小悪魔とそれに微睡む人、小悪魔とそれに惑う人のその後。


普通とは、特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること。らしい。
今更こんな言葉をネットで検索するなんて、その意味に当て嵌まらない私自身を改めて認識して溜め息を吐くために調べたわけじゃなかったのに。スマホの電源を落として真っ暗な画面に反射する顔には悩み疲れていると書いてあって、たまらずテーブルに伏せる。文字を消すように頬を擦ってみても、悩みの原因が頭の中にいる限り消えるわけがない。ただただ間抜けな顔でチークを消している変な人の出来上がり。なんで私だけこんな思いしなきゃいけないの。あの日の夜もそんな事を考えてたんだっけ。

外で顔を合わせる七瀬は相変わらず普通だった。あの日、メンバー、仲間、女の子同士、超えてはいけない幾つかの一線を大きく飛び越えてしまった夜。触れたいが為に七瀬の物になった夜。好きなように求めたくて、自分の物にはならない七瀬の手に落ちた夜。いくらキスをしても、抱き締めたまま眠っても、目が覚めて愛しく名前を呼んでも、頬にかかる髪を耳にかけてあげて彼女が柔らかく微笑んでも、伽藍堂な瞳に私は映らない。

その後も何度か似たような朝を迎えたりもした。あまり自炊をしないという彼女を家に招いてご飯を作ると喜んで食べてくれる。美味しいと言っては笑ってくれる。たまに機嫌がいい時は、お皿を洗う私の背中にぴたりと抱き着いてきたりして。付き合ってるような幸せな感覚に陥っては頭を振って勘違いだと言い聞かせるのは、何度繰り返したところで辛いし苦しい。必要以上に連絡は取り合わない。恋人ではないから。会いたいと私から発信しないのは暗黙の了解。私には七瀬を求める権利はないのだ。今日行くから、絵文字のないメッセージが届いて断った事は一度もない。七瀬にはその日の気分で私を求める権利があった。彼女が家に来る理由は、私が作るご飯を食べたいからでも私に会いたいからでもない。あの夜のように、自分の手に落ちた物に抱かれたいから。ただそれだけ。その欲求を満たす為だけに私はいた。七瀬の方からキスをされる事はない。触れたいと言われた事も抱かれた事もない。私が抱いて、それで終わり。

家に来る時はいつも私が作るご飯を二人で食べて、お風呂に入って髪を乾かしてあげて、私が乾かしている間に七瀬が先にベッドに潜って待っている。この時期に一人で入る布団の冷たさが嫌いだった。最近はたまに彼女のぬくもりに助けられていたが、そうでない日は寂しさを余計に感じるようになってもっと嫌いになったかもしれない。枕元の小さな間接照明、そのオレンジ色が微かに灯る部屋を七瀬は好きだと言う。なんか落ち着くし、そういうことする時に雰囲気出てちょうどいいやん、と普段の彼女からは想像もしない言葉を笑いながら平気で言ってのける。
七瀬が家に泊まる際に体を重ねない日はない。当然。それが目的で来てるから。私がベッドに入ると彼女は獲物を捕まえるように絡み付いてくる。下着をつけていない胸をわざと押し付けながら唇を寄せて寸前で止めると私からキスをすると知っていて、さながら遊びに誘うように名前を呼ぶのだった。いつも七瀬は。

なぁ、まいやん。触って。

いつも七瀬は、笑っている。楽しそうに笑っている。手中にある私を弄ぶのがよっぽど愉快なのか。転がされていると分かっていても、なかなかどうして七瀬の事が好きだった。好きな人に触ってほしいと誘われて乗らないわけがないし、私はいつでも七瀬が欲しい。どれだけ愛しい人を想うように優しく抱いても、深いキスをしても甘くならないのはきっと、七瀬がそうなることを望んでいないから。
七瀬はいつか、大切な物を扱うように優しく抱いてくれるから私との夜が好きだと笑った。それなのに私が好きと言う事は許されなかった。前に一度、枕の端を握り締めながら薄く開いた唇から小刻みに声を漏らす彼女に熱っぽい目で見上げられた瞬間、好き、と言いかける私を察した手のひらに口元を覆われて。そしてまた。

