第2回「町」 | ナノ


 夕暮れの鮮やかな赤は、日没の紫にすっかり取って代わられた。点々と並ぶ街灯に灯りが入り、仕事を終えた人々の陽気な影がレストランやバーへ消えていく。張り巡らされた水路は街灯の灯りと紫紺の空を映して、星の群れを内包しているよう。──少なくともあの時の私には、そう見えていた。

『名前の部屋はええのう。特等席じゃ!』

 ウォーターセブンの黄昏は、高所から見るに限る。本当はもっと高い場所にだって、どこにだって飛んでいけるくせに、広くもない家の一室でそう言って笑った彼を、私は心底愛していた。

 彼が頬杖をついていた窓辺を、暗い部屋の奥からぼうっと見つめる可哀想な女。それが最近の私だ。


 アイスバーグさんが襲撃され、フランキーが連行された夜。私は彼のベッドにいた。色っぽい理由じゃない。早めのディナーの後の散歩中、突然眩暈がして、気が付いたらカクの布団でぬくぬくと寝ていただけだ。

 あーあ、せっかくのデートだったのに、病人かあ。疲れが出たって、そんなに忙しい時期じゃないのにな。──そんなことしか考えなかったあの日の私は、なんて幸せだったんだろう。

 心配そうに眉を下げた彼は『数日休めば治るそうじゃ、飯は作り置きしておいたから出歩いちゃいかんぞ』と掛布団をぽんと叩いてアイスバーグさんの護衛に向かい、そのまま帰って来なかった。

『カクは政府の人間だったんだ』

 そんな訳ないじゃない、とは言えなかった。私一人を呼び出し、何十分も躊躇った末にそう告げたパウリーさんの表情が、あまりにも辛そうだったから。“裏切り”や“スパイ”という言葉を使わなかったのは彼の優しさなのだろうけれど、その様子からカクが彼にどんな仕打ちをしたのか、何となく想像がついてしまった。

「ひどい話」

 最低の男だ。部屋を探してみたけれど、置き手紙の一つも無かった。

 最低の男だ。無いと分かっても諦められずに彼の作業道具箱まで引っくり返していたら上蓋に冗談であげたヘアピンが私の写真と一緒に貼り付けられていて、見なければ良かったと後悔した。

 日没が近い。

 カクと私はウォーターセブン公認の仲で、彼が消えた今、私の居場所はどこにも無かった。それに一人置いていかれた女の存在は、パウリーさんの不器用で優しい嘘を台無しにしている。事情を察した人に慰められたり、知らない人から彼の里帰りに付いて行かなかったのかと不思議そうに訊ねられる度、消えてしまいたいような気持に駆られた。

「ひどい話よ、本当」

 最後の息のように空気の塊を吐き出して、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。


 うるさい。ガチャガチャと部屋に響く音が眠りを妨げたけれど、目を開ける気力はとっくに無かった。強盗かな、大胆な泥棒かな。どうでもいい。したいようにすればいい。

「なあ、名前。起きたんじゃろう」

 心が震えた。命の危機にも何の反応もしなかった心臓が、今は。

「……カク」

 彼は真っ黒いキャップを目深に被り、カーペットの上に腰を下ろしていた。身を起こした私をじっと見る表情には温度が無くて、知らない人みたいだ。私の頬を伝う涙の熱さと足して二で割ったら、丁度いいかもしれない。

近くに広げられた大きな黒い布には、私の服と化粧品、大事にしてる物……。

「何、してるの」
「攫いに来たんじゃ」

荷造りじゃ、としれっと言った声とは裏腹に、彼は無表情のままふいと顔を背けた。

「……なに、言ってるの……!裏切ったくせに。置いて、行ったくせに!!」

 私、馬鹿なこと言ってる。本当は、本当は……。

「名前」

 彼の冷たい横顔が、耐え切れなかったというようにくしゃりと歪む。そんな顔、しないでよ。

「泣かんでくれ」

 ぼふ、と温かな音を立てて、彼の胸が視界を満たした。あんなに冷たい顔をしていたのに、こんなにも温かいなんて。

「酷い……!カクは、酷いよ……!」
「……すまん」

 縋るようにして泣きじゃくる私をぎゅっと抱きしめて、カクは小さな、本当に小さな声で謝った。

「悲しかった!どうして?なんで、置いていったの!」

“こんなのやだよ、お願い、置いていかないで”。

 涙が枯れるほど心で叫んだ言葉を声に出してしまうと急に力が抜けて、彼の背中に回した腕がベッドに落ちた。ぎゅうと抱きしめる力を強くなって、それを嬉しく思う自分の心に呆れてしまう。

 少しの不安を滲ませて、私の名前を呼んだ彼の声。答えはもう決まっていた。


 真夜中の街路に、場違いなほど軽い荷車の車輪の音が響く。カラカラとやたら大きく聞こえるこの音も、寝室で眠りについた人々には大した音ではないだろう。時折すれ違う酔っ払いには、なおさらだ。

 あの日からずっと色褪せていた景色が、今は夢のように美しい。街灯の灯りを含んで宝石を散らしたようにきらきらと輝く水路に沿って、私は走った。荷車を引いて。

「のう、名前!別にこんなことせんでも、わしに任せてくれりゃあええんじゃぞ!?」
「夜逃げと言えば荷車でしょ!カクは静かにしてて!見つかったらどうするの!」

「さっきまで泣いとったくせに何アホなことを言っとるんじゃ!」
「全部カクのせいでしょ!本で読んでから憧れてたの!荷車で夜逃げ!」

 本当は“荷車で駆け落ち”なのだが、気恥ずかしくてそれは言えない。

 音に対抗するように少し声を張ったカクは、荷物と一緒に荷車に掛かった布の中。本当は隠れるための布など屋根を蹴って移動できる彼には必要ないし、そもそも間違いなく荷車を使う必要はないのだが、これは私の我儘だ。

 船着き場まで行けばいいなら、上り坂は一つもない。ウォーターセブンの山なりの地形が味方してくれているようで、長く暮らした水の都への感謝が込み上げた。

 皆、ちゃんと置き手紙を読んでくれるかな。私の電伝虫は誰の怒声を一番に届けるのだろう。怒ると怖い親友の大激怒を想像して少し青褪めたけれど、彼女ならきっと最後には笑ってくれるはずだ。パウリーさんはきっと連絡はくれないだろうから、いつか直接謝りに行こう。

「のう、名前!」
「なあに、カク!」

「好きじゃ!!」
「私も好き!!」

 馬鹿みたいに甘い本音を思いきり口に出したら、水路でうとうとしていたヤガラも起きて、二―ッ!と笑うように鳴いた。

 いつの間にか荷車から降りていたカクが、一緒に荷車の引手を掴む。

「アホなことしとるのう、わしら!」

 大笑いしながら駆け出した。空が少しずつ白み始めている。きっと忘れられない、朝になる。

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