第2回「町」 | ナノ


 造りものの風に揺られた透明な飴細工が、喜びに騒ぐ少女達のように賑やかに絡まって鳴る、高く澄んだ呼び出しの音。

 室内で生まれ、木製の扉を隔てて尚充分に廊下で佇む他者の鼓膜を潤す奏では、目の前の一部屋を貸し切っているシャーロット・カタクリの発する合図でもあった。あの大きな手指には些か不釣り合いな細い紐を引いて特注のドアベルを鳴らしているのだと思うと、何度聴こうとも擽ったい気持ちになる。

「失礼致します」

 木製の扉の下部に備え付けられた、もう一枚の扉を引き開ける。
 途端に鼻腔の隅から隅までまろやかな甘い香りに満たされて、仄かな香ばしさも併せ持つその空気を殆ど無意識に吸い込んだ。出来たての菓子の余韻は、私にとっては高級な香水より余程気分を持ち上げてくれる逸品だ。
 今日のスイーツも相変わらず最高の出来だったのだろうと厨房に携わる全員に内心で拍手を贈りながらも戸は手早く閉める。今この時ばかりはカタクリ本人の命で廊下の人払いがなされていても、やはり密室は──不可侵の秘密基地というものは、外界を遮断してこそ完成するのだ。それ位の"浪漫"は、女に生まれた私にも何となく共感出来た。

「今日はですね、半日かけて味を染み込ませた林檎の蜜煮です。この前お話した水水林檎、漸くウォーターセブンから届いて! ジャムにするのも勿体なく感じてしまって…」
「同感だ。彼処の食材はどれも食感に特徴がある」

 私の腹から首までの全長と同じ大きさを持つ鍋をワゴンカートに乗せて、室内で一際立派なソファーの真横へ運ぶ。大柄で長身な体躯のカタクリの元まで行き着いた途端に大分上に在る瞳がちらりと鍋を見て、未だ蓋が被さっている事にほんの僅かに眉を寄せる。
 よもや機嫌が下降したかと思わせるその仕種が、スイーツ相手にのみ発揮されるせっかちな気質故だと気付いたのは、もう半年も前の事だった。

「カトラリーはどうなさいますか?」
「……、両方だ」

 フォークとスプーン、どちらで林檎を掬うのかと尋ねたつもりが予想していなかった答えが返る。けれども客が使う食器の選択を此方が頑なに迫る理由も無いので、一つきりしか無いカタクリ専用の巨大カトラリーを鍋の供に添えて私だけが離れた。

「少し風が出てきましたから、窓を閉めますね」

 返事は無い。眼下の菓子に集中している証である反応は、カフェを営む私には素直に嬉しい無言の贈り物だ。

 開け放していた窓に近寄ると、コムギ島の景色が視界の中で面積を増やしてゆく。チョコレートリングドーナツを象るオブジェの真横に店が建つ影響で、大窓を開けた日のカーテンは縫い目の糸にまで芳香が染み込むが、カカオ島ショコラタウン在住のビッグ・マムが実娘たるプリン手製の砂糖控えめなビターチョコレートは胸焼けなど起こさせない絶妙な塩梅の香りを実現していて、引っ越しの文字を一瞬たりとも思い浮かばせやしない。賞味期限切れで撤去すると共に新品が納品される度、舌を巻くばかりである。

 食パン一斤を土台として建てられたアパートを左手に見ながら、明日のおやつはチョコレートソースを塗って砕いたナッツをまぶしたトーストにしようと密かに決める。
 数メートル下、向かいの本屋に隣接するパンケーキの円形ベンチに座った三人の少女がピーナッツバターを挟んだコッペパンを頬張る光景を見てから、窓を閉めた。

 母親の遣いの帰りに毎回この店に寄ってくれるあの三姉妹も、近頃体型が洋梨に近付いていると言いながら通ってくれる警官同士の夫婦も、常連客は皆が今日という第四水曜日が月に一度の定休日だと知っている。
 ただし「定休日」と焼印をつけたクッキー製の札が入口に提がっていても、実際はカタクリの為の貸切日であり、店舗の三階がカタクリ専用に増築されたとは誰も知らないだろう。

