第2回「町」 | ナノ


 白に溶けゆく貴方を繋ぎ止めるのは、いつだって私の絞り出した残響すらない掠れた声だ。

 出会った当初から肌の白斑には気付いていた。それでも触れてはいけないような気がして、出会ったばかりだというペンギンやシャチさえも知らないようだから聞かないでいた。やがてその話題自体がタブーとなり、彼の肌も健康な少年のそれと大差ない物へと変化すれば私達の記憶からもその出来事は消え去ってしまった。それよりも、駆け出しの海賊として生き残るのが精々な日々を過ごしていたから忘れていたということもあるだろう。
 これは又聞きだが、飲み慣れない酒に潰れたキャプテンが呟いたらしい。出身はフレバンスだ、と。北の海にいた者なら、医療に携わる者なら、その国名を聞いただけであの酷い事件は記憶の奥底に眠っていただろう。だけど、その頃には付き合いも片手を開いた分まで積もっていたし、私達もこうして毎日を生きているのだから政府の流した情報は嘘なのだろう。嘘は病気諸共戦火に焼かれ、少年の体の中でひっそりと治癒されて根絶されたのだから。私達はそれ以上追求しなかったし、必要もないと思った。詰め寄った所で彼が素直に口を開くと思わなかったし、何より敬愛するキャプテンを少なからず傷付けてしまうのは本意ではなかったからだ。
 だけど、と思う。もし彼の「病気」が治癒せずに経過していたら。その白は彼を内側から蝕み、連れ去ってしまったのだろうか。そう思うと、私は途轍もない不安に駆られる。もう彼を冒す病はないとわかってはいても、雪が吹き荒れる日や眩い太陽の中。甲板で吊るされた洗い立てのシーツの中。烟る雨の中。白が、貴方を連れていってしまう。そんな錯覚に囚われてどうしようもなくなってしまう日があるのだ。その白に捕まってしまったらもうきっと、キャプテンは戻ってこない。
 そんな日が来ることが、見失う恐怖が私を不安の渦中に叩き落とすのだ。


「名前ー、島が見えたよー」
「うわっ!」


 背後から掛けられた声に全神経が飛び上がる。完全に油断して猫のように跳ねた私をベポが不審な瞳で見る。ぼやっと海図を眺めていたのが仇となったらしい。驚かせたならごめんね、と謝ってくれるあたり彼の良心が伺える。そういえば彼の白い毛皮にキャプテンが埋もれて吸収されてしまうんじゃ、と初めの頃は気持ち悪い妄想をしたものだ。


「ごめんね。えっと、どれくらいで着きそう?」
「港の死角に停めるから一時間くらいかな」
「わかった、それくらいには私も甲板に行くから」


 慌ただしく海図を整理する。白熊の肉球がついた描き損じは丸めて屑篭へと放った。三つ前の島の海図が描き終わり、急いで日誌も書き上げる。そうすれば二週間ぶりの陸を堪能できるだろう。

 そう、思っていたのに。彼を攫う純白は、どこまでいっても私を邪魔するらしい。雪が吹き荒れる日や眩い太陽の中。甲板で吊るされた洗い立てのシーツの中。烟る雨の中。そして、今目の前に立ち塞がる濃霧。


「……うそ、でしょ」
「へぇ、厄介だな」
「あ……キャプテン……」


 森を中心に曇っているな、と呟きながら私の隣に並んだのはキャプテンだった。お昼には見かけなかったから多分、今し方起きてきたのだろう。今日は黒いジャケットを羽織っている。ペンギンやシャチは「キャプテンは黒い服を着ると暗闇に紛れて見失ってしまう」と笑っていたことがある。そんなことないのに。暗闇から覗くあの鋭い視線を、どう間違えよう。
 だけど、白だけは。幾分柔らかい視線を持って見ることを知ってしまってからは、亡き故郷の様子でも思い浮かべるかのようなその視線に気付いてしまってからは、どうしてもキャプテンは白に攫われると怯えてしまう。勝手な妄想だとわかってはいても、その予感が当たりそうで私は必死にキャプテンの背を追う。


