴けばなんとなくわかる気がする……から、なんか弾いてくれよ。得意なのでいいからさ」
 そう言って笑いながら頬から手を離し、視線を鍵盤の上に置かれた指へと向ける。折れそうなほど細く、病的に白いせいで気付かれにくいが、Nの指は普通と比べて少し長い。あとはまともに肉さえつけば、繊細なと呼んでも差し支えないだろう。
 よく注意して見ると、左親指の付け根にうっすらと傷が残っているのがわかった。見ようによっては指輪、あるいは鎖模様のよう。何があったのか、と話の流れを無視して訊(たず)ねたくなるのを押さえつける。
 そんなミツチの思いに気付いたのか、右手で隠すようにNが軽く手を組んだ。それから困ったように笑み、空気に溶けて消えるような溜め息と共に言葉を紡ぐ。
「……楽譜なんてもう覚えてないよ」
 でも、と静かに付け加える。
「一つだけならわかる、かな。久しぶりだから、上手く弾けるかはわからないけど」
ミツチが返答するより先に、そっとNが鍵盤に指を置いた。弾いてくれと言われたから弾くのではなく、自分が弾きたいから弾くのだというメッセージ。

――――――

 音楽というものを全く理解できないミツチだからこそ、それがただもの悲しいだけのものではないことを理解できた。どう言えば良いのかわからないが、胸を打たれるような何かがその旋律の中にはある。
 漠然(ばくぜん)と感じた思いを上手く形にできず、口から出てきたのはひどく簡潔な言葉だった。
「すごいな、Nって」
「……ありがとう」
 二回ほどまばたきをし、頬を赤らめながらNがミツチから視線を外す。評論家のように言葉を並べたてるより、ストレートにぶつけた方がいい場合もあるという、ただそれだけのこと。
「俺、今の曲すっごい好き」
 向けた視線の先ではにかむように淡く笑い、Nは新緑色の毛先を軽く摘むように梳(す)く。そのまま細い人差し指で鍵盤を押さえると、ぽろん、ぽろんと乾いた音が室内に響いた。
「気に入って貰って嬉しいよ。……実を言うと、曲名も知らないんだけどね」
「へえ、知らないのに弾けるのか。ますますすごいな」
 小さく頷き、Nは何かを思い出すかのように新緑色の長い睫(まつげ)を伏せ、それから血色の悪い唇を綻ばせるようにぽそぽそと言葉を紡いでいく。
「弾いてるのを聴いてた――扉越しだけど。いくら強請っても教えては貰えなかったし、弾くととても怒られた。後にも先にも、あんなに怒ったところを見たのは初めてだよ」
 思い出してしまったのか、悲しみと切なさを足して二で割ったような寂しい微笑みが浮かぶ。何を言えばいいかわからず、ミツチは揺れる瞳の光をただ見つめ続けた。
「……それでも、聴くなとは言わなかったから」
 耳で覚えるほど繰り返し弾かれた曲――『教えて貰えなかった』とNは言うが、それは『教えられた』という言葉にそのまま置き換えることができるのに気付いていないのだろう。そうでなければ、こんな笑みが浮かべられるものか。
「ボクも、この曲がスキだよ。……弾いた本人にしかわからないだろうけれど、優しくて懐かしい気分になる」
 切なげに眉根を寄せ、それでも気丈に笑おうとするNの薄い肩を掴み、ミツチは自分の方へと引き寄せた。胸に顔を埋めながら『苦しいよ』と小さくNが笑う。だが離れようとはしない――とどのつまり、そういうこと。
 柔らかい新緑色の髪を一度梳き、そのまま手を細いあごの下へと滑らせて顔を上げさせる。薄い涙の膜が張った青緑の瞳と茶色い瞳の視線が重なり、しばらく見つめ合った後、Nが静かに瞼(まぶた)を閉じた。
 触れるだけの軽い口付け。予想外の冷たさに苦笑いを浮かべ、ミツチは乾燥ぎみの唇を軽く舐める。
「相変わらず手だけじゃなく唇も冷たいな」
「そう……じゃあこれでどう?」
 柔らかく笑み、今度はNが唇を押しつけるように口付けた。先ほどより少し長く深いそれに、荒れた心と一緒に空気さえも溶けていくよう。
 細い腰に手を回し、さらに深く口付けようとする……が、その前にNが唇を離し『続きは帰ってからね』と淡く頬を桜色に染めながら笑んだ。それから残念そうなミツチの唇に人差し指で触れ、甘えるように問いかける。
「ねえ……ミツチは気付いてた?」
「なに、が?」
「さっきの曲。綺麗に繋がるんだ、音がね。最初と最後の――終わりがない、って言えばいいのかな」
 触れていた指と親指とで輪を作り、Nは小さく『ループ』と呟いた。
 それは代々親から子へと伝わり、父であるゲーチスから息子のNへと形がどうであれ確かに伝えられた、変わらない愛のかたち。
 うっすらと残る親指の傷へと視線を落とし、ミツチはそっとNが作った輪の中へ人差し指と親指を差し込んだ。腕の中で、控えめだが幸せそうな笑い声が上がる。
 ミツチとN、ふたりの指が形作る記号――永遠を表す∞

――――――

ふたりで永遠を信じてみた日

鬱屈なオチになりそうだったので軌道修正を試みたら、いつの間にかピアノの話がプロポーズの話になってた。とりあえず結婚おめでとう。たぶんこんな話じゃなかったはず、でも結婚おめでとう(二回目)

[悪い習慣]の国さまの日記(今はもう見れなくなっています)を見て萌えを押さえきれずに、ノベライズする許可を戴いた作品です。本当にありがとうございます!

2010/11/08
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