小悪魔とそれに惑う人


何とも思っていなかった。何とも、と言えば嘘になるけど、要するに特別な意識を持ってその子を見たことはなかった。ましてや恋愛対象として見るなんてことは絶対になかったし、だって女の子だし。理想のタイプともかけ離れすぎ。包容力がある、引っ張っていってくれる、機械に強い、できれば年上などなどえとせとら。数多くある理想の条件をやすやすと踏み越えてきたのは、奇跡の王子様でも何でもなくて―――、何を考えているのか分からない、目をやれば誰かの背中にくっついて眠そうな顔をしている、年下の女の子。



喉渇いた。私も。このフロア自販機あったよね。あるある。行こ。みさと二人、財布を持って楽屋を出る。年が明けてしばらく、今クールの新ドラマがもう放送開始されているらしい。昨晩のドラマがよほど心惹かれる内容だったのか、熱弁するみさの横でわりとはじめから話を聞き流しながら、彼女が着ているトップスが可愛くて後でどこのブランドの物か聞いてみようと考えていたとき。

「あ、なぁちゃんだ」

みさがひらひらと手を振る相手は、廊下の向こうからマネージャーと並んで歩く七瀬だった。柔らかく笑って手を振り返してきたので、私もつられて手を上げる。おはよー。3人の声が重なって、すれ違う。何でもない。ただそれだけ。ありふれた日常のひとつ。だったはず。私以外の誰も気付かなかっただろう。七瀬とすれ違い様に並んだ瞬間、

指に一瞬触れて絡みとられた。

思わず固まって彼女を振り向くと、何も無かったような様子でマネージャーと話しながら歩く姿があった。こちらを向く気配すらない。なに、今の。感じた事のない騒めきがゆっくり胸に押し寄せる。追っていた彼女の背中が楽屋に入ったところで肩を叩かれ、ハッと我に返る。

「まいやん、どうした?」
「あ、いや、何でもない」

行こう。慌てて作り笑顔で取り繕う。それからはみさの声は一切耳に届かなかった。何かの間違い?偶然手があたっただけ?いや絶対わざとでしょ。だって確実に指が絡んだ感覚は七瀬にもあったはず。後で聞いてみるかな。いやでもわざわざ聞くのも変だし。ただの間違いかな。そうだよね。きっとそうだ。うん。自問自答しながら、その日のレギュラー番組の収録は何故だか全く集中する事ができなかった。


もやもやとした変な感覚は数日経っても解消されなくて。何の意味も成さない胃薬をたまに飲んでみるけど、当然何の意味もなかった。みさに最近胸のあたりが気持ちわるいと相談すると、胃もたれじゃない?それが老いってやつよドンマイ、と年齢いじりをされた上に既に間に合っている胃薬を渡してきたので、必要以上のスキンシップで悲鳴をあげさせたりする日々。
七瀬と言えば、あれ以来変わった様子はない。普通。とっても普通。普通におはようと声をかけてくるし、普通に楽屋ではみんなと楽しそうに話してるし、普通にテレビ収録もこなしてるし、普通に歌番組でのダンスのキレも変わらないし、普通に顔色は良いし可愛いし、でも前より少し痩せたかな、先日収録した番組で夜ご飯はいつもコンビニだと言ってたけど毎日そんな食生活じゃ心配で、それなりに自炊は出来るからいつか作りに行ってあげるのもいいかな、最も突然私がそんな提案をしたところで彼女は首を振って遠慮するだろうけど―――、

「っていうか私、七瀬のこと気にしすぎじゃない!?」

予想外に驚いた独り言のボリュームは大きくて、シャワーの音にかき消されなかった。あぁ、何やってんだか。みさがいたら、独り言も老いの始まりだと笑うだろう。虚しくなってシャワーを止めながらため息。七瀬は何も気に止めていないのに、なんで私だけこんな思いしなきゃいけないの。それはもう完全に八つ当たりでしかなかった。

地方ロケで明日の朝が早い故に今夜からホテルに前泊。久しぶりに奈々未と同室だった。この際思い切って相談してみようか。いつも客観的な目線で物事を眺めている奈々未の性格なら、話をすればこのもやもやの正体を突き止めてくれるかも。と言うより、単に一人で抱えるのが限界だから誰かに話を聞いてほしかった。ただし睡眠欲が人一倍強いあの子のことだ、私がここから出る頃には眠ってしまっているかもしれない。起きていてくれと願いながら、慌ただしく着替えてタオルを首にかける。急いでバスルームを出ると、入る前には点いていたテレビの音が消えていた。えー、奈々未寝ちゃってるかな。ベッドのある方へ向かいながら呼びかける。

「ななみ起きてる?ちょっと話したいことが―――」

あるんだけど。と続けるつもりだった言葉は、これ以上なくつもりで終わった。窓側のツインベッド、スマホを持ってだるそうに横になっていた奈々未は荷物ごと消えていて、その代わりに何故か、何故なのか、さっきまでぐるぐると考えていたあの子が、

