第2回「町」 | ナノ


最悪だ、最悪な1日だ。

海軍の総大将である“仏のセンゴク”元帥からの直々の命令だった。
本部からそう遠くない世界有数の造船島として名高い水の都ウォーターセブン。
そこへ極秘の出張命令を言い渡されて早3日が経とうとしている。
海軍本部少将名字・名前の機嫌は憂鬱だった。

毎年やってくるアクアラグナや高潮のおかげでウォーターセブンは、ほぼ水上に浮かぶ都市のようなものだ。
主要な交通網はもちろん水路であり、造船技術だけでなく水をモチーフにした建築技術も評判なのだと聞いている。
政府御用達の造船会社ガレーラ・カンパニーでの面会を終えて、余った時間をただ水路巡りに費やす。
活気ある街並みの風景を眺めても名前にとってはどこ吹く風、視線は上の空だった。

「にーにー…」
「あ、ごめんねヤガラちゃん。別にヤガラちゃんのせいじゃ無いんだよ?」
「にー」

水路を行く一番の交通手段として使われるブルは、馬に似た顔を水上に出して進む奇妙な魚だ。
気性も大人しくて人懐っこく頭も賢い。
初めて乗った名前もすぐにこのヤガラブルが可愛くて仕方なかった。
おかげでこの最悪な気分も憂鬱にまでレベルを回復したと言えるかもしれない。
力無く笑う名前に尚もヤガラは心配そうに鳴いて名前の手を舐めた。
名前は小さく微笑んで、「これは独り言だよ?ヤガラちゃんにだから話すんだからね」とヤガラを撫でる。

時は遡る事、数時間前。
思い出されるのは先ほどセンゴク元帥の命令で面会したガレーラ・カンパニーの社長の姿だった。
ガレーラの社長は同時にこのウォーターセブンの市長でもある、名はアイスバーグ。
政府に一目置かれながらも、実は海軍でも上層部とほんの一握りしか知らぬ事だが古代兵器復活の鍵を握る人物らしい。
要注意人物として世界政府から度々監視されている…闇の諜報機関CP9が関わっている…など、海軍本部内で権力や名声に貪欲な一部の将校たちが噂していた事を思い出して顔をしかめる。
名前は海軍で正義を貫く事を誇りとしている反面、世界政府や海軍のそういう『腐り切った面』が大嫌いだ。
今回の命も、表向きはアイスバーグとの新たな造船の依頼と会議だが、真の目的は既に任に就いているCP9との接触だ。
CP9は極秘にもう何年もアイスバーグの傍にスパイとして侵入し、監視と情報収集を行っている。
そのCP9から機密の報告書を受け取る事、それが名前に今回課せられた重要な任だ。
海軍本部の少将という地位であれば、当然重い任務も任される。
名前自身覚悟している事であり、名前の憂鬱の原因はそれではない。
それはまた別の話だ。

「ンマー、今回の会議はこんな所だ。そう報告しておいてくれるか?」
「はい、長い時間ありがとうございましたアイスバーグさん」
「あんたみたいな別嬪さんならいくらでも話せるさ」
「社長」
「ンマー、何だカリファ」
「セクハラです」

無事会議を終えて一息ついていた際にアイスバーグと軽く話をした。
途中で秘書であるカリファにセクハラ発言を受けて沈んでいたが。
問題はアイスバーグの何気ない言葉だった。

「そういえば今日はミヅハ祭だったな、あんたも帰りがてらに参加していったらどうだ?」
「ミヅハ祭?ですか…?」
「ンマー知らねェのか?ミヅハ祭ってのはな、カリファ…」
「はい、ミヅハ祭は年に一度このウォーターセブンで催される豊漁祭のことです。海への豊漁を祈願することが目的ですが、他にも航海の安全や繁栄を願うなど様々な目的も含まれています。こちらに伺われる前に下町を見られたのでは?もう屋台や出店の準備が行われていたと思いますが…」
「あ、そう言えば、何だか提灯や舞台らしき物を見ました」