アイドルは、恋愛禁止やから。

楽しそうに笑う。分からない。こんな関係になるずっと前から彼女は掴めない人だったけど、最近もっと分からなくなった。やり場のない想いをぶつけるようにキスをしても何も伝わらない。吐けなかった好きはいつも、七瀬がいない夜に独り涙で流している。

ここ数日訪れる頻度が高くて、ベッドに彼女の香りと抱いた匂いが残るようになってしまったから尚更たちが悪い。そんな少しの香りを身に纏って仕事先に向かうと、楽屋には普通に七瀬がいて。普通に笑ってメンバーと話していて。目が合えば普通におはようと言ってくる。言い返す。何も変わらない。秘密を共有しているくせに妖しげに笑う事もない。何も無かった頃と寸分狂わず彼女の態度は普通で同じ。昨日の夜が、その二日前の夜がまるで無かったかのように。七瀬の心は一ミリも揺れていない。私の家にいる時との差が激しすぎて、たまにどちらかが夢なのかとすら思う。もしそうなのであれば、私はどちらが現実でどちらが夢だとしたいのだろうか。

そんな関係のまま数週間。昨夜は七瀬が来なかった。散々一人で迎えてきた朝に寂しさを感じるようになったあたり、心が求めすぎている。嵌りすぎた。今さら気付いても遅いのに。気分が沈むそんな日に限って、今日の仕事はフロントメンバーのみの雑誌の撮影。少人数の中に七瀬がいる。きっと2ショット撮影もあるだろう。きついなぁ。私以外まだ誰もいない楽屋、大きく伸びをして溜め息を吐いた頃、突然扉が開いて驚きで少しだけ椅子から浮いた。すらっとした身長と肩口まで伸びた髪、先日買ったばかりだと言っていたロングコートは背丈とスタイルの良さのおかげかもう既に自分の物にしているその子、七瀬じゃないと分かって胸を撫で下ろす。

「おはよ」
「なんだ、奈々未か」
「なんだってなに」

小さく呟いたつもりが拾われて、誰だと思ったのと聞かれた声は届かないフリをした。私の隣の椅子に腰掛けて、欠伸をする顔は随分と眠たそう。頬杖をついてだるそうにスマホを触るその手は私の手と酷く似ている。どこかの雑誌の取材でそう答えたように、私と奈々未の手はまるで同じ形。それでも隣の芝生は青く見えて、何故か彼女の方が綺麗だし細長い指も思わず触れたくなる程に羨ましい。
壁掛け時計の短針と長針が真っ直ぐに指す18時は夕方か夜かが曖昧だ。夕方でもいいだろうし、夜でもいいだろうし。もしも。もしも、あの日の夜に七瀬が言った誰でもよかったが本当なら、私を自分の物にしたいと言ったことが惑わす為の嘘なら、あの日七瀬が私と奈々未の部屋の扉を叩いた時に出たのが奈々未ではなく私だったら、七瀬の相手役は私でもいいし、奈々未でもよかったのなら。一昨日の夜もその前の夜も、私と同じような手で奈々未が七瀬を抱いていたのだろうか。想像で嫉妬して胸が疼いた。自己嫌悪。

まいやん、意識を呼び戻されて声を向く。

「苦しそうな顔してる」
「え、」
「なんかあった?」

心配そうに私を覗き込む彼女は、他人事にはむやみに干渉しないタイプなはずなのに。頭が良い人は他人の感情を察知する能力も長けているようで。あの子の一挙一動に惑わされて、特別に胸が締め付けられたり息をするのもやっとだったり、積もった疲労はとうとう読まれるまでに表側に現れ始めている。この罠から抜け出す事が出来るとしたら、呪縛から解放されるとしたら、その道を選ぶ自信すらないくせに何を悩んでいるのか。分からない。ただただ必要とされている実感は無いに等しいくらいに薄くて。いつ離れていくかも分からない細い糸のような関係が切れてしまう日を思って怖かった。

