戴いた冠はただ重く
ぽつり――と、血色の悪い唇から言葉がこぼれ落ちる。
「わからない」
彼の手元、哀れなほど細く白い指が握っている機械の画面には、今日行った勝負の様子が映し出されていた。彼の方を睨み付けるように見ている女性トレーナーと、そのパートナー。だがその視線は彼女ではなく、きらきらと輝く瞳をしたポケモンへと向けられている。
今まで見ていた世界との違いに戸惑いを隠せず、疑問が沸いては消えてゆく。信じていたはずの思いが『本当にそうなのか』という疑問に激しく揺さぶられ、形を失っていくようだ。
表示されている画面がチカチカと明滅し、次の勝負を再生するのか彼へと問いかけていた。見始めてからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。そんなことはない、と思えるような証は何一つとして見つからず、こうして繰り返し同じ勝負を見続けている。恐らく何度見ても同じような疑問を抱くだろう。
それでも――と無駄ともいえる行為を繰り返そうとした背を、遠慮がちなノックの音が叩いた。彼の世界が静寂に満ちていなければ、耳をすましていても聞き逃してしまうほど小さな音。自らの行いを邪魔されたことを不快に思う気持ちが、そのまま言葉となって吐き出される。
「……開いている」
扉が開く悲鳴のような音を聞きながら、彼は青緑色の瞳を細めた。誰かが入ってきたということだけはわかるが、酷使された目はその姿をうまく捉えられない。衣擦れの音とカツカツという靴音が近づき、やがて目の前で止まる。
「まだ起きておられたのですか……」
鋼を思わせて鋭く硬い声色と、身にまとっている外套の鮮やかさで自分の世界へと入ってきた人物が誰なのかを理解し、小さく息を吐いた。胸中の多くを占めていた不快感が跡形もなく消え失せ、別の感情で上書きされていく。
「――」
どこか安心したような、それでいて夜更かししているのを見つかった子供のように笑い、血色の悪い唇を動かしてその名を小さく紡いだ。
彼を王と讃(たた)う七賢人の一人、説明するにはそれだけでこと足りる。他者にとってはその程度の、彼にとっては『すべて』という言葉に置き換えることができる存在。それがこのゲーチスという男だった。
「あまり目を酷使してはなりません。……ただでさえNさまの目は光に弱いのです。ほとんどワタクシの姿も見えていない、違いますか?」
Nは小さく頭を振り、瞬きを繰り返したり目を細めたりしながら必死で焦点を合わせようとする。そうして輪郭だけしか捉えられなかった相手の姿をはっきりと捉え、子供のように屈託無く笑った。
「――ほら、もう大丈夫。きちんと見えるようになった」
「そういう問題ではないのですが……久方ぶりに外の世界に出られて、おはしゃぎになってしまうNさまのお気持ちはわかります。しかし、そのようにご無理をなされては体を害します。そろそろお休みになられてはいかがでしょうか」
「キミの言うことが正しいのはわかる。でも、もう少しだけ。まだもう少し考えたい、ボクの中に示された[なぜ]という数式が解けるまで」
再生するかの問いを表示したままの画面に視線を落とし、甘えるようにNは懇願する。曇りのない、純粋でまっすぐな瞳。向けられた視線の先、深い溜め息とともにゲーチスは言葉を紡いだ。
「Nさまのお体がワタクシは心配なのです」
「わかった」
驚くほど素直に頷き、Nは機械の電源を切る。心配されたことがよほど嬉しかったのか、つぼみが花開くように口元をほころばせて笑った。それからぺたぺたと床を歩き、小さなケースの中から目薬を取り出して点眼しようとする――が。
Nの目は光といった刺激に極端に弱い。まだ焦点を上手くあわせることができず、どうしてできないのかと頬を伝う目薬を拭いながら何度も小さく呟いていた。
一連の行動を見ていたゲーチスは遠慮がちに、ワタクシがいたしましょうか、と問いかける。子供でもできるような簡単なことすらできずにいるのが恥ずかしいのか、Nは僅かに頬を紅潮させながら黙ってそれを差し出すことで返答とした。
――――――
彼女たちがいつも持ってきてくれる苦い薬を水で流し込み、一人用にしては大きすぎるベッドに体を横たわらせる。薄明かりに照らされているゲーチスの横顔をぼんやりと見ながら、どうしようかと思う――薬が効いてくるまでの、ほんの僅かな時間。