七瀬が、いた。

奈々未がいたはずのベッドに座って黙々とゲームをしている。ベッドの傍には無造作に置かれた七瀬の荷物。私がほぼ目の前に立っているというのに、声だって聞こえたはずなのに、いつだって尊敬するほど彼女は動じない。カタカタカタとボタンを連打して眉間に皺を寄せている姿は、もはや幻なのだろうか。幻?いや、いやいや、いやいやいや本物でしょこれなんでなんでなんで七瀬がここにいるの。現実を受け入れた瞬間目がくらむ。顔が熱くなって鼓動が少し揺れたのは、お風呂上がりというだけの理由であってほしかった。

「七瀬、なにしてるの」
「モンハン」
「え?」
「モンスターハンター」
「いやゲームの名前じゃなくて」
「しびれ罠仕掛けてる」
「いやゲームの中の話じゃなくて」

なんで奈々未じゃなくてあなたがここにいるかを聞いてるんだけど。心の声は届かなかったようで、七瀬はゲームに集中してるから話しかけてくれるなと言わんばかりのオーラを発している。番組アンケートを書く時よりも真剣な眼差し。楽屋でたまに見るものと同じ光景だった。タオル越しに後ろ頭を荒く掻く。邪魔をしたいわけではないんだけどね、それでも私にはこの状況を知る権利があると思うんですよ。

彼女の部屋着のような気の抜けたラフな格好を見るのは久しぶりだった。ホテルで同室なんて滅多にないから。薄着のせいで、細い身体のラインが目立つ。痩せたと思ったのはどうやら当たりだったらしい。儚い雰囲気がよく似合う七瀬には、守りたくなる何かがあると生駒が力説してたっけ。しかし謎めいた独特の空気感は未だに掴めない。掴めないから、気になってしまう。分からないから、知りたくなる。そしてどことなく隙がない。簡単に触れることが許されない聖域。普段なら。でも、今ここにいる七瀬は無防備で隙があって。手を伸ばせば、届きそうだと思った。届いた後に自分が何をしたいのかは自分でも分からない。

七瀬は一向に口を開きそうにもないので、諦めてドレッサーの椅子を引いて腰掛ける。奈々未が使った後、コンセントにはドライヤーが刺さったままだった。タオルで髪を擦りながら鏡越しに彼女を見ると眉間の険しい皺が消えていたので、今がチャンスかもしれない。

「私の奈々未をどこにやったの」
「生ちゃんの部屋に放り込んどいた」

なにそれ、と七瀬の方を振り向いてもやっぱりゲームから目を離さない。よっぽど大事な場面なのか、はたまた私に大して興味を持っていないのか。多分かなり高い確率で興味がないんだろうな、って想像して落ち込む自分がよく分からない。

「今日なな生ちゃんと同室やってん」
「へぇ、なんか珍しい組み合わせ」
「生ちゃんと二人で同じ部屋おったら、絶対モンハンなんてできんやん」
「まぁそうなるよね」
「そう、それでたまたま隣の部屋やったから、ななみんに変わってもらった」
「奈々未の心中お察しするよ…」
「この部屋ノックした時にまいやんが出てたら、今頃生ちゃんの部屋にはまいやんがおったかもね。変わってくれるんやったら誰でもよかったし」

誰でもよかった、最近よくニュースで耳にする若者の台詞。お風呂どっちが先に入るかジャンケンに負けてよかったと初めて思った瞬間だった。夜の生ちゃんのテンションについていける勇者を今の所誰も知らない。タイミングが悪ければ私がその餌食になるところだったかと思うと、奈々未が無事に眠れている事を祈るばかりである。ただ、彼女の言う誰でもよかったがやたら耳に残ってしまうのは何故だろう。二人になりたかったと言われる事を、心のどこかで一瞬でも期待していた私はやっぱりあの日からどうかしてる。バレないように薄くため息をついて鏡に向き直る。ドライヤーを手にとって七瀬を見ると、さっきより更に険しい皺を眉間に寄せていた。また罠でも仕掛けているのか。もう喋りかけるのは最後にしよう。

「生ちゃんにはなんて言ってでてきたの」
「ななみんから許可もらったあと、まいやんと話したい事あるからななみんに変わってもらうわーって」
「話したい事あるの?」
「ないよ」
「だよね」
「逆にあるん?」

話したいこと。

初めて、七瀬が顔を上げる。鏡越しに目が合って、固まる私を見る彼女の顔は楽しそうに笑っていた。そういうことか。

七瀬の仕掛けた罠に嵌ったのは、私だった。

呼吸も忘れて視線が絡み合う一秒は永遠にも思えた。あぶない、危険を伝える信号がやっと届いて目を逸らす。別に、何もないよ、とやっと絞り出した声が彼女に聞こえたかどうかは分からないけど、平気なフリはきっと出来ていなかった。沈黙に耐えかねてドライヤーのスイッチを入れる。しばらく目を閉じたまま髪を乾かしていた。どうしよう、と悩んだところでどうしようもないことは分かってる。七瀬は変わりつつある私の何かを悟っている。私自身にも分からないその何かを多分知っている。胸がぎりぎりと誰かに握り締められているような感覚に息苦しさすら覚えた。彼女に困惑していたはずが、いつしか自分の気持ちがそうなのではないかと形が見え始めて、その戸惑いに頭が埋め尽くされていく。数分の間にどうしようを何度も繰り返したところで答えなんて出なくて。わざと足音を立てずに近付いていた七瀬に気が付いたのは背後に気配を感じたときーーーもう遅かった。

