いちご大爆発
まだ着慣れない真新しい制服に身を包み、今日から通うことになった学校内に足を踏み入れる。気合いを入れて早く来すぎてしまった。今から入学式までまだ一時間以上ある。一緒に来た母親は自分の同級生と懐かしの再会を果たしたらしく、かなり話が弾んでいた。だから邪魔にならないよう席を外し、こうやって一人、歩いている。
さすが私立とあって校内もかなり綺麗だ。丁寧に掃除がされていて、歩くたびに靴底がキュと鳴る。もう少しで満開を迎える桜の花が窓からのぞいていて、澄み渡る青空にとてもよく映えている。時折柔らかな風に揺すられる様は、わたしの心を代弁してるようにも感じてしまう。だって、期待と不安が入り混じったわたしの心は、心許なく風に晒される桜の花びらによく似ていたのだ。
窓の外をぼんやり眺めながら歩き続ける。聞こえてくる喧騒が、新入生が少し増えてきたことを知らせている。そろそろ会場に向かおうかな。たしか突き当たりを曲がれば体育館があったはず。そう思って前方へ視線を戻した。その瞬間だった。

「うわっ」
「きゃっ」

わたしの小さな悲鳴と男の子の驚いた声が重なり、肩の辺りに鈍痛が走る。反射的にそこを押さえてぶつかった相手を見れば、部活にきていたのだろうか、ジャージ姿の生徒が呆然と立っている。彼は、わたしの姿を確認するとみるみるうちに青ざめていった。嫌な予感がして彼の視線をたどれば、わたしの真っ白だったブレザーにかわいいピンクの水玉模様ができている。そして、そこからは甘くて美味しそうな香りが漂っている。春の香りだ。くらくらと目眩がするくらいにあまいあまいあまいいちごみるくの香りだ。

「お、おい……大丈夫か?」

水玉模様を笑顔で見つめるわたしがよっぽど不気味だったのだろう。躊躇いがちに声をかけられたものの、わたしの頭は現実を受け入れたくなくて考えることを放棄していた。声を出すことさえままならない。にこりと口角を上げたまま目の前に立つ人を見つめると、彼はごくりと喉仏を上下させ、わたしの胸元に一度視線を落とした。それからは説明するのも煩わしいとばかりにわたしの二の腕を掴んで歩き始めた。

「新入生だよな? とりあえずそのブレザーどうにかするからちょっと来てくれ」

どうして新入生だと分かったのだろう。彼が見てた自分の胸元をちらりと見ると、なるほど。ポケットには新入生の証である花飾りが差し込まれている。のろのろと動くわたしを半ば引きずるように彼は小走りになった。
まいった。今現在何が起きているのかも分からないし、これから何が起きるのかも分からない。何も考えられない。というか考えたくない。頭が真っ白なまま、されるがままについていくと、連れてこられたのは「バレー部」と書かれた扉の前だった。中からは男の子の笑い声がぎゃはぎゃはと聞こえてくる。
まさかこの中に連れ込まれるの? わたしは一体どんな目に合うの? ぶつかったからシメられるの?
危機感が湧き起こり、掴まれた腕を振り払おうとした瞬間。わたしを引きずってきた人がバンと勢いよく扉を開けたので、わたしと彼に一気に視線が突き刺さった。

「うわっ、隼人くん、おかえり」
「その女子誰よ?」
「新入生じゃないんすか?」

ロッカーがずらりと並んだ部屋の真ん中にベンチが置いてある。ここは部室だろうか。練習を終えて時間はあまり経っていないようで着替え中の半裸の部員もいるし、雑誌を読みながらくつろいでいる部員もいる。ひとまずぐるりと中を見渡しはしたけど、視線を落ち着かせられる場所がどこにもない。そのうえ幾多もの視線に串刺しにされているので、身動きが取れない。
好奇の目からどうにかこうにか逃れようと隼人くんと呼ばれた人の背中に隠れる。けれど、それもすぐに意味がなくなってしまう。腕を振り払い損ねたせいでそのまま部室の中まで引きずられる。中に入りたくなくて足を棒にして突っ張ったけれど男の子の力には到底敵わなかった。

