休憩所
「そういえばね、あたし幽霊に会ったんだよ」
地平線へと近づく太陽を背に、ベルがひまわりのように笑う。突拍子もないその言葉に驚きもせず、ムンナのぬいぐるみを小脇に抱えたミズチがそうなんだと言った。その言葉に疑いはなく、伴う響きは信じているという思い。
「うん、正確に言うと幽霊じゃないんだけど……」
ベルは少女らしい丸みを帯びた小さな指で自らの目を指さし、とんとんと二回叩いた。
「あたしの目と同じ髪の、黒い帽子をかぶった男の人。目の色は青緑色で−、なんていうか、こう……淡くて白い感じの……」
「もしかしてNって奴?」
「そうそう……ってよくわかったねミズチ、すっごーい!」
ミズチは手を叩いて喜ぶベルの頬を人差し指で軽く弾き、ああもう可愛い今すぐ抱きしめたいという思いを押し込め、やんわりと言葉を紡ぐ。
「すっごーい、じゃない。なにか変なことはされなかった?」
「うん、大丈夫だよお。実を言うとね、あたしは遠目からしか見てないんだ。ミツチはいろいろ話してたみたいだけど、あたしと話す前に黒ずくめの人とどこかに行っちゃって。でもでも、名前だけは知ってるよ、ミツチに教えて貰ったから」
あたしもお話してみたかった、という若干残念そうな笑顔。安心したようにミズチが息を吐き、ばつが悪そうに頭をかいた。ここで言わなければいつ言うのかという強い思いが、言ってもいいものかと迷う心ごと喉を押す。
「……ベル、あんまりそいつに近づかない方がいい。嫉妬じゃなくて、純粋に危ない」
ぱちぱちぱち、とベルが三回まばたきを繰り返した。話がしたいと言った次の瞬間、近づかない方がいいと言われたのだ。当然と言えば当然の反応だろう。まっすぐに向けられるそれから逃げるように足下の芝生へと視線を移し、軽く唇を噛む。
自分もNというトレーナーに会ったこと、勝負を挑まれたと言うこと、ポケモンと話ができると言われたこと。ミズチ自身、自分が言っていることが現実離れしているのはわかっている。それでも、なんとなく話したくなってしまった。
「ミズチは」
肯定も否定もせず、ベルが続ける。
「そのNさんってトレーナーのこと、どう思ったの?」
「……真っ白で危ない感じ。おろしたての紙みたいに、触り方を間違えたらケガをする」
「そっか、ミズチはそう思ったんだね。あたしはなんか、守ってあげたい感じかなあ。あんまり近くで見てないからかも知れないけど、なんかふわふわしてて、頼りない感じで、ぎゅーってしてあげたい……って思ったんだ」
抱いたイメージの違いに、少しの間を置いてミズチの唇がほころんだ。ばらばらだねえと笑うベルの表情を見ていると、Nに出会ってから感じていたざらつきと苛立ちが消えていく――なぜそう思ったのかはわからないが、肩が少し軽くなった気がする。
「あ、でも男の人にそんなこと思うなんておかしいよね……。今の話は内緒にしててね、特にミツチにはぜったい秘密!」
「いや、変じゃない。ベルはとっても優しくて可愛い。……私も、ベルみたいな女の子になりたかった」
本心からの言葉、小さい頃からずっと思っていたこと。母親以外の人間から言われ続けた『ベルちゃんはあんなに可愛いのに』という言葉。そんなことを言われる度に、私だってそうなりたかったと叫びそうになる。
小柄で女の子らしい丸みを帯びた体。きらきら輝く萌葱色の瞳、バラ色の唇、可愛い声――欲しかったけれど手に入れられなかったもの、自分にないからこそ。
褒めているのではなく、羨ましがっているのだということに気がついたとき、先ほどの発言を取り消そうとミズチは軽く首を振った。だが、そうするよりも早くベルがひまわりのように笑う。
「あたしはミズチみたいなかっこよくて、強くて、頼りがいがある女の子になりたい」
それから小さな手でミズチの手を強く握った。伝わってくる優しさと暖かさに、ミズチの頬が真っ赤に染まってゆく。普段動じることのない彼女のそんな姿を見て、ベルが前屈みになってミズチの顔をのぞき込み、不思議そうに言葉を紡いだ。
「どうしたの?」
言うべきか言わざるべきか――数秒の迷い、まともに顔を見ることができず、ムンナのぬいぐるみを顔の前に持ってきて手足をピコピコと動かしながら、消え入りそうなほど小さな声で思いを紡ぐ。
「ベルのこと、大好きだって思ってた……」
「へへ、あたしもミズチだーいすきっ!!」
勢いよく抱きつかれてバランスを崩し、ベルとミズチはムンナのぬいぐるみごと芝生の上に倒れ込んだ。
視界いっぱいに美しいグラデーションの夕焼け空が広がり、隣では幼馴染みが楽しそうに笑っている。彼女に対する思いと幸せを噛みしめながら、ふたりで笑いあった。
「……あ、一番星」
ベルが指を差した方向――ゆっくりと動く観覧車の、その向こう。
――――――
いちゃいちゃ幸せかっぽー。
2010/10/24
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