カリファが眼鏡を上げて、今いる社長室の窓の外を指差す。
指の先、正確には窓のずっと先に見えるウォーターセブン最大の噴水。
その傍に真っ白な舞台が設置されていた。

「あの舞台でミヅハ祭の最後に年に一度選ばれるミヅハ姫が海への言葉を捧げる事が最大の見せ場ですね」
「ミヅハ姫ですか?」
「そうだ、元々ウォーターセブンの伝説を由来としている祭りでな。昔、『ミヅハ姫』って呼ばれている美しい人魚の娘がいたそうだ。
「社長、セクハラです。ミヅハ姫はウォーターセブンに住む一人の人間の男に恋をしたそうです。しかしミヅハ姫と男の恋仲を海が許しませんでした。海は怒り、荒れ狂って航海や漁をする人間をことごとく海の底へと沈めました。
そして海はそれでも男を愛し続けるミヅハ姫を諦めさせようと、別の人魚の女を使って男を誘惑させ、男の想いが偽りのものであると
ミヅハ姫に見せつけようとしたのです。男と人魚の女の逢瀬を見てしまったミヅハ姫は嘆き悲しみ、男の前から姿を消しました」

何て悲劇なんでしょうね、とカリファをため息をつくように言った。横で落ち込んでいたアイスバーグが先を続けた。

「…カリファ酷いぞ。だが男は決して人魚の女に誘惑されず、ミヅハ姫を愛し探し続けた。そしてちょうど今日にあたる満潮の夜、ミヅハ姫を見つけ出し、変わらぬ永久の愛を誓ったそうだ。ミヅハ姫は涙し、同時に海に向かって変わらぬ海への誓いと男への愛を捧げた。海は遂にミヅハ姫を許した。代わりに海は毎年、ミヅハ姫に自らへの誓いの言葉を捧げる事を要求し、ミヅハ姫は毎年この日夜になると海に言葉を捧げるって話だ」
「海が…って完全におとぎ話ですけど、何だかロマンチックなお話ですね」
「ンマー。ウォーターセブンに住んでいる人間なら誰でも知っている有名な伝説さ。それがこの豊漁祭の謂れだ」

海に言葉を捧げるミヅハ姫は毎年、ウォーターセブンにいる女性が選ばれる。
一度しか出来ない故に毎年同じ人物がなることはない。
どんな女性が選ばれるかは市長であるアイスバーグも分からない。
何でも運営会が伝説に基づく独自の選考で決めているらしい。

「あんただったら十分選ばれる可能性があるだろう。観光ついでに街を散策してみるといい。きっと声を掛けられるぞ」
「社長、「アイスバーグさん」」
「「セクハラです」」
「……」

落ち込むアイスバーグに礼と別れの挨拶をして去った。そうして、こうやってただヤガラに乗って水路を巡る冒頭に至る。
アイスバーグの話をもう一度、ボーっと思い出していると、ヤガラが舐める手の感触で意識を戻した。

「それでアイスバーグさんのミヅハ姫の話がすごく羨ましかっただけなんだよ、ヤガラちゃん…」
「にー…にー!にー?」
「…え、向こうって…あ、あのカップルがどうかしたの?」

突然自分の裾を引っ張って水路の向こうでイチャつくカップルを示しているらしい。
先ほどのミヅハ姫の話をヤガラに聞かせた事からして、賢いヤガラの事だ、きっと名前の悩みを見抜いたのだろう。
名前は感心と同時に降参と両手を軽く挙げて喜ぶヤガラを撫でた。

「そうだよ、私も好きな人がいるんだ…」
「にー!ににー!!」
「何で一緒にいないのかって…それは…、任務、今日の任務があったからなんだよ?
昨日と今日でホントは一緒に過ごす予定だったんだけど、任務だからしょうがないもんね?」
「に」

ヤガラは顔を振って名前の裾を軽く噛んだ。嘘つき、ヤガラの言葉が聞こえてきそうだ。

「…ごめん、半分だけ…嘘だよ。今日は任務で会えなくなっちゃったのは本当。でも、昨日は確かに会える時間はあったの。私から断ったんだ」
「にー?」

ヤガラの心配そうな顔に思わず鼻がツンとしてしまって顔を歪める。
いつの間にか人通りから外れた静かな水路まで進んでしまっていた。
海が見える、その綺麗さに悲しさが溢れる。
そして、らしくもなく膝を抱えてしまった。
駄目だ、耐えないと。
しょうがないことなのだから。

「昨日ね…会う直前に見ちゃったんだよ。スモーカーさんが、ヒナさんといるところ」

久々にスモーカー准将と本部へ戻って来たと途中で出会ったたしぎの報告を受けて、喜ぶ心を抑えながら向かった。
海軍屈指の女将校、と謳われ恐れられ敬われていても、名前はまだ年若い。
寧ろ花盛りな年頃だ。
表向きは少将故に気丈に振舞うことはあっても、本来は大将3人や元帥が非常に可愛がるほど温和で大人しい性格だ。
年相応の反応や好みもあるし、恋もする。
スモーカーはまさにかけがえの無い存在だった。