「よし、脱げ」
「えっ?」

脱げとは……? 言われたことが理解出来ず固まって口をポカンと開けて隼人くんを見る。いや、隼人先輩と呼ぶのが正しいだろう。おそらくわたしよりも年上だ。

「は、隼人くん。急にどうしたの。さすがにここでは……」

凍りついたように動かないわたしの代わりに部員さんが疑問を投げかけてくれる。助けてほしいという気持ちを込めてフォローしてくれた先輩を見れば、眉尻を下げて困惑したように「ねぇ……?」と同意を求められた。けれど、隼人先輩は聞く耳持たず、である。「早くしろって。落ちなくなるだろ」とわたしのブレザーのボタンに手をかけようとした。

「わぁ! やりますやります! 自分でやりますってば!」

隼人先輩の言葉で彼方へ旅に出ていた意識がやっと戻ってきた。彼はどうにかしてこの可愛らしい水玉模様を消し去るつもりらしい。慌ててブレザーを脱ぐと、隼人先輩はロッカーから取り出した何かをすかさずわたしの肩にかけてくれた。柔軟剤の香りとそれに混じってわずかに香る制汗剤と男の子の香りになんだか胸の鼓動が早くなる。

「絶対に入学式までに間に合わせるから。とりあえずこれ着といてくれ」

急にブレザーを脱いだので肌寒く感じていたところだった。手元をみれば隼人先輩が着ているジャージの上と同じものがかけられている。新しいものをわたしにかけるために、注目されるのも意に介さずわざわざ部室へ寄ってくれたのだろうか。相変わらず現実に頭が追いついていないけれど、隼人先輩の気遣いに体だけじゃなくて心まであったかくなる。混乱していた気持ちも少しだけ落ち着いてきた。部員たちはわたし達のやり取りを見て、ほぼほぼ状況を理解したらしく何も言わずに見守ってくれているようだ。
隼人先輩は彼らに洗濯室に行くことを告げて、再びわたしの手を引いた。さっきはいきなりのことで状況が理解出来ていなかったけれど今は違う。男の子と手をつないで走っているという事実でのぼせてしまいそうなくらいに体が熱い。
隼人先輩は多少わたしに気をつかって走るスピードを緩めていたようだけど、さすがに運動部とは体力も筋力も違う。洗濯室に着く頃には息もあがってしまい、はあはあと肩で呼吸をしながら胸を押さえた。なんとか入学式に間に合わせようと隼人先輩も焦っているんだろう。「悪い。ちょっと座ってて」とわたしをベンチに座らせると、ブレザーを抱えてさっさと流し台の方へ行ってしまった。
洗濯室には洗濯機と乾燥機がコインランドリーのように所狭しと並んでいる。そのうちのいくつかはすでに使用されていて、ぐわんぐわんと音を立てていた。
わたしは隼人先輩の言葉に甘えてゆっくりとベンチに腰かけた。呼吸を整えながら隼人先輩の背中を見る。ほどよく鍛えられた背筋が男の子らしくて釘付けになる。なんだかどうしてここへ来たのか目的を見失ってしまいそうだ。隼人先輩は「おーし」と言いながらジャージの袖をまくって、シミ抜きの洗剤を手に取った。

「洗濯、得意なんですか?」
「んー? まあ得意っていうか、寮生だから自分でやらないとだし、部活でも一年のときは洗濯ばっかやってたし」

ブレザーを丁寧に確認しながら洗剤を塗ってゆく。それから少し水で濡らして優しく叩く。手慣れている。わたしなんて母親にやってもらってばかりなのに。
そうなんですね、と返事をすると静寂が訪れた。隼人先輩はわたしのブレザーのシミ抜きに集中している。わたしも洗ってもらっている身なので邪魔は出来ない。数分の間、ぼんやりと隼人先輩の背中を眺めていると、そのうち、動いていた洗濯機の一つがピーピーと音を立て、動きを止めた。

