臆病な人とその彼女


不意に目が醒めて、雨の音に薄暗い部屋が揺れる。眠っている間に降り始めたらしい。そういえば眠りにつく前に、明日雨だから髪セットしても崩れちゃうなぁ、なんて前髪を撫でつけながらアイドルらしく恋人が憂いていた気がする。初夏に近い暑い夜、季節遅れの薄手の毛布は素肌のままでいる私達にとってはまだ随分心地良かった。枕元のスマホを手繰り寄せて、眩しさに目を細めながらデジタル時計に焦点を合わせる。3時を半分過ぎた頃。寝た時間は覚えてないけど、睡眠に満ち足りた感覚のないこの身体の倦怠感は、単に眠たいだけなのか、隣ですやすやと眠る恋人に散々求められたせいなのか。ななを抱きながら、時折耳元で意地悪な台詞を囁いては唇を吊り上げて笑う彼女は、いつも悪魔のように思えるのに。頬に手を伸ばして起こさないようにそっと触れて小さく撫でると、ふにゃりと柔らかく唇が緩む。可愛い。天使みたいな寝顔って、この人を題材に作られた言葉なんだって言われても今なら信じられるくらい、まいやんの寝顔は綺麗。女神の方がしっくりくるかもしれない。起きていても綺麗なのに。付き合って日が浅い自分はまだ、そうでない瞬間を知らない。そろそろ見せてくれてもいいのに。綺麗でも、完璧でもない姿を。

彼女の頭をひと撫でした後、床に散らばる下着とキャミソール、生地の薄いショートパンツをごそごそと履いてベッドを這い出る。まともに服を着て迎えた朝はいつが最後だったっけ。もともとそういう行為自体に興味はなかったのに。エアコンをつけてまで、毎晩寝る前にわざわざ汗ばむ行為をひたすら繰り返す事に、睡眠時間を削る以上の意味があると彼女の愛に教えられていた。ただ見つめるだけで触れたくなるのは溢れる愛情が抑えきれない結果。単に身体だけが目的じゃないって。それくらい、余裕なく必死に求めてくる態度で分かってるけど、前にわざと分からないフリをして。まいやん性欲強いんやなぁって言ってみたら、七瀬のことが好きなだけなんだよと困ったような顔をした彼女に抱き締められた。そんな風に愛情の度合いを確かめたかったのかもしれない。まだ半信半疑な心は、過剰なくらい好きを与えられないと満足できない。めんどくさい性格。いつまでも。なんでこんな卑屈な人間を、あんな完璧な人間が好きになるのか理解できない。いつまでも、いつまでも。不安に澱む胸は晴れを知らずに雨音が響いていた。

本来なら幸せなはずなのにきっと意味の無い溜め息を零しながら、音をたてないようにドアノブを握りしめて寝室を出る。閉め忘れたカーテンの外から差し込む月の光を頼りに、壁に手を添えてキッチンへ。ぺたりぺたり、フローリングに足をつけて、あぁ、なんか違和感あると思ったら、スリッパ履いてないや。付き合ってすぐにまいやんはお揃いのスリッパを買ってきた。色違いのストライプ柄、赤と白、青と白。シンプルな部屋の雰囲気にそこまで似合わない余所者が入り込んできたって感じがしたけど、それを口に出す程空気が読めない人にはなりたくなかった。赤が七瀬で、青が私ね。彼女がにこりと嬉しそうに笑うから、ななもつられて笑って頷いた気がする。でも知ってるんだ。本当は赤の方が好きなこと。恋人同士の色違いでお揃いの典型例が赤と青なら、彼女はいつだってななに赤を譲るんだろう。これからもずっと。まいやんはそんな人。ななだったら迷わず自分の好きな方を選ぶのに。
そんなスリッパをいろんな所で脱いで置き忘れると、何も言わずにななのところに持ってきてくれる。どこに行っても絶対元の位置に帰ってくる自動の掃除機ロボットみたい。なんかそれが面白くて、置き忘れる癖を治そうとは考えていなかったりする。

キッチンの灯りを点けて、冷蔵庫から飲みかけのミネラルウォーターを取り出す。勝手知ったる他人の家。昔から誰かの家に長居する事を窮屈に感じる気を遣いがちな自分が、まいやんの部屋にいても落ち着きを感じるようになったのはなかなかの快挙だと思う。ふた口冷えたそれを飲み込んで、もうひと口。疲れ果てて汗をかいたまま寝入ってしまったから、染み渡るひんやりとした冷たさをきっと身体が欲してた。明日から枕元に持っていこうかなと考えたけど、自分だって明日もその次の日もまいやんとそういうことをするっていう前提の思考回路になってる事に気が付いて顔が熱くなる。身体を重ねる行為に興味がないなんて言えた物じゃない。慌てて隠すようにペットボトルを冷蔵庫に戻して、くしゃくしゃと頭を掻いた。そんな溜め息も、染まりかけているんだ、彼女の色に。