―あらスモーカー君、今戻ったの?ヒナびっくり
―うるせェ、おれだって予想以上に早く着いちまってびっくりしてんだからな
―ところで会って早々人を引きずっていくのは良い行動とは言えないわよ
―用があるんだよ、さっさと来い
―そんな所だろうと思ったわ、まったく昔とちっとも変わらないのねスモーカー君は、ヒナ納得
―さっさと来い

親しげに話すそんな姿を見てしまえば、足だって止まってしまう。
そりゃ確かに2人が仲が良い事は知っていた。
海軍本部大佐“黒檻のヒナ”と“白猟のスモーカー”。
2人は海軍学校からの同期で、ほぼ同時期に大佐に就任したと聞いたことがある。
軍学校時代から素行が悪かったスモーカーと反対に優等生であったにも関わらずヒナはスモーカーを度々助けていた、と。

それでも、あんな風にスモーカーがヒナの腕を掴んで人気の無い場所へ移っていく姿を見ていられない。
そんな信頼している目でヒナさんを見ないで、そんな分かり合ったような目でスモーカーさんを見ないで。
込み上げる言葉と想いを瞬間的に飲み込んだ。
ここは海軍本部の廊下だ、周りには他の海兵たちもいる。
駆け寄れるはずがない、嫉妬なんて想いを叫べるはずがない。公では2人はただの少将と准将なのだから。

「スモーカーさんと一緒にいられるヒナさんが羨ましい…」
「にー…」

素直に出た言葉に悲しそうな泣き声を上げたヤガラの目に映る自分を見て初めて気がついた。
冷たい雫が頬を伝う。
悲しそうな顔が惨めで情けなくて顔を下に向けた。
こんな事で泣いてしまう自分も情けない。
もっと大人になりたい。
どんなに力をつけて地位を上り詰めても、埋められない差をこんな時に実感するのだ。
スモーカーとヒナに絶対的に追いつくことが出来ない自分。

伝説の中のミヅハ姫は別の人魚の女と恋い慕う男が逢瀬をしている姿を見た時。
ちょうどこんな気持ちだったのだろうか。それでも彼らは最後に結ばれた。

「ミヅハ姫が羨ましいよ…」

会いたいよ、スモーカーさん

会ったってどんな顔をして良いか分からないはずなのに、耐え切れなくて呟いた。

今だけは、とヤガラに泣きつく名前の姿はとても少将には見えない。
恋焦がれる普通の女の子だ。
それは、名前を心配するヤガラだけが知っていた。


こんな事って、あるんだろうか。
慰めてくれるヤガラに感謝しながら、やはりウォーターセブンを早めに発とうと海列車の駅へ進路を変えた。
まさか、出会うだなんて思ってもみなかった。目の前で息を切らしている存在に唖然とする。
ちょうど海軍本部マリンフォードからやって来た海列車パッフィング・トムが駅を発つ汽笛を鳴らす。
乗るはずだった海列車の発車を見送りながら、名前は驚きと気まずさで小さく呟いた。

「スモーカーさん…」
「どういうことかきっちり説明してもらおうじゃねェか、名前」

行き交う通行人が何事かと物珍しげに視線を送っていた。

「今日は一日中任務なんじゃなかったのか名前」
「そ、それはですね…っ」
「市長との面会ってやつは午前までってさっき聞かせてもらったぜ」

どうしてソレを、と名前は心底気まずそうに視線を逸らす。
今日の約束を任務が一日中入ったからと言ってドタキャンした。
しかしまさかスモーカー自身が単独でウォーターセブンまで乗り込んでくるのは計算外だった。
もちろん、面会は午前まで。
一日中など嘘八百を完全に見破られた状態で名前はもう一度今日は最悪だと感じた。

「嘘をついてた事は謝ります、でもスモーカーさんも今日は夜まで別の任務だったんじゃないんですか!?」
「それはお前の任務が一日中だと聞いたから入れたモンだ。ンなのもう既に済ましてきたに決まってるだろうが」

お前と会える貴重な時間を任務で潰すと思ってんのか。スモーカーの有無を言わさない台詞に名前は閉口した。
もっともだ、本来なら昨日で約1ヶ月ぶりの再会になるはずだったのだから。
同時に密かに自分を優先してくれるスモーカーに心がときめいたのは名前だけしか知らない。

