零れた涙のその理由:前編(土沖/幕末)




自室に戻り四半刻も経たぬ内に、後を追うようにして土方が訪ねてきた。

快くとはお世辞にも言えない応対だったが、彼とて自分の部屋を進んで訪ねて来たりはしないだろうと思い、ならば新たな命令を下しに来たのだろうかと、とりあえず室内へ招き入れる。


「こんな夜更けに何の用ですか、土方さん?」

「・・・・・・。」

「あぁ、また誰かを始末してこいって命令ですか?いいですよ、誰を切ればいいんです?」

用向きなど所詮その程度のことだろう。

言葉を詰まらせているのは、近藤に隠れて暗殺などという仕事をさせることへの罪悪感。
そして、自分を組織の為の『道具』として扱うことへの、拭いきれない感情。

『新選組の剣』となることを総司に持ちかけたのは土方と山南の二人だが、総司の手を血で染めたくないと考えていたのもまた、近藤と、土方その人なのだ。

「土方さ〜ん、僕の声聴こえてます?早くしないと夜が明けちゃいますよ。」

「・・・・・・本当に、いいのか。」

「・・・?何がです?」

「『剣になる』と言ったこと、本当に・・・後悔してねぇか?」

険しい表情とは裏腹に、切なく揺らめく紫の瞳。
だがその眼差しは、真っ直ぐ総司の翡翠へと向けられている。

「今ならまだ、戻ることも可能だ。『新選組の剣』として生きる未来に、幸福はねぇ。」

提案した張本人が何を今更という感じだが、彼の切実な言葉からは、本心から総司にその道を選んで欲しくないという、願いにも似た想いを過分に感じられて止まなかった。

・・・頑なな総司の心を揺り動かせるだけの効力は、到底持ち合わせてなどいなかったが。


「ねぇ、土方さん。・・・僕がいつ、幸せが欲しいと言いましたか?」

「何?」

「僕は、僕の全てを、近藤さんの為だけに役立てられればそれでいい。その最善の方法が『剣』として生きることなら、喜んでその定めを受け入れます。」

伏せていた顔をすっ・・・と上げる。
氷の如く冷たくなってしまった瞳には、人として欠かすことの出来ない大切な何かが欠けていた。

「僕はもう、人であろうとは思いません。」

「・・・っ!!?」

「思いやりとか、人を愛し慈しむ心、そんなものはこれからの僕には不要です。だって・・・僕は『もの』なんだから。」

驚愕に目を見開く土方。

彼とて生半可な覚悟で選択肢を与えたわけではなかったが、目の前に座る総司から『人』という概念を欠落させてしまったことに、凄まじい動揺を覚える。

良くも悪くも、幼い頃から総司のことを見続けてきた土方には、あまりにも大きすぎる衝撃だった。

「お前・・・、自分が何言ってんのかわかってんのか・・・?」

「あなたこそ、何を今更怖気づいてるんです。引き返そうなんていう甘い考えを持っていたとしたら、僕は井吹くんをこの手にかけたりはしていません。」

戻れる場所など疾うに無い。
『沖田総司』に許された居場所は、新選組という檻の中だけだ。

「人らしい心なんて、いらない・・・っ。」


冷たさしか無かった翡翠に、ほんの僅かな『哀』が滲む。
それは彼が、己の心をまだ完全に捨て去っていない証拠。

頭で理解するよりも先に、身を乗り出した土方の両腕は総司の身体を捕らえ、強く抱き込んでいた。

新選組の副長ではなく、『土方歳三』という一人の男としての本音が、堰を切って溢れ出してくる。


「お前が心を捨てるというのなら、俺が貰ってやる。何処へなりと捨てるんじゃなく、俺に全部寄越せ。」


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