寝室に戻って、少し隙間の開いたカーテンに手をかける。雨粒に叩かれる窓ガラスの奥を覗くと、雨、街灯、水溜りを蹴散らす車、苛立つクラクション、物寂しそうな顔をした女の子、それが反射する自分の姿だとすぐ理解出来ない程度には疲れているようだった。このまま朝が来なければいい。雨に閉じ込められたこの部屋で、ずっとふたりぼっちでいられたら。って。なに考えてんやろ。額を窓に押し付ける。思っていたより冷たいガラスに、上がる熱を、重たい恋愛感情を抑えてほしかった。愛される自信がないから、愛す自信もない。いつか離れていくんじゃないか。そんな気がするから。これ以上彼女を好きになるのが怖かった。こんなやつ面倒くさいやろうなぁ、ほんまに。毎日飽きもせず全く同じ自己嫌悪に陥っては落ち込んで、それでもまいやんは愛してくれて、なのにまた落ち込んで。果てしない無限ループに頭が痛い。眉間に皺が寄った自分の顔が目の前にあって、思わず顔を背けながらカーテンを閉じる。寝よ。もう。何がどうしたって空は白んで朝は来る。
薄ぼんやりとした視野に目を擦ってベッドへ近付き、持ち上げた毛布に潜り込んだ瞬間。強い力に腕を引かれた。

「わ、」

驚いて声を漏らす間に抱き締められて、すっぽり胸の中に閉じ込められる。不意打ちに強くない心臓がどくんと飛び跳ねて、せっかく冷やしたばかりなのに熱を帯びていく単純な身体。背中に腕を回すと、何も身に付けていない彼女の素肌を直に感じて面白いくらい鼓動が早鐘を打ち始めた。もう何度だって触れてるのに。数え切れないくらい抱かれてるのに。

「七瀬、どこ行ってたの」

まいやんの眠そうな声が可愛いのは付き合ってから初めて知ったこと。夜中にふと目覚めた時にななが隣にいないとすぐ寂しがるところも甘える子供みたいで可愛い。目を合わせると重そうな瞼。薄く開かれた綺麗な瞳に至近距離で射抜かれて、まだ恋をしたばかりの頃のようにどきどきする。

「水、飲んできた」
「ふーん」

聞いたわりに興味が無さそうな返事のあと唐突に距離がなくなって、唇を塞がれた。ゆったりと甘く柔らかく噛み付かれる。唇の端をなぞる舌先に誘われて受け入れるとすぐに上手に絡み取られるから、いつも嫉妬してしまうんだ。ねぇ、どこでどうやって覚えたの?誰に教えてもらったの?本当は聞きたいのに、彼女の熱に侵されて今日も丸め込まれて夢中になる。きっと明日も聞けない疑念は、いつになっても頭の中を渦巻いてずっと消えない。
起こしてよ、隙間で不機嫌に呟かれて。だって、気持ちよさそに、寝てた、から。喋ってるのに止めてくれないキスに飲み込まれて途切れ途切れになる言葉。たまにそうやってまいやんは喋りかけながら唇を寄せてくる。明日の晩ご飯なに食べたい?とか、次の休みなにする?とか言いながら。んーって斜めを向いて考えるななに啄むようなキスを繰り返す。七瀬って変わってるよね、と言うけどななから言わせてもらえばまいやんもよっぽど変わってる。キスが好きなんじゃなくて、七瀬の唇が好きなの。そんな言い訳をして笑うけど、どーせ昔付き合ってた人ともいっぱいしてたんやろってまた卑屈になって何も言葉を返せない自分が嫌い。ななも好き、まいやんとキスするの。素直に言いたいのに、臆病で重たい感情が邪魔をする。
ゆっくりと腰を撫でる手の動きが急に止まって、離れた彼女の眉がきゅっと潜められた。仕事仲間という間柄では見る事が出来なかった、そういう不貞腐れてる時の顔は結構好き。

「何で服着てんの?」
「なんでって、」
「脱いでよ」

強引にキャミソールを剥がそうとするまいやんの頬を軽めに叩く。それでも尚差し込まれた手が厭らしく身体の線を這って、胸のあたりまで到達しかけたところでその手を服の上からぎゅうっと抓ると痛い痛いと大袈裟な泣き真似。子供みたい。懲りずに今度は内腿を撫でてくるから、わざと息を吐いて呆れて見せると、むっとした顔で睨まれた。

