加奈子の短い1日 | ナノ





加奈子の短い1日



最近は春の陽気はすっかりなくなり、じめじめとした日本特有の第五の季節とでも言うべき梅雨。午前5時、少し季節には早いが蝉が鳴き始めていた。

カーテンを開け放てば、この時期には貴重な太陽が顔を出していた。ああ、今日は暑くなりそうだと思いながら、加奈子は朝の仕度をする。彼女の朝はいつも早い。出勤前に弁当を作り、届いた新聞に隅まで目を通す。そして最後には織り込みチラシを確認して夕飯を決める。いかに安く食材を仕入れるか、それをどう工夫して美味しく仕上げるか。そんな事を考えていると、朝の時間はいくらあっても足りない。

一通り洗濯物を干し終えると、付けっぱなしにしていたテレビから天気予報が流れる。

『本日は貴重な晴れ間となるでしょう。それでは次のコーナーは、今日もバリバリ占いです』

信憑性にいまいち欠ける占いを見てから、加奈子は出勤する。今日のさそり座の運勢は1位だった。

「さて、行くとするかね」

テレビを消し、戸締りを確認して加奈子は家を出る。家の中と違い、外はやはり蒸し暑かった。車庫に置いてある車に乗り込み、勤め先である稲葉大学付属病院へと向かった。

加奈子の出勤時間は、丁度学生の通学時間と被る。通学路の途中で立ち番をしている保護者に軽く会釈をすると、その保護者も加奈子に軽く会釈をした。

クーラーを付けずに、窓を全開にして車を走らせる。信号待ちをしていると、何処からか小学生の元気な声が聞こえた。

「えー!!おまえ昨日のクイズ王見てないのかよー!!」
「仕方ないよ〜。だって昨日ねーちゃんがいい年して僕にちょっかいかけてきたんだよ〜」

ここの信号は変わるまでが長いんだよね。と思いながら、加奈子はその小学生の会話に耳を傾ける。

「昨日のほんっと面白かったんだぜ!!」
鼻の頭に絆創膏を貼ったやんちゃそうな少年が話を続ける。
「アイドルのキアロちゃんが出てたんだけどさ、すっげぇ珍回答ばっかすんだぜ!!」
「え〜観たかったな〜」
少し気が弱そうな少年がその話を聞きながら、昨日の事を話す。
「僕の部屋にねーちゃんが入ってきたんだけど〜、ノックの仕方が運命なんだよ〜。そんでいきなり螺旋丸を…」

信号が青に変わった為、加奈子は車を走らせた。一体あの少年の姉は何がしたかったのだろうかと、物凄く気になったが止まる訳にもいかなかった。

暫く車を走らせると、この街で一番大きな病院が見えてくる。稲葉大学付属病院。エリカが通っている稲葉大学の付属病院になる。そこの職員駐車場に車を停め、加奈子は院内へと入った。

院内にはインターン生や、職場体験中の中学生や実習生がちょこちょこ見えた。中学生にはこういう体験を通して、もっと医療の現場に興味を持ってもらいたいと思いながら、加奈子は仕事を始める。稲葉大学付属病院は急性期病院だが、内科医である加奈子にとっては慢性的な症状を持つ患者の方が多く、ほとんどの患者と顔馴染みだった。今日も顔馴染みのおじいさんやおばあさんが加奈子の元へと訪れて診察を受けていった。

午前は診察を行い、午後は会議やチームの話し合いに参加する。一息吐ける暇がないほど、今日は忙しい。

「ふー、やれやれ…」
「お疲れ様です藤嶋先生」
「おや?あらまぁ、どうもありがとう」

まだ若い看護師が加奈子に一杯のコーヒーを淹れてくれた。その若い看護師は非常に勉強熱心で、時折加奈子に様々な質問をしてくる。その度に加奈子は判り易く丁寧に教えた。今回もコーヒーを淹れたついで、といってはなんだが、加奈子に色々と尋ねた。

「ああ!なるほど!!やっぱりケースによっては病状が似ていても、全く別の事があるんですね」
「そうそう。だから安易に結論を出すのはよくないのよ。間違って逆の薬を投与、何て事になったら大変だからね」
「そうですね。判りました。藤島先生有難う御座いました!先生の教えは判り易くて…。私、大学の時に先生が講師だったら良かったのになぁ」
「そうかい?大して変わらないと思うけどねぇ」