背中を優しく撫でられて、その手のあたたかさに心が溶ける。奈々未はいつだって優しい。思い返してみれば本当はあの日奈々未に相談するつもりだったんだ。まだあの頃はもやもやしていただけの胸の内を明かして、正体を突き止めてもらおうと思ってたけど。もうその正体が分かった今、全く別の問題に直面していて。七瀬とのあの関係を続けるのは良い事ではないと分かっているから。分かっているのにどうする事も出来ない。盲目まではいかなくても、自分がどうなったってどれだけ何を犠牲にしたって七瀬が求める事の全てに応えようと動いている私には、見えていない何かがあるのかもしれなかった。

「奈々未この後時間ある?」
「この後?特に何もないけど」
「ご飯、行かない?」

誰が来るかも分からない、ましてや本人が現れるかもしれない場所で話なんて出来ない。いろんな気持ちを汲み取ってくれたのだろう、悟ったように微笑んで頷いた奈々未に頭を撫でられる。いいね、行こう。全く同じ形をしていても、私の手より彼女の手の方がずっと優しい。私の手はあの子を支えるにはきっと弱すぎる。奈々未みたいにあたたかければ、七瀬の心まで包み込む事が出来たのかな。もしかすれば、心を動かすことも。

「仕事の悩みじゃなさそうだね」
「あー、うん、わかる?」
「そんな苦しい恋愛するくらいなら、私にしとけばいいのに」
「…え、え?は?なに!?」
「うそだよ、動揺しすぎ」

カマかけただけなのに分かりやすいなぁ、と悪戯に笑って頬を突かれる。いや、奈々未に私にしとけばいいなんて真顔で言われて動揺しない人はこの世に存在しないと思う。悩みの種まで言い当てられた。なんだよもう。敵わない。それでもこんなに優しくて可愛い子に冗談で口説き文句を言われても、七瀬に見つめられる時ほどに胸が高鳴らないのはあの子に対する自分の気持ちが固い何よりの証拠。揺るがないところまできてしまった。その手前で目が覚めていれば救われたのかもしれないのに。

楽屋の扉が開く音。おはよーの間延びした声にそちらを向くと鼓動が大きく飛び跳ねた。心の準備を忘れていた。不意打ちに弱い典型的なA型。ずっと頭の中にいたのに実際に目の前にすると、がらがらと音を立てて崩れていく何かのせいで普通を見失っていく。おはよう七瀬と手を振る奈々未に笑って手を振り返す彼女に、タイミングを掴み損ねた私は声をかけられなかった。向かい側の椅子を引いて腰を下ろした頃、息を整えてやっと口を開く。出来る限りの普通を装って。

「おはよ、七瀬」
「おはよーまいやん」

目が合って、ふわりと微笑まれる。メンバーといる時によく見るその笑い方は、二人きりで迎える朝のおはようと少しだけ違った。どこか儚げで清純で可憐な見た目から、薄暗いオレンジの部屋でいつも私を惹き寄せるように、妖艶な声で誘って抱かれているなんて誰が思いつくだろう。相変わらずの普通に褒め称えたくなる。なんでそこまで普通に出来るのかその方法を教えて欲しい。私に何の感情も抱いてなければそれが当然なのかと思えば、なんだか虚しくなった。幾つかの会話を三人の間に広げていると奈々未がスマホをポケットに入れながら突然席を立つ。どこ行くのと驚けば、トイレくらい自由に行かせてよと笑って楽屋を去ってしまった。私と七瀬を残して。お願いだから二人にしないで、たとえ頭脳明晰でも読心術までは持ち合わせてなかったらしい。扉が閉まる音の後、しばらく沈黙が漂う。家じゃない場所で初めての二人きりの空間。気まずさに目を泳がせていると、ファッション雑誌を開いていた七瀬が何の気なしに顔を上げて目が合う。その瞳も声のトーンも皆といる時と何も変わらない普通な態度。