「よし! なんとか落ちたぞ。ちょっと見てくれ」

こちらを振り向いた隼人先輩がわたしを手招きしたので、ちょこちょこと近づいて手元を覗き込む。淡いピンクの水玉模様はすっかり落ちてしまっている。

「すごい! 本当に落ちちゃいましたね」
「だろ?」

顔を上げると思わず息をのんだ。屈託なく笑う隼人先輩と視線がぶつかって、それが思いのほか近かったからついつい瞬きを忘れてしまう。だけど、隼人先輩は特に気にする様子もない。そのまま手元のブレザーに視線を戻し、「入学式何時から?」と言いながら皺をパンパンと伸ばした。

「九時半です」
「じゃあ間に合うな。乾燥させるか」

隼人先輩はブレザーのタグを確認して乾燥機に入れると、慣れた手つきでスイッチを押した。それから、ベンチに腰かけてふぅーっと長い息を吐いて、「あーよかった」と手を後ろに突き、力が抜けたように天を仰いだ。今から入学式を迎える新入生の制服を汚してしまったという事実が相当重かったのだろう。

「あの、ごめんなさい。わたし、ちゃんと前見て歩いてなかったから」
「何で謝んの? 悪いのは俺だって。ジュース片手に歩いたりなんかして。ほんと悪かったな」

それはそうかもしれない。でもお互い様だ。まだ入学式も始まってないのに早速制服を汚し、先輩にまで迷惑かけてしまって、すっかり気分は沈んでいた。所在なく流し台の近くで突っ立って隼人先輩のジャージの裾をつまんで俯いていると、見かねた隼人先輩がわたしをちょいちょいと手招きした。
先輩がにこにこと人当たりのいい笑みを浮かべて自分の隣を指差すので素直に従ってそこへゆっくり腰を下ろす。でも座ってから気づいたけれど、こんなに近くに座ってもいいのか不安に思う。だって、触れてもないのに先輩の体温が伝わって体の半分があったかい。

「いちごみるく好きか?」

色々な意味で緊張して体を強張らせるわたしをほぐそうとしてくれているのが分かる。先輩は足を組んでそこへ肘をのせ、頬杖をつきながらわたしを見た。その優しく細められた目がわたしの鼓動を乱して、先輩をまともに見られない。思わず返事がぶっきらぼうになって、一人で勝手に焦ってしまう。

「普通です」
「あ、そう……」

そんなわたしの返事に隼人先輩は言葉に詰まってしまったようだ。本当にわたしって馬鹿! 折角話を広げようとしてくれてるのにこれじゃあここで話が終わってしまう。先輩は次の話題を探してるようで「んー」と頬をかいて天井を見上げた。だから慌てて話を広げる。

「先輩は好きなんですか?」
「俺も普通だけど」
「じゃあ何で飲んでたんですか?」
「あれ、春季限定でいちごが濃くてうまいんだよ」
「へえ、そうなんですね。それなら飲んでみたいかも」
「じゃあ、明日。お詫びに奢る」

驚いて先輩の目をじっと見ると「だから昼休み教室で待っててくれるか」とにかりと笑った。どうしてくれるんだ。おかげさまで心臓が自分のものじゃないみたいに早鐘を打っている。
熱くなる頬を隠すように顔をそらせ、こくこくと頷くとタイミングよく乾燥の終了を知らせるメロディが鳴った。わたしが立つよりも先に乾燥機からブレザーを取り出した隼人先輩が「ほら」と言って着せようとしてくれるので、広げられたブレザーの袖に腕を通す。それから、胸元に新入生の証である花飾りを差してくれようとした瞬間、「あっ!」と先輩が大きな声を出したのでわたしは思わずびくりと肩を震わせてしまった。