「なぁ、まいやん」

どくん、と強く鼓動が弾む。

熱風にも消えない透き通った声。動けない。ドライヤーを持つ手に彼女の手が重なる。スイッチを切られたそれは私の手から離れていった。それでも動けない。静かになったはずなのにそう思えなかったのは、私の心臓がありえない速度で早鐘を打ち始めたから。

「独り言の声大きいから、気を付けた方がえぇよ」

耳元で囁かれる。鏡に映る彼女の横顔は悪戯を楽しむ無邪気な子供のように見えて、いつもの七瀬からは想像もつかないくらい悪い顔。実は積極的な部分がある事はこれまで重ねた日々の中、語られてきた恋愛観でなんとなく気付いていた。それでもここまでなんて聞いてない。ここにいるのは守りたくなるか弱い七瀬?全然違う。唇が耳に触れてぴくりと体が浮く。それを見てまた楽しそうに笑う彼女を、初めてこわいとおもった。

「ななのこと、気になってるん?」

ちがう、そんなんじゃない。そんなはずない。認めたら全てが終わる気がして、逃げろと頭に鳴り響く警告音に従って椅子から立ち上がり、七瀬からすり抜ける。簡易冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、一口飲んで深呼吸。どうしよう。今までどんな風に彼女と接していたか、どんな声で喋っていたか全く思い出せない。もう一口飲んで呼吸を整えて。ベッドに腰掛けながら発した出来る限りの明るい声は、きっと今までのどんな演技より一番下手だった。

「やだなぁ、なんか変だよ今日の七瀬。どうしたの?」
「変なんはまいやんの方やろ。あの日からずっと、ななのこと見てた」
「あの日って?」
「なながわざと触った日」

ほらね、わざとだった。あの日からとっくに私は彼女の罠に落ちていたのだ。全て見破られている。残された選択肢は降参しかなかった。身体中の息を重く吐き出して頭を抱える私の隣に、寄り添うように七瀬が腰を下ろす。

「なんで…あんなことしたの」
「振り向いてほしくて」
「どういう意味?」
「気になってほしくて」
「だからそれどういう、」

言いながら彼女の方を向いた瞬間、心臓は止まったと思う。唇が触れ合う寸前の距離に七瀬の顔があった。手のひらから零れ落ちるペットボトル。私の顔が熱い所為だろう、頬に触れる彼女の手をやけに冷たく感じた。

「なぁ、もっとななのこと気になって」

切ない表情がここまで似合う人を私は他に見た事がない。撃ち抜かれるって感覚を今この瞬間初めて知った。もう、無理、限界。腰を抱き寄せてその唇に触れようとしたところで、七瀬の人差し指に阻まれる。ゆっくりと私の唇を指でなぞったあと、柔らかく笑った顔は余裕に溢れていた。もう一度唇を端から端まで行ったり来たりする指に、焦らされて焦らされて、焦らされる。呼吸も絶え絶えな私は、今すぐにでも七瀬を壊したいと思うくらい余裕がないと言うのに。この状況をきっとこの子は楽しんでいる。

「ななのこと好き?」
「七瀬は、私が好きなの?」
「わかんない」
「なに、それ…」
「ただ、まいやんをななだけのにしたいなぁって思っててん、ずーっと前から」

好きかも分からない相手を自分の物にしたいと言う。そんな理不尽なわがままを叶えられる程に罠に嵌った体の自由はきかなくなっていた。制御できない。きっと随分前から、行動の全てを彼女に制御されていたのかもしれない。

「ななだけのになってくれるんやったら、まいやんの好きにしてえぇよ」

思っていたより深い罠に落ちるところまで堕ちてしまった。どうにでもなればいい。

「七瀬だけの、ものにしてーーー」

私が返事をしたのと七瀬から噛み付くように唇を塞がれたのはほぼ同時だった。引き寄せられて彼女を組み敷けば、どこまでもどこまでも甘く深くなる。もう戸惑いはない。未来がどうなるかなんて今はどうでもよかった。小さな悪魔に捕まった私の未来なんて、明るいわけがないのだから。
満足そうに笑っているくせに、もっと、なんてせがむから綺麗な瞳に吸い込まれるように私たちはまた唇を重ねる。

何とも思っていなかった。何とも、と言えば嘘になるけど、要するに特別な意識を持ってこの子を見たことはなかったのに。心も体も全てを攫われて私は七瀬の物になったとして、きっと七瀬は私の物にはなることはないだろう。

彼女の胸に手を当ててみると、その鼓動はあまりにも落ち着いていた。


小悪魔とそれに惑う人

小さな悪魔とそれに微睡む人


おわり





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