「今日行くから」
「え、あぁ」

いつもメッセージで届く言葉を口にして直接言われたのは初めてだった。初めて家の外で普通とは違う事を言われて、どきりと胸が鳴り顔は途端に熱くなる。だけど、今日はだめなんだ。もっと早く言ってくれたらよかったのに。今の私は生活の全てにおいて一番に七瀬を優先して考えていたから。自ら取り付けた約束を後悔しながら両方の手のひらを合わせる。

「ごめん、このあと奈々未と予定あって。何時に帰れるか分かんないんだよね」
「へぇ、そっか」

七瀬を断ったのはこれが初めてだった。不機嫌にでもなるかと思ったら、彼女はまるで興味がないような瞳でさらっと受け流して再び雑誌に目を落とす。それ以上、何も言われなかった。連続する初めてに心がうまく追い付かない。悪い方向に、何かが変わってしまうような気がした。もう二度と誘われないかもしれない。断らなければよかったかな。その素っ気なさに一気に不安感が胸に押し寄せて後悔に埋め尽くされる。どうしよう。やっぱり。わかった。予定断るから来て、七瀬を失うかもしれない焦燥から友情を捨てかけた私の言葉は声になる前に、誰かの扉を開く音によって掻き消された。

「みんなーおはよー」
「あ、生ちゃんおはよぉ」

呆気なく裂かれる二人の空間。何も無かった顔をして平気で微笑む七瀬の感情を読む事が出来ない。何で私を誘うの。何で私なの。何でちっとも心が動かないの。何で普通でいられるの。重く吐いた黒い溜め息は彼女達の会話と笑い声に押し潰された。


読心術を持たなくても空気を読むのが人一倍うまい奈々未は、知らないうちにお洒落なカフェの個室を予約してくれていた。どこか見覚えのあるオレンジ色の照明から目を逸らす。どこにいたって何をしてたって七瀬が頭から離れない。何でもない事が全て彼女に結び付く癖を、ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨ててしまいたかった。
自分からご飯に誘っておいて食欲を失っていた私は、奈々未から勧められたパスタを味わう事なくモスコミュールで流し込む。互いの仕事の話をして、メンバーの話をして。恋愛に関する悩み事について話を振られると、結局七瀬との状況を包み隠さず言える勇気がない私は、気になる人がいるけど振り向いてもらえる気配がないと言うに留まった。グラスの縁の塩を舐めて、ソルティドッグを口に運びながら聞いていた奈々未の目が見開く。まいやんに振り向かない人なんているの、信じらんない、そいつ人間じゃない。いやいや私を過大評価しすぎだから。

結論、ぼかしすぎた相談事に明確な答えは当然現れなかった。それでも七瀬ばかりを考えていたおかしな頭は、少しだけ気が紛れて僅かながら落ち着きを取り戻せたと思う。久し振りのアルコールに酔いが回った勢いで別れ際奈々未に抱き着くと、幸せにするから私にしときなよ、と抱き締められながら囁かれる二度目の冗談。振られたら拾ってね。じゃあ早く振られてきて。優しい冗談に心が癒える。奈々未なら本当に拾ってくれそうな気がした。よもや依存になりかけていた私には七瀬を忘れる時間も必要なのだろう。今夜は少しゆっくり眠れるかもしれない。タクシーに揺られながら目を閉じて独りで過ごす今夜を思い、息を深く飲み込んだ。私の部屋から七瀬の香りが消えていますように。


受け取った領収書とお釣りを随分使い込んでくたくたになった長財布にしまってタクシーを降りる。雲のように浮かんだ白い息は星の無い夜空へすぐに吸い込まれた。そろそろ日付が変わる頃だろう、仕事が終わって外に出た時より気温はぐっと低い。寒さに身を竦めてバッグからキーケースを探りながらマンションの扉を開けた。ガラス張りの扉のせいでエントランスに佇む人影にはなんとなく気付いていた。多分同世代くらいの若い女の子。マンションの住人とオートロックを開けるタイミングが重なる事は稀にある。人見知りの私はその瞬間が気まずくて苦手だが、どうやらそうではないようで。顔を伏せていたから分からなかった。よく見たらその子が着ている服を私は今日見た事があって。