 そうっと、背後を振り向く。
 筋骨隆々という文字が人の形を取ったのではと思う程に雄々しく鍛えられた肉体を持つカタクリは、外見に違わず武で名を馳せた男だ。私程度の挙動など態々目で見て確認せずとも察せるだろうに、一市民の不躾な視線を咎めない度量の広さが在る。
 そして不躾と自覚しながらも私は毎度、カタクリの食事を眺めてしまう。

 白い皿の上には、揚げて粉砂糖を振っただけの質素なドーナツ。その傍らに置かれた籠には同じ物がこんもり盛られていた筈が既に消失している。
 ドーナツが最後の一つだからなのか、ごろごろと大振りな角切りにした林檎の果肉をバターと砂糖で煮詰めた蜜煮をスプーンで掬い、とろりとかけて、天井の灯りを吸い込んで煌めく箇所だけをフォークで切り取って一口。
 また垂らして、備え付けのレーズンを三粒乗せて一口。
 シナモンパウダーを振って一口。
 生搾りの檸檬果汁を加えて一口。
 もう一度、蜜煮だけをかけて、一口。

 マフラーで隠れた口元に次々と消える食べっぷりは、最早見ていて気持ちが良い。言葉で絶賛される事も勿論嬉しいが、手が止まらない、という様を間近で目の当たりに出来るのもまた作り手として誇らしいものだ。

「カタクリ様、珈琲お煎れしますね」
「あァ。……直に檸檬を搾るのは、良いな。檸檬パイともまた違った風味だ。あの香りと酸っぱさが後味を引き締める…」
「カタクリ様もそう言ってくださいますか!?」

 思いがけない感想に、ソーサとカップをそれぞれの手に持った儘勢い良く振り向いてしまう。相手がどれ程に高い地位と権力の持ち主かも束の間意識出来なくなった私の喉は、それは浮かれた声を紡いだ。

「父は皮を摩りおろして散らした方が香りが立つって言ったんですけど、それじゃ苦味だって残るし私は果汁だけ使いたいって押し切ったんです! 前回カタクリ様は干しレーズンを練り込んだ品を褒めてくださいましたし、今回のトッピングにも使いたくて、ドライフルーツの濃い甘さには尚更果汁の爽やかさが合う筈だって!」

 自分の工夫が認められた嬉しさのあまり声が大きくなっていたと自覚したのは、カタクリの双眸が若干意外そうな色を映して私を見ていると脳が認識してからだった。

 シャーロット家は、"王族"の二文字を聞いて大概の人間が想像するような規律と責務に縛られた一族ではない。何よりも先ず海賊であり、船以外にも拠点を有するという点も謂わば特徴の内だ。
 だがそれは、ただの市民がシャーロット家次男且つコムギ島を治める大臣に気安く接して良いとの理由にはなり得ない。

 はしゃぎ過ぎた、と今更羞恥の念が胸腔へ湧き出し硬直した私の視線の先で、カタクリは長い脚の片方を折り曲げて対の脛に足首を預ける。そして予想より遥かに、というよりも予想外なまでに静かな声音が耳朶を打った。

「菓子の事になると活きが良いな」
「……ええ、そりゃ、美味しいと…思って貰いたいので……」

 トットランドに住まう者からすれば、シャーロット・リンリンは四皇の威光を自身の身内に限らず民にも注いで庇護の事実を視覚化してくれる女王であったし、その息子と娘等は大半が有事に於ける頼もしい武力で以て畏怖と敬愛を抱くに値する人物だと信頼させてくれる猛者である。
 特に懸賞金がかけられている面子はその無慈悲さ、苛烈さでも知られるだけに、怒らせてはいないようだと肌で感じて心底安堵した。が、こうなると三十路手前の歳で、衆目が無いとは言えど露骨に喜んだ己の幼い振る舞いがただ恥ずかしい。

 こればかりはカタクリが悪いと、頭の中だけで言い訳をする。

 コムギ島で最も目立つのは、土地の中央に聳えるドーナツのタワーだ。巨大なドーナツが何段にも積まれ、それだけでも周囲のバゲットなどと同じぐらいの数百メートルにも達する高さを有するも、頂上には一際大きなドーナツが縦に鎮座する。たっぷりのチョコレートとカラースプレーを全体に浴び、愛らしい顔まで描かれたそれを眺めて育った私は、この島を統治する粉大臣ことカタクリはさぞドーナツ好きなのだろうとは思っていた。