「藤嶋先生、お話中失礼します。栄養課の斉藤さんからお電話です」

「はいはーい。今出ます。それじゃ、後も頑張って」
「はい!有難う御座いました!」

加奈子は電話を取り次いでもらう。

「お疲れ様です、お電話変わりました藤嶋です」
『お疲れ様です。栄養課、斉藤です。今度のNSTの事なんですけれども…』
「ああ、その件でしたら…」

暫く話し合い、加奈子は電話の受話器を置いた。

「また、カルテを確認しておかないとねぇ…」

そう呟いて先程淹れて貰ったコーヒーを一口飲んだ。

「あちち」

思いの他熱かったコーヒーを置いて、書類の処理をこなしていく。
全ての書類を片付け、それぞれの部署にファックスを送る。それからいろいろとしているうちに、退勤の時間となった。今日は普通勤だからこれで帰宅だ。夜勤で残る人達に挨拶をして、加奈子は病院を後にした。

朝とは逆の道を車を走らせる。チラシでチェックしたセールの品はまだ残っているだろうかと、思いながら近所のスーパーへと向かう。

買い物籠片手に、加奈子は食品売り場を見て回る。どうやらセールの品はまだ残っていたようだ。

「ラッキー」

朝の占いもあながち外れてはいなかった事に感謝しつつ、更に品物を見て回る。すると青果コーナーで、もやしを前に少し悩む青年の姿があった。

「おや?山口君じゃないかい」
「あ、藤嶋先生じゃないですか。今帰りなんスかー?お疲れ様です」

確か優太の友人で、実は優太に負けず劣らず色々と持ち合わせている、山口友彦が居た。そんな彼が何故、こんな所でもやしを片手に悩んでいるのか。

「もやしがどうかしたのかい?」
「やー、ホラ。俺一人暮らしじゃないッスかァ」
「そうだっけ?」
「そうですよー。で、ほら、もやしってやすいし量増えるし、重宝してたんですけど、いい加減飽きてきてー。今日バイトもないし、まかないないし、晩飯何にしようかなーって。いやー、でも、俺もやし好きだしなぁ」
「アンタ自炊してんのかい!?」
「え!?そこに驚きます!?」
「いやー、ホラ、アンタ自炊しなさそうっていうか、なんていうか」
「ひでーッスねー。ビンボー学生は金がないんですってばー」
「そーかいそーかい。あ、そうだ。今日キャベツが安かったし、お好み焼きにしたらどうだい?もやしを混ぜればかさましにもなるしさ」
「あ、それいーッスねェ〜。じゃ、晩飯お好み焼きにすっかなー。藤嶋先生、どうもでした」
「いやいや。自炊する男子をわたしは応援するよ」
「どーも。じゃっ、お疲れっしたー」

山口はもやしを一袋掴むと、そのままお好み焼き粉を買う為に、他の売り場へと向かっていった。

「っていうか、もやし好きっていう人、初めて会ったかもしれないねぇ…」

加奈子はもやしの隣に在った生姜を手に取り、他の場所を回る。すると今度は日用品の売り場で随分と見知った顔を見付けた。

「あらまぁ、エリカちゃんじゃないかね。こんにちは」
「あら、加奈子さんこんにちは。こんな所で会うなんて奇遇ですね」
「そうだねぇ。エリカちゃんも晩御飯の買い物かい?」
「まぁ、そんなところです。さっきまで花梨とその友達も居たんですけどね」
「へー。買い食いかね?」
「いや、違うと思いますよ。花梨、今夜その子の家に泊まるらしくて、夜のおやつを大量に買って行きましたよ。何でもなんか手伝うらしくて」
「何をやるんだろうね?」
「さぁ、そこまでは訊いても教えてくれませんでしたけど」

一体何をするんだろうとか、お泊りかーとか気になったりしたが、そこは何も訊かないでおいた。

「そうだ、加奈子さん。私、家に何故かじゃがいもが大量にあるんですけど、何か良い料理方法ありませんか?コロッケとカレーと肉じゃがはもう飽きちゃって…」
「じゃがいもかー…。あ、茹でたじゃがいもを潰して焼いたたらこを混ぜて茶巾絞りっぽくすると美味しいし。片栗混ぜていも団子も美味しいかもねぇ。あとはじゃがいもグラタンとか、そぼろあんかけとかかねぇ。あ、たらいもパンも美味しいね」
「へぇ…。結構あるんですね。ちょっと今日やってみますね」