「とにかくココじゃ落ち着いて話もできねェ。来い」

無造作に捕まれた腕の感触に、名前は咄嗟に昨日のスモーカーとヒナのやり取りを思い出して抵抗した。
予想外な抵抗にスモーカーは僅かに目を見開いて名前を見る。

「あっ、あの私、やっぱりこのまま次の海列車で帰ります!」
「名前?」
「だから離して下さい、離して…」
「どうしたんだ、」

慌てた名前とスモーカーの会話は途中で途切れた。同時に感じた気配に2人は反射的に構える。
どこからか視線を感じるのだ、怪しい気配を感じればいつでの対応できるように戦闘態勢を取る。将校の鉄則だ。
しかし次の瞬間には拍子抜けしていた。

「お嬢さん、お嬢さん。顔をよう見せてくれんかの」
「え、おじいさん…!?」 
「ジジィだと?」

2人を反射的に構えさせるほどの手だれとはとても思えない一人の老人が傍に寄って来たのだ。
よく見れば、建物の合間からも同じような視線をいくつか感じる。
老人は戸惑う名前に構わず近づいて、名前の顔や体を品定めするように眺めて頷いた。

「んむ、やはり!わしの目に狂いは無かった。その容姿、そして傍の男とのやり取り。完璧じゃ」
「は…?えっと」
「今年のミヅハ姫よ、今夜は頼んじゃぞ」
「えっえぇえ!??」

ミヅハ姫、という単語に耳を疑って名前は思わず驚きの声を上げてしまった。
すると先ほどから感じていた同じような視線が建物から姿を現してくる。
皆、老人と似たような服を着た老若男女だった。これがミヅハ祭の運営会か、と直感する。

「おい、ジィさん。ミヅハ姫ってのは何だ」
「私から説明致しますね、お連れ様」

運営会の女性の一人が微笑んでスモーカーにミヅハ祭の内容や由来の伝説を丁寧に説明していた。
その間、当のミヅハ姫にまさかの白羽の矢が立てられた名前は必死で老人に辞退を申し出る。
しかし老人は頑として名前の辞退を認めなかった。何でも、今年のミヅハ姫として目に止まる存在が中々居なかったらしい。
現に祭りが始まる寸前の今までミヅハ姫が不在という前代未聞の事態だったのだという女性の声が聞こえた。
しかもミヅハ姫を決める決定権はこの老人のみにあり、名前がミヅハ姫をしない場合は、ミヅハ祭が取り止めになりかねないと言う。
そこまで言われれば、名前の良心が断る事を許さなかった。
ミヅハ祭の重要性を聞いた後では尚更だ。

「良いじゃねェか、やればいいミヅハ姫を」
「ス、スモーカーさんまで!?」

てっきり反対すると思っていたスモーカーまで何やら女性から話を聞き終えて意味有り気に笑っている。
これはもう完全に諦めるしかない。先ほどのスモーカーとの空気も忘れてしまってミヅハ姫の事で頭がいっぱいになる。
ミヅハ姫と言ったって、自分にそんな大役ができるわけがない。
大体舞台で海へ言葉を捧げるだなんて、何の言葉を捧げればいいのか。
困惑する名前に運営会の女性が数人やって来て、「さあ、ミヅハ姫様。急いでお召しかえを致しましょう」と名前を誘導する。

「おお、お召しかえ!?」
「はい、ミヅハ姫様のお衣装を用意して御座います。お連れ様もどうぞご一緒にどうぞ。さあ姫様」
「ちょっ、は。まさかスモーカーさん、これも聞いて!?」
「行ってこい名前。綺麗になってこいよ」

計算してたのか!!先ほどの説明でミヅハ姫の姫衣装の事も聞いたらしい。通りで物分かりが良いはずだ。
スモーカーの珍しい意地悪そうな笑みも今の名前にとっては恨めしいものでしかない。
女性たちに連れられながら、名前は心の中でスモーカーに向かって恥ずかしさで恨めしく思った。


「まあ!!よくお似合いですよミヅハ姫様!まるで本物の人魚のよう!」
「水の都に降り立った海に愛されし人魚の姫…綺麗ですわ!」
「…そ、そうなのかな…」

キャーキャーと騒ぐ運営会の女性たちに名前はげんなりしていた。
あれから何時間が経っただろう、日はもうとうに暮れて夜も深い。
満月の明るさだけがすっかり夜になった事を知らせる。
女性たちに拘束されて、大急ぎで化粧や衣装、髪型を整えられたが、これほど時間がかかるものだとは思わなかった。
普通、ミヅハ姫は祭りの当日、朝から一日掛かりで着替えさせられるらしい。
午後から着替えだした名前はそれは大急ぎだったのだろう。
会心の出来に興奮して喜ぶ女性たちを周囲に名前はやっと大鏡で自分の姿を確認する事ができた。