 しかしまさか、ドーナツ専門の看板を掲げた父と私の店のオープン初日にカタクリ本人が視察に赴いてくれる程とは思ってもみなかったのだ。
 おまけに自家製のトッピングの豊富さが売りなのだが、基本的には店内での飲食を想定した品が多く、希望があればドーナツを持ち帰る事は出来ても経費や手間の観点からトッピング専用の使い捨てならぬ食い捨て容器をも用意する事は難しい。よって例えばフルーツソースを注文して貰っても、予めドーナツにかけて渡す形にせざるを得ないと父も私も幾らか青褪めて当面の課題を告げた時。

 一つ試食するなり「トッピングも含め全種類持ち帰りたい」と言ったカタクリは此方側の言い分に対し暫く腕を組んで瞼を伏せ、たっぷり二分間は黙った後、妙に満足そうな眼差しで宣言したのだ。

「分かった。確かにクッキーやビスケットの容器は輸送に気を遣う。かと言って建築物に使用する強度のものは、カップを量産するには割高。添えた状態で持ち帰るとなると特にジャム類は勿体ねェ事態になり易い。…ならば、俺が此処に通えば問題ねェ」

 その夜、カタクリの譲歩と寛大さに感動して将星御用達の店になってみせると息巻いた父と、雇いの職人や給仕スタッフ全員で祝いの酒盛りをした記憶は未だ鮮やかだ。門出としては最高だった。翌日他の島々から建築用の菓子がひっきりなしに届き、業者まで派遣され、家具までも並行して配達され続けて、一週間で二階しか無かった店舗兼我が家が三階建てになった時は唖然としたけれど。

 それから、三週間後。
 店がオープンした時の曜日と同じ第四水曜、午後十五時にカタクリはやって来た。
 専用部屋に持ち込むドーナツは、チョコレートをかけた物、生クリームを詰めた物、蜂蜜を生地に練り込んだ物、日替わりのフルーツを使った物を一つずつ。そしてトッピングを楽しむ為、粉砂糖をまぶしただけの物を籠に山盛り。
 一人きりで食べさせろと最初に父へ言い付けたのは、恐らく接客を遠ざけたくての事だったのだろう。甘い物を独り占めして、人目を気にせず自分のタイミングで、好きなペースで食べる。その幸福と満足度たるや想像は容易い。人払いの要請も、定休日の設定命令も当然と思えた。

 そうして部屋が施錠されて僅か三十分後。中身のブルーベリージャムが跡形もなくなった瓶を持ち、一階の厨房に現れたカタクリは、父達が買い出しで出払っていると確認するかのように眼だけで辺りを見回すと、それはもう小さな声で呟いた。

「……ジャムが、美味くて。最初の数個に塗り過ぎた。もっとくれ」

 目線は食器棚に。瓶を持つ手は私の前に。

 カタクリの立場を思えばあまりに可愛らしいその態度と台詞に思わず鍋ごとジャムを差し出した私は、以来サプライズトッピング係になった。
 その日振る舞うトッピングは、カタクリの為に作る限定品。代わりにソースやジャムの内容を、部屋に運ぶまで当人にも知らせない。カタクリから出されたこの提案は重圧も相当だったものの、それだけ味に期待された事が嬉しくて迷わず頷いた。

 一ヶ月後、カタクリの五メートルもの長身に合わせて作られたドアノブは私の頭よりも上の位置にあり脚立を持ち出さなければ開けられず、流石に不便と平均的なサイズの扉を増設した。

 二ヶ月後、入室から呼び出すまでの間隔がほぼ一定の為、私一人が例外として部屋の前での待機を許された。

 三ヶ月後、カタクリが呼び出し用のドアベルを持参した。部屋は広く、またソファーは扉から遠く、私を呼ぼうにも声を張るかカタクリが席を立ってドアへ近付く必要が生じたが故だ。単に室内でベルを鳴らすよりも、直接扉に着けた方が確実に私の耳が捉えられると、丁寧に引っ張る為の紐付きで。

 月替わりのトッピングを楽しみにする茶目っ気がある反面、一秒でも早くそれを味わいたい気持ちが行動に現れ続けるカタクリの事を考えながら厨房に立って、七ヶ月。

 定休日に店の入口のベルが鳴る度、秘密の部屋のベルが鳴らされる度。
 私の胸をあたためる情の名付け親に、彼はいつかなってくれるだろうか。

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