蜃気楼と鬼ごっこ
いつだって自分より年上の人間は、それだけで大人びて見える。保育園にいた時は、小学生がとても大人に見えた。小学生になると中学生が、中学生になると高校生が。一年生の時は二年生が、二年生の時は三年生が大人に見えたのだ。
 生まれた年というのは些細なことかもしれないが、時に大きな壁となる。わたしもその大きな壁に屈した人間の一人であった。




 ぴんぽんと軽やかな音を立てた呼び鈴にぱたぱたと玄関へ駆ける。扉を開けると、相変わらずださい私服を着た幼馴染が立っていた。

「……英太くん、」

 彼の顔を見ると、涙が出てきてしまいそう。

「そんな寂しそうな顔すんなって」

 わたしをなだめるように笑う英太くんは、つい先日高校を卒業したばかりだった。春から大学生になる彼は、またひとつ年下のわたしを置いて行ってしまう。

「……本当に行っちゃうんだね」
「そりゃあな」

 今日は東京の大学に行ってしまう英太くんの引っ越しの日だった。最後の日だからとわたしに挨拶をしたいと連絡が来たのは昨晩のこと。

「まだ時間あるんだよね? 上がってってよ」
「ありがと」

 靴のかかと同士をすり合わせた英太くんの靴下はド派手な色に変な柄がプリントされていて、そんなものどこに売ってるのかと聞きたくなってしまうけれど、今はそのだささもなんだか憎めない。彼がしゃがんで靴をそろえている間に、わたしはさっさと階段をのぼって自分の部屋の扉を開けた。
 英太くんのためにクッションを一つ出して、そこに座ってもらう。ベッドに背中を預けた彼を横目に、わたしはベッドに腰を下ろした。

「卒業アルバム持ってきた?」
「お前が持って来いって言うから」

 昨晩連絡が来た時に、わたしは卒業アルバムを持ってくるようにお願いしていたのだ。英太くんがたくさん写ったアルバムをわたしも見たかったから。
 彼のリュックサックから出てきた卒業アルバムを開く。初めの方はクラスごとの個人写真で、英太くんは一組だったからすぐに見つかった。

「英太くん、すっごい真顔じゃん」
「うるせえよ」

 なんかちょっと強張った顔をした英太くんが面白い。そのままぱらぱらとページをめくっていけば、なんと高校の合格発表から載っているではないか。それから、入学式、遠足、体育祭、文化祭、体育祭、修学旅行──ありとあらゆる写真のひとつひとつで英太くんを探した。白鳥沢はやたらと生徒数が多いから、英太くんを探すのは結構難しかった。

「……いいなあ」

 このアルバムに、わたしは写っていない。それがとても憎かった。どうして母親はわたしを一年早く産んでくれなかったのだろうか。あるいは英太くんの母親は英太くんを一年遅く産んでくれなかったのだろうか。同じ年ならば、クラス替えのドキドキとか、修学旅行のワクワクとか、新しい生活への緊張とか、そういったものをたくさん共有できたはずなのに。生まれた年がほんの一年ずれただけで、英太くんとわたしの間には大きな壁ができてしまった。

 彼はもうあの白いブレザーに腕を通すことはない。そんなわたしは、あと一年間だけそのブレザーを着ることになる。幼馴染としてずっとずっと一緒にいるのに、わたしはいつも彼の背中ばかりを見ている。
きっと英太くんにとってのわたしは妹のような存在にすぎないのだろうというのは分かっていた。アルバムに写る英太くんの同級生はみな大人びて見える。一つ年上というだけで、英太くんと同じ時間をたくさん共有している。とってもずるい。

「あ、寄せ書きだ」

 最後の方のページの白紙部分には、英太くんに宛てたクラスメートや先生、バレー部の三年生たちのメッセージが所狭しとひしめきあっていて、真っ白のページがカラフルな色で埋め尽くされていた。デリカシーがないかな、と思いつつも、そのメッセージが気になって仕方がない。とくに丸い文字で書かれた女の子からの寄せ書きなんかは、気にならないわけがないのだ。たとえ書かれた内容が当たり触りのないようなことだとしても、どうしてももやもやしてしまう。
 それを考えないように英太くんの担任の先生からのメッセージに目を逸らせば、『東京でもがんばれ』という文字がやたらとわたしの目に刺さった。ただでさえ遠い英太くんがもっと遠くに行ってしまうのを文字という形でまざまざと見せつけられて、まるでそれを見ることを拒否するかのように視界が滲んだ。

「……名前、なんで泣くんだよ」
「英太くんが、ほんとに、東京にいっちゃうんだ、って」

 鼻をすすれば、ずびっと情けない音が部屋に響いた。泣かないって決めていたのに、あっけなくその決意も崩れ去ってしまう。そんなわたしの頭を英太くんはそっと撫でて、「よしよし」なんて言葉をかけた。やっぱり英太くんはわたしのことを妹みたいな存在としか思ってないんだろうな、と感じて、余計に泣けてくる。