「どうしたんですか?」
「悪い。ここ、まだ残ってた」

見ると、胸ポケットの辺りに桜の花びらのような、ハートのようなピンク色のシミが残っている。でも、いい。なんだか春の刺繍みたいで心がじんわりあったかくなる。どうせクリーニングに出したら消えてしまう。それまでの期間限定の刺繍を眺めて今日のことに想いを馳せたい。

「いいですよ、これくらい。かわいい形してますし」
「そう言ってくれて助かる」

眉尻を下げた先輩の顔を下から覗き込んで、にこりと微笑む。わたしの一番かわいい笑顔を先輩の虹彩に焼けつけたくて。

「じゃあ先輩、また明日。絶対ですよ」
「おう。じゃあ俺から緊張を解す魔法の言葉を」
「はい」

ぴんと背筋を伸ばして先輩の言葉を待つ。先輩は仁王立ちになって腰に手を当て、後輩を奮い立たせるような先輩らしい雰囲気を醸し出している。どんな言葉をかけてくれるのだろう、と楽しみにしていると。

「洗濯を選択してよかった」
「……先輩、寒いです」

ぴゅーと落ち葉が渦を巻いて、わたしの周りだけ木枯らしが吹く。不満気に顔をしかめると、隼人先輩は手のひらを額にあてて「ダメだったかぁ」と項垂れた。悪いことをして叱られたハスキー犬みたいで、ついついぷっと吹き出してしまう。

「あはは。でも緊張は吹き飛びました。ありがとうございます」
「ならよかった」

手を振る先輩にお辞儀をしてスカートを翻す。どんな高校生活が待っているのだろうと期待に胸を膨らませ、入学式へ向かう。そんなこと言ったって、どうせ隼人先輩のことしか考えられないこと、分かってるくせに。




入学式の次の日、昼休みを知らせるチャイムが鳴って程なくすると、隼人先輩は「苗字!」とわたしの名前を呼びながら現れた。どうして知っているのかと問えば、キョトンとしながら「名札に書いてただろ」と言われてしまい、それもそうかと恥ずかしくなった。わたしのこと、気になって調べてくれたのかな、なんて一瞬でも舞い上がってしまった自分が馬鹿みたいだ。
だけど、その、頭上に疑問符を浮かべているようなキョトン顔が可愛すぎてすぐにどうでもよくなってしまう。どうやらわたしは単細胞で出来ているらしい。
それからも隼人先輩は校内で会うと「学校慣れた?」とか「新しいダジャレ思いついたんだけど」とか色々声をかけてくれた。わたしも隼人先輩を見つけると「山形せんぱーい」と大きく手を振った。
隼人先輩の苗字は簡単に知ることが出来た。わたしとは違って有名人だから、バレー部で黒髪、名前が隼人だと言えばリベロの山形先輩だと親切なクラスメイトが教えてくれたのだ。本人やクラスメイトの前では「山形先輩」、だけど心の中では初めて会ったときのように「隼人先輩、隼人せんぱい、はやとせんぱーい!!」とこっそり叫んでいる。 そうやって、声をかけてくれる度に駆け出したくなる衝動を抑えていた。
入学してから半月も経つと、もうすっかり胸ポケットの春の刺繍は消えてしまっていた。だけど、胸に深く深く染み込んで刻み込まれている。そしてそれは、わたしに活力を与えてくれるものであり、同時に周りを見えなくさせるものでもあった。
初夏目前、衣替えの季節。隼人先輩と出会うきっかけとなったこのブレザーとの別れが無性に寂しかったある日のこと。移動教室の最中に先輩を見かけたのでいつものように声をかけようとすると、先輩の隣で女の子が笑っていることに気がついた。
わたしよりも大人っぽくて綺麗なひと。隼人先輩も後輩に向けるような優しい顔じゃない。同級生に向ける気を許したような無邪気な顔で笑っていて、わたしの心臓は荊で締め上げられてしまったみたいに悲鳴をあげた。
どうやら先輩の袖のボタンに女の子の髪が絡まってしまったらしい。二人で顔を近づけて四苦八苦していて、入っていけない雰囲気にその場に縫いつけられてしまった。わたしの知らない先輩の世界があるということ。冷静に考えれば分かることなのに、わたしはそれが嫌で嫌で仕方なかった。
どうしてもむしゃくしゃしてしまうので、気持ちが落ち着くまでの間、先輩を見かけても気づかない振りをした。姿を見れば回れ右。目が合いそうになれば隣の友人に大げさに話を振る。だけど、そうすればするほどに隼人先輩への想いが募って、のどに真綿でも詰められてしまったみたいに息苦しくなった。
今日も今日とてそれは同じだ。昼休み、お弁当を食べ終わってもまだ少しお腹がすいていて、購買に行こうと階段を下りていると向かう先に隼人先輩がいた。いつも誰かと一緒にいる先輩が今日は珍しく一人だ。
本来のわたしならこの状況をチャンスだと捉えるかもしれない。でもまだ、心のもやが晴れていない。そんなことを考えて躊躇っていたら、先輩がわたしを見た。ばちりと目が合って先輩が優しく口角を上げる。弾かれたように目をそらせたわたしは、踵を返そうと急いで体をひねった。だけど、頭と体はちぐはぐで、足がうまく動いてくれない。再び階段を上ろうと力を込めた足はずるりと滑って行き場をなくした。