「っ…」

一瞬、自分でも鏡に映る存在が誰だか分からなかった。
透き通る蒼と白を基調としたふんわりとした独特のマーメイドドレス。
所々光の反射で蒼から紫へ変わるアクセサリーが輝いた。
体を動かして見れば、腕や足の細部にまで渡って施されている鱗をモチーフにした水色のシルクシフォンが風に揺れる。
綺麗にカールされた茶色の短めの髪も今や綺麗に横にまとめ上げられている。
そこには、海に愛された美しい人魚の娘…『ミヅハ姫』がいた。

正直自分がここまで変わるとは思っていなかった。名前は喜ぶ女性たちの腕に改めて感心した。
確かにこれほどの大掛かりな仕度には一日掛かりになるはずだ。
めったに着ない煌びやかな衣装に見とれているといつの間にか周りで騒いでいたはずの女性たちの声が聞こえなくなった。
あまりに衣装に夢中になり過ぎていたと名前は慌てて後ろを振り返る。ちょうど出入り口にあたる扉の前。
名前はまたもやめったにお目に掛かれない光景に立ち尽くしてしまった。

スモーカーが。
あの鬼の大佐、白猟、煙の悪魔など…ぶっそうな通り名をいくつもつけられるほどの恐持てがあっけに取られている。
あ、口から煙草が落ちた。
名前は心の中で突っ込んだ。
そりゃあもう、驚きで十分下に開いた口から三本とも見事に。
瞳はこれでもかと見開かれ、お互いしばしば見詰め合う。
それから一気にスモーカーの頬が染まった気がした。

「スモーカーさん…変ですか…?」
「ッ!!変なワケねえェだろうが!」
「え、何で怒って…」

片手で顔を覆った後スモーカーはまだ紅い顔も隠さずズカズカと名前の前まで歩いてきて、
羽織っていた私服のジャケットを勢いよく名前に被せた。名前の視界が一瞬揺れる。

「くそ…こんなに似合うだなんて思わなかったぜ。おい、舞台まで絶対それ脱ぐんじゃねェぞ」
「え、はい。あのスモーカーさん…似合ってますか…?」

名前の恐る恐るの問いにスモーカーは眉を寄せて何とも言えない表情と同時に名前を抱き寄せた。
逞し過ぎる胸板の温かな感触に名前が赤面して硬直すると、そっと耳元で囁かれる言葉。

「このまま喰っちまいたいくらいにな…」

スモーカーの低い笑い声と息に本能的に身体を震えさせた。


祭りのすっかり終盤に近づき、いよいよミヅハ祭の最大の魅せ場が訪れた。
あれだけ屋台や出し物で賑わい、盛り上がっていた通りから次々と派手な明かりが消えていく。
残された光はただ満月の金色の輝きとミヅハ姫が立つはずの舞台の仄かな明かりだけ。
祭りでウォーターセブンのあちこちにあった人だかりは既に舞台にのみ集結していた。
今年のミヅハ姫の登場を今か今かと待ち望んで。

舞台裏から人々の視線を見て、一層不安になってしまった名前は足を舞台へ踏み出せないでいた。
何隻もの海賊船を相手にしたことはあっても、何百人という海兵をまとめ上げたことはあっても。
こんな緊張を覚えたことはない。
後ろから注がれるスモーカーの視線も拍車を掛けた。

「どうした?名前。まだ緊張してんのか」
「そりゃ緊張しますよスモーカーさん!こんな衣装だって舞台だって初めてですし!ましてや海へ捧げる言葉なんて…今も思いつきません!」
「クッ、そうやってると年相応だな」
「年相応って…大人っぽくないって言いたいんですか…っ!」

スモーカーの言葉に、大人っぽいというイメージからすぐに連想できた人物を思い出す。
セクシーや大人の女性を具体化したようなヒナの存在が今になってまた羨ましくなった。
安心させるように伸ばされたスモーカーの手を今度はしっかりと意識して抵抗し、スモーカーを見た。