このまま眠りに落ちるまで目を閉じているのもいいし、本を読んでくれとせびってもいい。困ったような顔をしながらも、きっといつものように話をして聞かせてくれるだろう。そんなことを思いながら視線を上げてゆく。
手を伸ばせば、服に触れられる――軽く摘めば、袖が掴める。そうやってゲーチスの気を引き、報告書から自分の方へと向かせた。落ち着く声色でどうしたのですかと問われ、聞いて欲しいことがあるのだと呟く。
「今日、本当に久しぶりに外に出て……たくさんのことを知った」
空が透き通るように青いこと。緑は生命力に満ちあふれた輝かしい色だということ。光は自分の目を蝕むだけのものではないということ。世界は信じられないほどきれいだったということ。そして、幸せなポケモンがたくさんいるということ。
「ゲーチスが言うように世界は広くて、たくさん色があふれていて、本や映像で見るより、ずっとずっと……きれいだった」
思い出すように、ゆっくりと。薬が効き始めたのか、微睡むような響きが含まれる。ただでさえ聞き取り辛いNの声が更に不明瞭なものとなり、それは耳をすまさなければよく聞こえない。
「そして、……たくさんのトレーナーに、会った。……たくさんの、ポケモンたちの声を聴いた」
ねえ、とまっすぐな瞳でゲーチスへと問いかけた。
「ボクのしようとしていることは、正しいのかな。思い出す度、思うんだ。悲しむ声と、そうじゃない声。世界の真実は、どちらなのか、と。ボクが見ている世界、他人が見ている世界、正しいのは、いったい……」
「……Nさまの腕の中で息絶えた彼らの声、叫び。お忘れになりましたか?」
瞬間、時と共に息が止まる――一定のリズムを刻んでいた心臓の鼓動が乱れ、まるで早鐘を打つようにドッドッという音が耳の奥を叩いた。息をしようとして上手くいかず、酸素を求めて肺が行動を起こせと急かしてくる。激しく咳き込みながら、Nは虐げられた彼らのことを思った。
忘れるわけがない、忘れられるわけがない。どれだけ時間が経とうと癒えず消えず、傷痕となって永遠にNの心に残り続ける――今も残り続けている。
薬による副作用か、生まれ持っての体質か、激しく感情が昂ぶるといつもこうして体が言うことをきかなくなってしまう。感情のコントロールができずに苦しむNへと、ゲーチスが至極申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「申し訳ありません、ワタクシはそのようなつもりではなかったのです。ただ――」
発言を遮るようにNは小さく頷き、唇を僅かに動かした。それは声として形になることはなかったが、唇の動きだけで何を言っているか悟り、ゲーチスが優しくNの背を撫でる。
暖かく優しいその感触に徐々に動悸が収まってゆき、Nはゆっくりと息を吸って吐く行為を繰り返した。唇がもう一度動くが、今度はその動きが僅かすぎたために見取ることができず、ゲーチスは血色の悪いそれへと耳を寄せ、小さく頷いて顔を離した。
「なるほど、怖い……ですか」
ポケモンの解放を謳(うた)うプラズマ団の王として冠を戴(いただ)くNだが、どちらかと言えばそれは周りに讃えられ、冠を戴かされていると言った方が正しい。しかし、純真無垢であることがプラズマ団の――彼を王へと担ぎ出した七賢人達が求める『英雄』の条件となりえるのなら、Nほど相応しい人間もいないだろう。
「王よ、アナタは純粋なお方だ。だからこそ、苦しんでいる」
肯定か否定か、一人では選ぶことさえできない未成熟なNの心。そうしてどうすることもできず、他者……教育係のゲーチスに意見を求める――たとえそれが肯定以外の考えを持たない相手だとしても、だ。
不安げに見上げてくるNを宥めるように、大丈夫です、とゲーチスは言う。口元に浮かんでいるのは違和感を感じずにはいられない完璧な微笑み。
「違いに戸惑うのも無理はありません。しかし、ワタクシはNさまのお考えが正しいと信じております。ワタクシだけではありません、王の元に集った者はすべて、同じ考えをもっているのですよ」
袖を握るNの指が震えているのを見て、ゲーチスは背を撫でていた手を止め、柔らかな頬へと伸ばす。
「それでもまだ怖いと言われるのであれば――」
囁かれる言葉、異常とも思えるほど優しい声色。
「ワタクシだけは、アナタの味方であり続けましょう」
曇りのない視線の先、白金の虹彩が劫火のような輝きを放っていた。
――――――
依存するようにと囲って、縋るようにと追い詰める。
2010/10/20
▲