「おい!」

思わず目をつぶってしまったから何も見えない。隼人先輩の声がやけに近くから聞こえるし、襲ってくるはずの痛みも何も感じない。代わりに背中にあたたかな体温を感じるし、嗅いだ覚えのある甘酸っぱい春の香りに包まれている。目を開けるのが怖い。何を言われるのか、何が起こっているのか、現実を目の当たりにするのが怖い。隼人先輩が耳元で息を吸う。視覚以外の感覚が研ぎ澄まされて敏感になっている。羞恥と焦燥が頬を染め、その刺激にびくっと体を震わせる。

「せ、せんぱ……」
「馬鹿! 俺のこと避けるのはいいけど前はちゃんと見ろ!」

今まで聞いたことない大きな声に驚いて目を開けると、眉を釣り上げた隼人先輩がわたしの肩を強く掴んだ。先輩の瞳がわたしを捕らえる。鋭い漆黒に吸い込まれてしまったみたいに目がそらせない。目は口ほどに物を言う。先輩は言葉以上に怒っているような気がした。

「ごめんなさい……」
「もういいよ、無事だったんだし。それより謝らないといけないのは俺だから」

先輩のついた小さなため息がぴんと張り詰めていた緊張の糸を緩めた。俯き加減になった先輩の視線の先を追うと、ピンクの水玉模様がついたわたしのブレザーの袖に行き着く。
先輩、またいちごみるく飲んでたのかな。普通って言ってたけど、これは好きの域に達してるのでは? なんて、呑気な考えがふよふよと頭を泳ぎ始めた頃、先輩は悪戯少年のようなあどけない笑みを浮かべて「さ、行くか」とわたしの手を引いた。どこへですか、なんて質問は野暮だ。わたしは、ぜんぶぜんぶ知っているのだ。
手を繋いだわたし達はバレー部の部室に辿り着いた。それから先輩はジャージをわたしに投げて寄越し、分かってるだろ、と挑戦的に白い歯を覗かせた。わたしも負けじとブレザーを投げつける。手元がくるって先輩の頭にバサリと落ちると、どちらともなく笑いが起きた。ひとしきり笑い合って、また、おんなじように手を引かれる。
先輩の斜め45度後方。どんな顔をしてるかわからない。だけど足取りが軽い。それはわたしだって一緒だ。先輩の体温は考えることを放棄させる。悩みなんて吹き飛ばしてしまう、とんでもない代物だ。

「ていうか何で避けてたんだ」
「関係ないです」
「そうかよ」

先輩は少し拗ねたような声色で返事をした。関係なくはない。むしろ関係者でしかない。だけどわたしも拗ねている。だって、繋いだ手のひらにドキドキしてるのはわたしだけみたいで。