嘘だ。なんで。

扉が開く音にはもう聞き飽きたように動じない。キーケースを手のひらから滑り落とした金属音に、ようやく顔を上げた女の子は私を見ても表情を変えなかった。なんで。なんで。なんで。そう言えばそうだった。あの日の夜も彼女は予期せず突然現れて、私はこう言ったんだっけ。

「七瀬、なにしてるの」

あの時はすぐに答えたのに、今ここにいる七瀬は真っ直ぐに唇を結んで私を見つめるだけだった。何でここにいるの。何を考えてるの。何で、期待させるの。
ゆっくりと近付いて疲れ切ったようにだらりと下がる手を握ると、凍ったような冷たさに目を開く。今夜は氷点下まで気温が下がるとニュースで言っていた事を思い出して、慌てて両手であたためるように握り締めた。何十分、何時間、七瀬はここでこうしていたのか。なんで。何のために。混乱する頭で考えたっていつも彼女の行動は到底解せない。

「なんで、いつからここにいたの」
「…分かんない」
「え?」
「ななも、なんでここにいるのか分かんない」

何かが違う。その声は、いつもの七瀬じゃない。メンバーといる時も二人でいる時も聞いた事がない俯いて震える声に、普通ではない何かを感じ取ってオートロックの鍵を開ける。七瀬の手を掴んで小走りで部屋に向かいながら、何かが変わる気がした予感が的を射ていた事に気付いて、鼓動が大きく速く鳴り響き始めた。

無言で立ち竦む七瀬をソファに座らせる。隣に腰を下ろして、触れた頬からじわりと手のひらへ浸食する冷たさに背筋が浮くようだった。決して厚着とは言えない彼女の装いからして計画性があったとは思えない。いつからいたの。なんで待ってたの。来るなら連絡してくれたらよかったのに。矢継ぎ早な質問に彼女は一つとて答えない。そもそも答えがないのかもしれない。
七瀬がここにいる状況に未だ混乱する脳内を整理しつつ、今は自分より大切な身体をとにかく温める事が最優先。湯船にお湯を張っている間に温かい飲み物を作ってあげよう。ちょっと待ってて、言い残して立ち上がる私を追うように腰を持ち上げた七瀬。え、と戸惑う間も無く強い力で腕を掴まれて、何を考えているの分からない瞳で私を見つめた後、きて、と引かれるままに歩けば今日独りで過ごすはずだったベッドが目の前に。腰を抱かれてバランスを崩し雪崩れ込めば同時に跨るように組み敷かれて、彼女に押し倒された事に気が付いた。枕に頭が弾んだ拍子に、隠れていた七瀬の香りがして、独りでいたところでどうやったって惑わすこの子から逃げられるはずがない事を思い知る。いつもと違う気配。初めて見上げた彼女の顔は、楽しそうに、笑っていなかった。

「まいやんの体であっためて」

もう熱くなってるんやろ。耳元で囁かれて、体の熱と鼓動の速さはバレていた。オレンジじゃない部屋。いつもと違う誘い言葉。ゆっくりと降りてくる七瀬の顔、唇が重なって。薄く開いて受け入れるとすぐに舌先が私の唇を厭らしく這う。確かめ合うように徐々に深くなって、混ざる吐息に熱は上がり続けていた。隙間から冷たい手のひらに腰を撫でられて、キスの合間に漏れる声も彼女の中に飲み込まれる。初めて。初めて七瀬に触れられた。初めて七瀬の意思で求められた。抱かれる瞬間の昂揚感に息を呑む。危うくキスが甘くなりかけている事には互いに気付いていて、それでも七瀬は離れなくて。二人の中で何かが変わっている事は既に明白だった。私の肌を撫でる手が熱を帯び始めた頃その動きが止まる。ゆっくりと唇が離れて、至近距離で見上げた七瀬の瞳は間違いなく揺れていた。