「……ごめん」

 涙を手の甲でぐっと拭って、もう一度鼻をすすった。

「謝らなくてもいいだろ」
「わたしが泣いたら、英太くん東京に行きづらくなっちゃう」

 強がって笑顔を作ってみるけれど、それが強がりだということもきっと英太くんにはバレているに違いない。それでもわたしは英太くんを笑って送り出さなくちゃいけないという義務感に苛まれていた。
 だってわたしは、英太くんの恋人じゃないから。英太くんに「寂しい」なんて言葉をかけて引きとめることができる立場じゃないから。恋人だったらどれだけよかっただろうかと思うけれど、幼いころからずっと染みついている年の差の壁をかるがると越える勇気は出せないまま。例えば、これが高校からの付き合いとかだったら、わたしだって平気で英太くんに思いを伝えていただろう。しかし、幼馴染ってものは無条件で隣にいることができる代わりに、重すぎる枷になる。ある意味では邪魔な特権。
 昔から、どんな時でも英太くんは「俺が年上だから」と何でもかんでもわたしの前に立った。もともと世話焼きな彼の性分も相まっていたと思う。それに甘えているうちに、わたしは彼にとって「女」ではなくなってしまっていたのだ。
 わたしは寄せ書きの次のページに少しだけ空いたスペースを見つけて、机の上のペン立てからマジックペンを取り出した。もう一度ベッドに腰掛けて、膝の上でアルバムを開く。何を書こうかと考えながら、わたしの手元を覗き込む英太くんの横顔を見た。

「……」

 すっと通った鼻梁に、凛々しい眉毛は昔から変わらないままなのに、少し視線を落とせばわたしよりもしっかりとした肩幅に骨ばった手が目に入る。それは英太くんがもう子供ではないことをわたしに教えてくれた。その手でわたしじゃない女の子を抱いてきたこともあるかもしれないと思うと、どくりと嫌な音が頭の中で響く。寮生になった彼の高校進学と同時に、一気に話す機会がなくなってしまったから、わたしは彼が高校生の間にどんな恋愛をしたのか、知らなかった。話す機会があったとしても、知るのが怖くて、耳をふさいで目を背けてきていた。

「いいや」

 わたしはそれだけ吐き捨てた。そして、ただ苗字名前とだけ書いて、マジックペンを床に投げた。それ以上はなにも書いていない。

「いいのかよ」

 それを見た英太くんが苦笑いをする。わたしはそれに構わずにそっとアルバムを閉じて、英太くんに返した。

「今生の別れじゃないもん」

 ここに別れの挨拶を書くのは違うと思ったのだ。そんなものを書いてしまったら、いよいよ英太くんはわたしの手の届かない遠い遠いところに行ってしまうような気がしたから。まだ手の届くところにいて欲しい。ふらっと宮城に帰ってきて欲しい。そんな思いを込めて、わたしは白紙のメッセージを英太くんに送ったのである。




 英太くんが宮城にいる最後の日。話したいことはいっぱいあったはずなのに、いざ英太くんと二人になってみると何も出てこない。わたしは結局意気地なしのまま終わってしまうのだろうと肩を落として、わたしの部屋をぼうっと眺める英太くんをぼうっと見ていた。

「大学でもバレーやるんだよね」
「高校ほどガチなやつじゃないけどな」
「バイトは何するの」
「まだ何も考えてねえや」
「一限ちゃんと起きられる?」
「へーきへーき、朝練してたんだぞ」

 意味のない質問を繰り返す。ただ遠ざかる英太くんの輪郭を少しでもはっきりさせたいというわたしの小さな抵抗。どうせわたしがこういうことを言わなくったって、英太くんはしっかり者だから一人暮らしもそつなくやってしまうのはわかりきっているのだけど、それでもわたしは新しくなる彼の一つ一つを指でなぞるようにいっぱい質問をした。

「お隣さんはどんな人?」
「まだわかんねーな」
「近くにスーパーはある? 自炊する?」
「あるし、なるべく頑張るつもりだぞ」
「新しい家はどんなお部屋?」
「東向き。そんなに広いとこじゃねーけど、結構いいところだぞ」
「大学まではやっぱり電車?」
「そう、電車」