「先輩は彼女とかいるんですか」
「いないけど、そういう苗字は」
「いないですけど」
「そ」

わたしがついて来てるか確認するように振り返った先輩は目元をくしゃりとさせて嬉しそうに笑った。わたしのこと、何とも思ってないならそうやって期待させるような眼差しを向けないでほしい。脈打つ音がやけに大きく体の中で響いている。
カチャリと開けた洗濯室は誰もいない。しーんと静まり返っていて、わたし達の足音と衣擦れの音だけが空気を揺らす。
先輩は「ちょっと座ってて」と言って流し台に向かった。わたしはその背中をじっと見つめ、先輩の言葉に反抗するように一歩先輩に歩み寄り、ちいさく息を吸う。

「隼人先輩」

洗剤を片手に先輩が振り返る。驚いて見開かれた先輩の瞳に映るわたしは思いのほか好戦的な顔をしている。誰よりも近くで先輩を見たくて、また一歩、歩み寄る。

「って呼んでいいですか」

首をかしげて唇を突き出しトドメを刺す。後ろで組んだ手でこっそりスカートをつまんで緊張を隠しながら。
真剣な目をした先輩は一度だけこくりと唾を飲み込んだ。それからわたしの挑戦状を受け取るみたいに向き直って、腕を組んで目を細めた。

「いいけど、そしたら俺も名前って呼ぶけど」

予想してなかった言葉にぶわりと頬が熱くなる。誰に呼ばれても特に何も思わない自分の名前が、先輩の声に乗せられただけで特別なものに感じてしまう。目頭が熱くなって金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、隼人先輩は勝ったとばかりに「はは」と笑い声をあげた。

「名前呼ばれただけで赤くなっちゃってかわいいな。さすが一年生ってかんじ」
「そういう隼人先輩だって耳赤いですけど」
「俺は照れてるんじゃなくて嬉しくてテンションあがっちゃってこうなってんの!」

ムッとして唇を噛み、涙目で睨みあげても、先輩の裏のない言葉に力が抜けてしまう。肩を落としてベンチに腰かければ先輩は流し台に向き直って、ブレザーを優しく叩いた。
このまま時間が止まればいいのに。足をぶらぶらさせながら時計を見上げても、針は仕事を休んでくれない。カチリと長針が動いて無情にも予鈴が鳴ってしまった。

「悪い、乾燥間に合わねえからそれ着といて」
「えっ、これ着たまま授業出ろって言うんですか」
「そうだけど、嫌ならやめるか」
「嫌じゃないです、けど……いいんですか」
「いいよ。ってかその方が手っ取り早い」

なかなか核心に迫る言葉を紡いでくれなくてもどかしい。こんなの、わたしの都合のいいように解釈してしまうじゃないか。隼人先輩のジャージの胸元をくしゃりと握りしめて、ブレザーを乾燥機に入れる先輩をじと目で追う。

「どういう意味?」
「どうって、それが分からないんじゃまだまだお子ちゃまだな」
「むっ!?」
「遅れるぞ、走れ!」

乾燥機のメロディを鳴らした先輩がくるりと振り向き、目が眩むほどにまばゆい笑顔で手を伸ばしている。
この手を取れば、恋を知る前のわたしには戻れない。だけど、戻れなくていい。胸に未だ残る桜の花びらは、わたしの恋心の証なのだ。
ゆびさきの感覚をぎりぎりまで研ぎ澄まし、ゆっくりと手のひらを重ね合わせる。そこで生まれた温度は二人以外触れることができない、不可侵の色彩を放っている。




この度は素敵な企画に参加させていただきありがとうございました。春らしい、初々しく瑞々しい恋のお話を目指しました。山形くんは恐らく白鳥沢メンバーの中でマイナーなキャラクターに位置づけられていると思いますが、実はとってもかっこよくて男前な男の子なんです。少しでもその魅力が伝われば幸いです。



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