あなたに出会えた瞬間、世界はがらりと表情を変えた。極彩色の世界のなかでそれでもあなたはいっそう輝いて見えた。あぁ、私はあなたと出会うために生まれたのだと、少女のように心が踊った。
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「嘘、だろ……」
「どうしたパウリー」
「弁当がねェ……!!」
「持ってくるの忘れたのか?」
「あーあ。せっかくの愛妻弁当が家で泣いてるぞ」
「完全に入れたつもりだった……ちくしょう……」
「まあまあ。そう落ち込むなよ」
「元気出せって。どうせ家に帰れば彼女の美味しい夕飯が待ってんだろ?」
「それまでの辛抱だな」
まるでざまあみろと言いたげな笑い声がパウリーの両隣から降ってくる。それをパウリーは慣れた様子でハイハイと流すが口のなかは彼女の弁当を食べるつもりでいたので余計に弁当が食べれないことを後悔する。だが、体力がいるこの仕事で昼を抜くのは自殺行為だ。数秒後、パウリーは苦渋の決断で食堂へ行くことを決めた。
休憩時間は有限である。パウリーはロスしてしまった時間を取り返すように駆け足で休憩所の廊下を行く。
食堂というのはガレーラカンパニー1番ドックから最も近い食堂のことで、安いうえにうまい。追加料金を払えばご飯のおかわり自由という腹ペコの労働者になんともやさしい食堂であり、ガレーラカンパニーで働く船大工の強い味方だった。そのためガレーラカンパニーが休憩時間に入ると船大工たちは我先にと食堂をめざす。パウリーはその波に乗り遅れないよう急いでいるのだ。
勢いよく休憩所から飛び出したパウリーはかなりの数の集団が休憩所に向かって歩いてくるのを目にし、一瞬借金取りかと身構えたが、よく見ればその集団のほとんどはこのドックにいる船大工たちで、さらに言えばその集団の先頭を歩いているのはパウリーもよく知る三人だった。
左にカク。右にルッチ。そして二人に挟まれぞろぞろと船大工を侍らせている中央の人物が、パウリーの彼女である名前であった。
名前はこのウォーターセブンのマドンナとして最も有名な女性であった。
美しいウェーブのかかったプラチナブロンドの髪に唇と同じ色をもった深紅の瞳。凹凸のハッキリした身体はゆったりとした服で隠されているにも関わらず、むしろ色気を振り撒いていた。美女にありがちなキツい性格でもなく、自分が美人である自覚をもって歩く名前は自信に満ち溢れ、その生き方がかえって女性からの支持に繋がった。名前はウォーターセブン中の人々から愛されているのだ。
そんな島一番のマドンナである名前が町を歩けばどうなるのか。左右と後ろに男が侍り、あらゆる方向から名前を呼ぶ声が聞こえる。もちろん、みんな名前に嫌われたくはないので名前が一人にしてほしいと言えば海軍もビックリするほど迅速にそれは実行される。実にすばらしい配慮である。
島全体の憧れの存在として認知されているガレーラカンパニーの職人たちもこの例外ではない。1番ドックの職人も名前が来たとなれば貴重な休憩時間を放り投げてでも一目見たいと名前のもとへ向かう。同僚のパウリーが彼氏であると知っているにも関わらず名前を口説く者さえいた。その筆頭が現在名前の左右をキープしているカクとルッチだった。
「名前、名前! わしと散歩でも行かんか」
「散歩?」
「ウォーターセブン中をひとっ飛びで巡る空中散歩じゃ」
「ふふ、魅力的なお誘いね。カクの彼女だったら毎日楽しそう」
「その服ははじめてみるポッポー」
「あ、気付いてくれた? 昨日町で一目惚れして買っちゃったの。どう? 似合う?」
「名前に似合う赤だポッポー」
「ありがとう。ルッチはいつも気付いてくれるから嬉しいわ」
まただ、とパウリーの瞳が暗く淀む。
名前は正真正銘パウリーの彼女であり、パウリーもまた正真正銘名前の彼氏である。なのに名前はああやって自分を口説いてくる男に思わせ振りな言葉を返す。
付き合い始めた頃、一度だけパウリーはそのことを止めてくれと懇願したことがあった。しかし、名前はその申し出に首を縦には振ってくれなかった。名前曰く、これは身に染み込んだ習慣であるらしい。「パウリーのギャンブルと同じよ」。そう言われてしまい、パウリーはぐうの音も出なかった。
けれども、やはりその現場を目撃してしまえばいい気分になる彼氏はいないだろう。パウリーは奥歯を噛み締めギリッと音を鳴らす。カラリと晴れた空に似つかわしくないドロリと粘度をもった感情がパウリーの胸を侵食していく。