「分かんない…」
「なにが、分からないの」
「ぜんぶ」
「全部?」
「嫌やった。ななが欲しい時に、他の人のところに行ったまいやんが、嫌やった」

まいやんは、ななのものなのに。

自惚れが許されるならそれは独占欲だと思った。自分の気持ちが分からない、眉を下げて戸惑う七瀬を抱き寄せて背中を撫でると、首筋に伝うあたたかい雫。あぁ、そうか。そう言えばこの子は昔から泣き虫だった。彼女は恋愛経験が豊富じゃない。だからどうしたらいいのか自分の気持ちがなんなのか錯誤してもがいている。もしかして。勘違いしていたけど七瀬はただの不器用な普通の女の子だったのかもしれない。散々彼女の奔放な気紛れに惑わされて苦しめられてきたというのに。どうしようもなく愛しくなって更に強く抱き締める。

「分からなくていいよ。無理に答えを出そうとしなくていい」
「でも…」
「だけどこれだけは分かってて」

言って、私の上に覆い被さる七瀬を今度は私が組み敷いて、瞳いっぱいに涙を浮かべるその顔を見下ろす。オレンジに照らされる彼女の綺麗な身体を抱く事も、柔らかい唇にキスをする事も、目覚めたばかりの眠そうな顔に一番のおはようを言う事も、私だけが許されていたい。潤んだその目が初めて私を芯から映す。もう彼女は私の意思をきっと遮らない。

「私は七瀬だけのものだよ。七瀬のことが、好きだから」

小悪魔なくせに不器用で泣き虫なこの子のことを、私はいつしか愛しすぎていた。求めても求めてもそれでも足りないくらいに。流れる涙をキスで掬い取って、唇を重ねようとした寸前に人差し指に阻まれる。あの日とまるで同じように。それでも七瀬はあの日より少し動揺していた。だって。

「だめやって」
「なんで、」
「そんなん言われたら、ななも、まいやんのこと好きになっちゃう」

だって。触れた胸のその奥が大きく速く揺れていて、七瀬を想う私の鼓動によく似ているから。自分の気持ちに惑う間は、すぐに素直に受け入れられない事を誰よりも知っているのは私だった。阻む指に小さくキスをして、その手を掴んでベッドに押し付けながら初めて彼女の意思に背いて強引に唇を塞ぐ。好きになってしまえばいい。私だけを見ていればいい。私だけに抱かれていればいい。

私だけの七瀬になってよ。

そう心の中で呟いたのか言葉にしたのかは分からないけど。今日だけで幾つの初めてを越えただろう。唇の端から漏れる吐息に混ざって何かを言おうとする彼女に気付き、ほんの少しだけ離れる。いつもの夜に眺める七瀬の瞳より、今夜はずっと余裕が無くて切なげに縋っているようにも見えた。

「ななも、まいやんだけのになりたい」

初めて心ごと求められて。大切な物に触れるように優しく抱き締める。ずっとこうしたかった。今まで何度となく抱き締めても、その度に必要とされている実感は得られなくてただ苦しいだけだったけど。分からないながらに、背中に回された腕と全身で応えようとするぬくもりに、凍え怯えていた心が満ちていく。

「好きだよ、七瀬」
「もっと言って」

自分は与えないくせに欲しがるところは変わらないけど、部屋はオレンジじゃないのに私を瞳に映しながら嬉しそうに微笑んでまた涙を流した。いくらでも言ってあげる。もっともっとこれからたくさん伝えてあげる。どこまでも飽きるほどに。好きの文字をそっと唇で移すと優しくて甘いキスの始まり。誘うような指先がいつも求める私の中指と薬指を柔らかく掴んで、わざと弱く握り締めたり妖しくなぞったり。こうすると体が熱く疼いてその気になる事をこの子は知っているから。

「なぁ、まいやん」
「なに」
「さわって」

微睡むように目を閉じて深く息をすれば、私の好きな七瀬の香りがした。


小悪魔とそれに微睡む人


おわり





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