「こんな夜中に発情しないで」
「だって私だけ服着てないの嫌じゃん」
「まいやんも着たらえぇやろ」
「やだ」

何も着てない時にぎゅってする方が気持ち良いんだもん。可愛く唇を尖らせたって、ぎゅーするだけで終わらない事を一番分かってるのは誰だと思ってるの。
しばらく身包みを剥がされそうになりながらそれを阻止したり、諦めずに服の上から巧みに触ってくるから拗ねたフリをして背中を向けてみる。するとまいやんは、七瀬ごめん、ごめんってもうしないから許してと早口で慌てふためく。機嫌を損ねる事を最も彼女は恐れていると知っているから。気付かれないように小さく笑って振り向いて、今にも泣きそうに落ち込む彼女の頬にキスをすれば嬉しそうに抱き締めてくる。こんな可愛い姿、他の誰にも見せたくない。独占欲が生まれてる時点でもうこの人から抜け出せる気がしない。適度な距離感を作っていたら別れを切り出される時に辛くないから。そう思ってたはずが、まいやんはななの心の隙間にうまく入り込んで胸がいっぱいになるくらいあたたかい気持ちで満たしてくる。それはすごく、真冬に自販機で買ったコーンスープを飲み込む瞬間にすごくすごく似ていて心まで溶けそうに熱い。彼女はいつもいつも、嫌になるくらい素直であったかくて。嫌になるくらい毎日好きになっていく。すーっと大きく息を吸って吐かれた息は随分と熱く耳を掠めた。ななの心の温度に痛いくらい似た熱だった。

「このまま朝が来なければいいのにね」
「うん…」

ついさっき、自分も同じことを思った気がする。密着する身体から少し早い彼女の鼓動が伝わって、とくとく脈打つその身体が何故かこんなにも愛おしい。首元に擦り寄ると優しく頭を撫でられた。愛されてる。多分今は。今だけは。ぬくもりに深呼吸をする間だけはいつもそんな風に少しだけ自信を持てる。好きって、言われてるみたいで。

「まいやん、」
「ん?」
「好き」

撫でる手がぴたりと止まって伏せていた顔を上げると、さっきまで眠そうだったまいやんの目は驚いたように見開かれていて、構わずじっと見つめ続けると唇を噛んで照れたようにはにかんだ。私も好きだよ、七瀬。熱の篭る真っ直ぐな声にきゅんと胸が締め付けられる。幸せなはずなのに、苦しくて苦しくてどうしようもない。彼女がずっとこうしてそばにいてくれるなら、この世から朝が無くなっても構わないくらい。恥ずかしくて言葉には出来ないけど、きっと生まれて初めて誰かの事を愛していると思った。

「じゃあ触っていい?」
「だめ」

せっかく浸ってたのにムード無さすぎ。いつの間にか腰を抱かれながら組み伏せられていて、えーなんでーなんて情けない声が降る。明日も仕事なのにどんだけ元気なん。呆れながらまいやんを見上げると、なんだか可哀想になるくらい上手に悲しそうな表情を浮かべるから本当に困った。彼女の首に腕を絡めて引き寄せる。こういう状況で熱い吐息と共に耳元で囁かれる事が好きらしい事は最近学んだ。だから与えたくなる。あなたが欲しいことを、一つだって逃さず全部。

「今我慢する分、明日いっぱい触ってな?」

いつものお返し。ちょっとだけ意地悪にわざと耳に舌を這わせて甘噛みしてみる。ふるっと身体を震わせて、小さく声を漏らしたまいやんがななを覗き込んで。七瀬ってたまにエスだよね、とさっきよりもっと辛そうな顔。別にそんなつもりはないんだけど、正直まいやんの整いすぎている顔立ちを歪ませる瞬間は楽しい。笑みを零して、すぐそばにある唇を不意打ちに塞ぐ。何度も何度も身体を重ねてるのに、七瀬からキスされるとどきどきするんだとまいやんは言っていた。その気持ちもいつかは忘れられてしまうんかな。それでも、どれだけ彼女や自分の気持ちを否定したって、一人でいても誰といても瞼を閉じれば大好きな笑顔が思い浮かぶから。いつ来るか分からないいつかを思うより今を大切にするべきなんだろう。
失いたくないから。臆病に震える身体を包み込んでくれるあなたを、心の奥まで愛で満たしてくれるあなたを。抱き寄せられる胸の中に溶け込みながら、

もう一度、そっと好きを呟いた。


おわり





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