「あ、パウリー!」
パウリーの沈みかけた思考を遮ったのは愛しい彼女の声だった。
パウリーを見つけるや否や名前は駆け出し、最愛の彼氏の胸へと飛び込む。そんな名前をパウリーはしっかりと抱き止め、一瞬の抱擁を交わす。肺を名前の香りで満たせば、パウリーの心は途端に軽くなった。
「どうしたんだ名前。こんな時間に来るなんてさ」
「パウリーにこれを届けに来たの」
差し出されたのは家に置き忘れたはずの弁当箱。
「今日はちょっと頑張ってつくったお弁当だから、どうしてもパウリーに食べてほしくて」
わずかに照れながらはにかむ名前に、パウリーの後ろから名前を眺めていた船大工たちが次々に倒れていった。倒れた船大工たちの顔は幸せそうな表情を浮かべていた。
「弁当、忘れっちまってすまねェ」
「こういうときはありがとうって言ってもらえるほうが私は好きかな」
「それもそうだな。ありがとう名前、大事に食べる」
「うん。どういたしまして。夕食のときに感想教えてね」
「おう」
「じゃあ私は職場に戻るわ」
「送っていく」
「気持ちは嬉しいんだけど今日は一人乗りのヤガラに乗って来たから」
「ならそこまで送る」
「ふふ、ありがとうパウリー」
片手に弁当箱。もう一方の手で名前から差し出された手を握り、二人揃って歩き出す。
「もう帰ってしまうのか名前」
「またいつでも来るポッポー」
「ごめんねカク、まだ仕事があるの。ルッチもハットリもまたね」
バイバイと手を振る名前にパウリーは繋がった手を強く握って抗議する。すると、名前はおかしそうに「ふふふ」と笑う。途端に不貞腐った表情をしたパウリーに名前は「ごめんごめん」とこれまた笑う。
「何がそんなに面白いんだよ」
「だって嫉妬してくれたんでしょ?それがちょっと嬉しくて」
「…………いつもしてる」
「え?」
パウリーの思わぬ返しに名前はパチクリと目を瞬かせた。
「名前が男と話すたびに嫉妬するし、最近じゃあ女と楽しそうに話してるだけでもだ」
「で、でも、そんな素振り一回も見たことないわ」
「おまえの前でそんなかっこ悪ィことするわけねェだろ」
「〜〜ッパウリー!!」
「うお!?」
はじめて聞いたパウリーの本音に胸がいっぱいになった名前は居ても立ってもいられず、その想いをぶつけるようにパウリーに飛び付く。
優雅で麗しく、そして艶やか。そんな言葉がよく似合うと言われる名前だが、今の名前は頬を赤く染め、目一杯の笑顔を浮かべていた。その姿はまるで少女。
突然首に飛び付いてきた名前をパウリーは驚きつつもしっかりと受け止め、その勢いを殺すようにくるりと回り名前を抱える。
「いきなりどうしたんだよ名前」
パウリーはカラカラと笑い、弾ける笑顔で名前を見つめる。その笑顔を眩しそうに眺めながら名前はパウリーに秘密を話すように囁く。
「私だって、パウリーはかっこいいから他の子に取られないよう頑張ってるのよ」
「は?」
「ふふ、知らないでしょ? パウリーが柑橘系の匂いが好きだって聞いたから香水を変えたり、派手な服装は控えるようになったし、パウリーから告白された日から料理も頑張るようになったのよ」
「……マジか」
「えぇ。私はパウリーが思っている以上にあなたのこと好きでいる自信があるわ」
今度はパウリーが顔を赤らめる番だった。
名前を片手で抱え、片手で自分の顔を隠すように覆う。しかし、手で隠せていない耳は真っ赤になっていた。
「おま、……そんなことしてたのかよ」
「お互いさまでしょ?」
「……はぁ、このまま名前を連れて帰りてェ」
名前を抱えたままパウリーは一番ドック前に停められているヤガラに向かっていく。ぷらぷらと足を揺らしながら名前は未だ赤い色が抜けないパウリーを眺める。そして、今感じている幸せを分け与えるためにその頬に顔を寄せてキスを贈る。
「!!? 名前、外でそんなッ、ハレンチな!」
「その言葉、久しぶりね」
「チッ」
「!?」
仕返しとばかりに今度はパウリーが名前の唇に自分の唇を重ねた。それでも贈ったのは触れるだけのやさしいキス。
「パウリーからなんて嬉しい」
「今日帰ったら覚えとけよ」
「ふふ、楽しみにしてるわパウリー」
お互いに額を合わせて笑い合う。
別れ際、二人はもう一度影を重ねた。
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