「昨日…ヒナさんと何をしていたんですか?」
「…お前、見ていたのか」

逃げない、射ぬくような名前の瞳に一瞬怯んで、昨日のヒナとの事で名前が昨日から不自然だったのだと気がついた。
それから込み上げてくる感情を抑えることができずに、場の空気に逆らってクククと喉で笑ってしまった。
スモーカーが笑うとは思わず、名前は馬鹿にされていると更に怒りを増させる。
撫でるようにスモーカーの指が、手が名前の頬に触れた。

「嫉妬したか?おれがあいつといたのを見て」
「っあ、当たり前です!私だって…、私はヒナさんみたいにはなれませんから…」
「なんなくてイイんだよ」

ムニリと頬を摘まれて痛いと抗議すれば、穏やかな笑みと視線で自分を見つめる目があった。
あっけにとられて先ほどあれほどボルテージを上げていた怒りが静まっていく。

「正直嬉しいンだよ、おれは。おればっかりがお前を思っているワケじゃねェと分かったからな」
「え?」
「お前は嫉妬したと言ったが、お前のソレをおれは毎日お前に接触するクソ野郎共にしてんだよ」

スモーカーは抓っていた指を離し、名前の頬を撫でてやる。

「名前、今だから言ってやるよく聞け。おれはお前に惚れてんだ、どうしようもねェくれえな。今更他の女なんか目に入ると思うか?あるはずないな。だからヒナとは何でも無ェよ」
「じゃあ…何を…」
「チッ…これが終わったらやろうと思ってたんだがな。ほらよ」
「子電伝虫?でもこれ、デザインが何だか見た事無いです」

いや、どこかで見た事がある気がする。と名前はしばしば考え、そして思い出した。
そうだ以前、昔からの友人であり現在は海賊として新世界を放浪している友人が持っていた物とそっくりなのだ。
友人はその子電伝虫で所属している赤髪海賊団の船長“赤髪のシャンクス”と連絡を取っていた。

「これはツイン電伝虫だ。新世界の一部でしか入手できない希少種でな。対の電伝虫の電波しか受け取らん。その代わりどんなに離れていても対とだけは電波を受け取って通信が可能なんだ。この意味が分かるか?」

眠っている子電伝虫を名前に渡し、スモーカーがジャケットの中をチラリと見せれば全く同じ物がもう一匹。
それはつまり、どんなに離れていても名前はこの電伝虫でスモーカーと会話ができるという事。
ヒナに頼むしか手に入らなかったんだ。スモーカーの呟きに名前は嬉しいやら恥ずかしいやらで抱きついた。
これで広いグランドライン、離れていても自由に通信することができる。

「おい名前…」
「大好きですスモーカーさん、世界で一番貴方だけ」
「…それ以上は言うなよ。このままだと我慢仕切れなくなるからな」
「え」
「冗談だ。誕生日おめでとう、名前」

ええ!?と名前は今度こそ不意打ちでスモーカーから離れて驚いた。
そう言えば、今日は誕生日ではないか。
最近任務続きですっかり日付の感覚が無くなっていた。
やっぱり忘れていたかというスモーカーの苦笑が見える。
顔を上げた際に唇に一瞬だけ暖かな感触が当たった。

キスされた、理解する間もなくスモーカーは離れると名前を抱きしめから開放する。

「その子電伝虫はおれからのバースデープレゼントだ、今日中に渡せて良かった」
「スモーカーさん。私、今一生で一番嬉しいかもです」
「今だけじゃねェ。これから一生だ」

ほら、行って来いというスモーカーの言葉に舞台へと足を進ませた。
時間もちょうど予定通り。満月の光の下、舞台に立った名前にもう緊張は無い。
今なら素直に言葉を紡げるだろう。

満月の夜、ミヅハ姫は舞台で愛する男の視線を受けながら海へと誓いの言葉を捧げました。
海はミヅハ姫と男の愛を許し、海に豊漁と安寧をもたらしました。
遠い昔から語り継がれてきた古い伝説。

「世界を覆う大いなる海…私達を育んでくれてありがとう。私はこの足で、この大地で、愛する人と生きていきます。どうかこれからも全てのものに海の加護があらんことを」

言葉を静かに紡ぎ上げた瞬間、舞台を中心に歓声が沸き起こった。
周り全てがミヅハ姫コールで溢れかえる。
舞台の上で名前は静かに笑った。

もちろん、視線の先は舞台裏から舞台のよく見える観客席へと移動したスモーカーへのみに当てて。

ハッピーバースデー。
愛する人と愛する海で、これからも幸せを紡いでいこう。

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