エリカは加奈子に礼を言うと、たらこを求め鮮魚コーナーへと向かった。

そろそろ買い物籠も一杯になり、目当ての物は籠の中だ。会計を済ませようと、加奈子はレジへと向かった。この時間帯は、夕飯の買出しの主婦層が多く、レジは何処も行列だ。なかなかレジが回らず、店内放送で応援を呼ぶのが聞こえた。

気長に待ってレジでの会計を済ませる。駐車場へ向かおうとすると、そこでまたまた見知った顔を見付けた。

「今日はよく人に会うねぇ…」
「あ!!加奈子さん!!」
「どうもでーす!!」

恐らく夜のお菓子であろう、大量に買い込まれたスナック菓子を、重そうに花梨は持っていた。もう一人の方、桃子は布や絵の具やその他色々な物を抱えている。

「今日は桃子ちゃんの家でお泊りなんだって?」
「え!?何で知ってんの!?」
「さっき偶然エリカちゃんに会ってねぇ」
「ほへー。そうなんですか」
「ところで、随分重そうだけど、一体何に使うんだい?」
「え!?いや〜…。あはは、いろいろと…」
「?」

適当にごまかした桃子は荷物を抱えなおした。

「そうだ。お嬢さん方、おうちまで送ってあげようか」
「マジですか!?良いんですか!?」
「いやぁ、凄く重そうだしねぇ」
「マジッスか!?ありがたいです!!」

二人は加奈子の好意に素直に甘えた。行き先は桃子の家で良いかと尋ねると、そうだと二人して声を合わせた。

車内では他愛ない話をしながら、加奈子は車を走らせた。

「それで、聞いて下さいよー。桃子ったら、弟の部屋にベートーヴェンの運命のリズムでノックしたらしいんですよ〜」
「そうかい。……。ひょっとして、その後らせんがん…?とか言ったりした?」
「え!?何で知ってんスか!?もしかしてエスパー!?エスパーなんスか!?」

今朝の小学生の姉はこの子かと思いながら、加奈子は黙っておく事にした。

「おやまぁ、わたしがエスパーだって知らなかったのかい?」
「何スか!?何スかそれぇ!!マジかっけーッス!!マジパネェッス!!」

きゃあきゃあと盛り上がっているうちに、桃子の家の前に着いたようだ。二人を下ろし、自分も家へ向かう。

車を車庫に停め、鍵を掛ける。買い込んだ荷物を持ち直し、家に入る。

「(あ、そうだ)」

玄関の鍵を開けて、生ものは全て冷蔵庫に入れた。そして必要な物だけを持って、もう一度家を出る。

「ちょっと顔を見に行こうかね」

加奈子は隣の立派な家の玄関のベルを鳴らす。するとその家主が出迎える。

「……何だ。どうした」
「夏バテでもしてるんじゃなかろうかと思ってね。台所借りるよ!!」
「…………」
「おや?今日は止めないのかい?」

家主が返事をする前に加奈子は、家に問答無用で上がる。

「……止めても聞かんだろうお前は」
「おやまぁ、判ってるじゃないかい」

半ば無理やり上がりこんだその家で、加奈子は料理の腕を振るった。

暫し、話し込んだ後適当に片付けをして、加奈子は自分の家へと帰る事にする。

「それじゃ、夏バテには気を付けるんだよ」
「……今から夏バテになってたら、真夏になると私はくたばるな」
「うん。アンタがそう言うとシャレにならないね」

ふっと笑みを零して彼は加奈子に気を付けてと言った。

「隣だから気を付けるも何もないけどねぇ。さてさて、明日も頑張りますか」

こうして、彼女の短い一日が終わり、また朝はやってくる。


せろさんから頂いたリクエストで、『加奈子さんのいろいろ』だったんだけども、良いタイトルが思いつかなんだ…。こんなんで良ければ、どうぞお納め下さい。 2012.07.08