 いちいち新生活に胸を躍らせるようにうきうきとした返事。次から受験生になるわたしはこんなにも気が重いというのに、英太くんはどこまでも軽やかな心を弾ませていた。

「ねえ、英太くん」
「ん?」

“わたしのこと、どう思ってる?”……なんて、聞けやしない。
“わたしのこと、忘れないでね”……なんて、そんな呪縛をかけられやしない。

「……楽しんでね、大学」
「もちろん!」

 屈託のない笑みを浮かべる幼馴染は、遠い所へ行ってしまう。

 こうやって一歩先を行く背中に手を振るのも、もう四度目。そしてきっと、最後。英太くんを追いかけてわたしが猛勉強したことを英太くんも知っているけれど、さすがに大学選びは英太くんに左右されるわけにもいかない。それはお互い承知のことなのだ。

「じゃあ、俺はそろそろ」
「……うん」

 ああ、英太くんが行ってしまう。わたしは彼を引きとめるすべを持たないのに。
 わたしの横でクッションに腰掛けている英太くんが立ち上がる動作が、やけにゆっくりと見えた。部屋の隅に置いたリュックに手を掛ける動作も、そこからゆっくりそれを背負う動作も、すべてがスローモーションに見える。

「──英太くん、」

 気付けば、わたしは英太くんの服の袖を掴んでいた。自分でも驚いていた。英太くんをここに引きとめちゃいけないし、わたしがそんなことはできない。そうわかっているのに、体はまるでいうことを聞いてくれなかったみたいで。振り向いた英太くんの顔を見たら、さっき必死で止めた涙がぼろぼろとまた質量を持ってわたしの頬を濡らし始めた。

「あーもーほら、泣くなよ」

 英太くんはまるで小さい子をなだめるようにわたしの肩をさする。ひく、と息を吸いしゃくりあげれば、彼はわたしの背中を撫でた。

「ときどき宮城には帰ってくるから」
「……うん」

 小さく頷いて、わたしは俯いた。最後に見せる顔がこんなにも情けない泣き顔であることがとても悲しいけれど、これ以上はどうしようもない。

「帰ってきたら、ちゃんとうちにも遊びに来てよね」
「おう、行く行く」

 行くから泣くなとわたしをなだめる英太くんは、今わたしに触れているのに。伝わる体温に紛れて、まるでインクのように寂しさがわたしに染みていく。
 どうせこの重すぎる気持ちは、歳の差という壁をいつまでも越えられないのだろう。再びわたしに背を向けた英太くんの背中を見て、そう思った。
 目元をごしごしと拭って、階段を下りる英太くんの背中を追った。玄関で靴を履いた英太くんは、もう。

「名前」
「……またね」

 英太くんのつま先から、ゆっくりと視線で体をなぞりあげる。本当に何をどうしたらそうなるのかわからない私服に、つい笑ってしまった。英太くんがこれで大学に行くのなら、彼女が出来るのは当分先かもしれない、なんて。
 うそ。英太くんはかっこいいから、優しいから、とても頼りになる素敵な男の子だから、とってもかわいい女の子とつきあって、私服のセンスなんてすぐに叩き直されてしまうに違いない。

「元気でね」
「名前もな」

 うまく笑えないまま、胸の前で手を振った。




 自分より年上の人間は、それだけで大人びて見える。わたしにとっての英太くんもそういう存在で、だからわたしが英太くんの学年になるときには、まるでするりと逃げるように英太くんも一つ上の学年になってしまった。それはずっとずっと続く。生まれたタイミングが少しずれただけなのに、そのほんのわずかなラグがわたしの心臓に消えない鎖を。
 もし、わたしが一年早く生まれていたら。もし、英太くんが一年遅く生まれていたら。そんな反実仮想も、結局は机上の空論にすぎない。たらればに思いを馳せて泣きたくなるほどわたしにとってその壁は厚いけれど、わたしがどうにかできる代物ではなかったのだ。




 英太くんの家の前に停まった引っ越しのトラックが発車する。
 わたしはそれが見えなくなるまで手を振り続けてから、己がまだ高校二年生であることを恨み、受験生になることを恨んだ。
 わたしが鬼で、英太くんが逃げる方。わたしたちの鬼ごっこは永遠に終わらない。そう表現してみたところで、結局英太くんはどこまで追いかけたって捕まらないような気がする。英太くんはまるで蜃気楼みたいだ。
 なんだか虚しくなってきたけど、それでも。
 試しに東京の大学を受験してみようか、なんて。

 気を紛らわすように空を見上げたら、卒業式には間に合わなかった桜の花びらがふわりと舞う。滲んだ視界に浮かぶそれは、まるで蜃気楼みたいだった。




この度はこのような素敵な企画に参加させていただきありがとうございます。
春には出会いや別れや桜など、ありとあらゆるイメージが付きまとって離れないものですが、当方は「別れ」に焦点を当ててみました。他の皆様が春のどのような側面を切り取っているのか今から楽しみで仕方がありません。どうぞ、他の皆様の小説もお楽しみ下さい。



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