「以前お話しした物資供給についてですが、」
「ログが貯まるまで集められそうか」
「手分けすればすぐです。宿泊はどうします」


 ペンギンがメモを片手に近寄ってきた。物資調達の総意は船の中で決めていたので、後は下船した後に揃えられるかどうかだ。次の島までの猶予と、次の島でも物資が潤沢に揃えられるかわからないため多めに見積もっておくべきだが、特に食材は傷みやすく、温暖な海域に行くなら生鮮品は考えなければいけない。幸い、私の持ち場は日用品管理なのであまり頭を使わなくても良いのだが。
 そしてこの濃霧。街の奥には森が広がっており、そこが薄っすらと黒く見える程の霧だ。もしかしたら夜はもっと濃くなるのかもしれない。そうなると何の考えなしに全員がホテルに泊まるのは避けたいところだ。濃霧に紛れて敵が襲ってくることも考慮する。キャプテンもそれを懸念しているらしく、一拍の思考の後に薄い唇を開いた。


「……今回見張りは多めに残せ。宿泊は数人のローテーション、それ以外は夜はなるべく船にいろ。海軍の駐屯所も見えるしな」
「今日はもう日没に近いです。情報共有後、解散で宜しいでしょうか」
「ああ。それ以外は任せる」
「アイアイ、キャプテン」


 話は終わりだと言わんばかりにキャプテンが能力を展開させる。自身と地上を繋ぐ半円も、タラップを使わずに降りるのも見慣れた光景だ。まるでそれが、私と彼を隔てるような気がして。その先へと誘われて攫われるようで、私は居ても立っても居られずに手を伸ばす。その無意識下の状況を打ち破るように理性が顔を出す。止めてどうすると言われたように戸惑って、手が帰ってくる。それにつられたかのか、はたまた気配で気付いたのかもしれないが、キャプテンがこちらを見た。


「───……お前は、」


 半円の中で呟かれた言葉は霧散した。そうしてなんでもないとばかりに帽子の鍔を下げ、吐き出す予定だったものとは恐らく違う言葉を紡いだ。


「名前、小電伝虫を忘れた。悪いが先に行っているから取って来てくれるか」
「あっ、はい!」


 咎める言葉も、問う言葉もなかった。代わりに寄越されたお使いに踵を返して船内へと戻る。扉を潜る寸前、能力が解除された。シャボン玉が弾けるように音もなく───キャプテンは、霧の中に姿を消した。


「───まじかよ、キャプテン先に行っちまったのかよ」


 この街は、港が近いからか木造よりも煉瓦の建物が多い。石であれば潮風の影響も少ないからだろう。なにより、霧が立ち込めるのなら湿気も考慮しなくてはいけない。古い建物も多く、伝統あるモチーフを国章としてドアに貼り付けている住宅ばかりだ。こういうところは新参者を受け入れ難いのだが、港があれば往来や貿易もあるため僻地の集落よりは心開きやすいだろう。そう見解したペンギンから視察も兼ねて飯を食ってこいとシャチと共に船から放り投げられた。着込んだ私服のおかげで旅行者のカップルにでも見えるだろう。お互い服の裏に仕込んだダガーとグロッグさえ見つからなければ。
 久々の煉瓦で出来た大通りを歩く。足の裏から伝わる硬い凸凹の感覚は船では味わえない。ひっそりと踏みしめていると、残念そうなシャチの声が上がった。


「あの人が一番に船を降りるのは今に始まったことじゃないでしょ」
「いや、一緒なら飯奢ってくれるかなって」
「奢らされる、の間違いじゃなくて?」


 本来なら丸一日かけてクルーが島や街を偵察、巡回して規模や安全を確認してから頭が下船するものだが、うちのキャプテンにはそういった危機感はない。もしかしてあの人は頭がいいから外観を見ただけで情報が頭に入っているのかもしれない。あり得ない話ではないな、と思う。
 西の狭間で日暮れが厚い埃に覆われたように明瞭ではない。小さな広場にある時計に目を凝らせば見ればあと三十分で日没だ。持ち運び用の紙コップに入った珈琲を啜れば霧と混じって心成しか薄いような気がした。密度が増している。海上で冷やされた霧が入り込んでいるのだろう。前髪の先がしっとりと濡れて絡まる。


「……ま、あの人は一番に行きたい場所があるからな」
「なんて?」
「しらねぇの? キャプテン、島に寄ったら一番に教会を探すんだよ。何をするわけでもなく座っているだけだけどな」


 そういえば、そうだ。去年の夏島で見つけた白亜の教会で彼がぽつりと呟いた言葉がまるで呪いのように反響する。
 「……故郷では、教会に通っていた」
 それが初めて彼の口から聞いた過去で、失言だと言うように帽子の鍔を下げたのを覚えている。照りつける太陽にその帽子は白く反射し、代わりに翳ったその目元は見えなかった。彼はどういう気持ちでそう言ったのだろう。折角晒された懐さえ、まるで失態だと言わんばかりに自嘲する口元に、私は頭を殴られたような気分だった。
 嗚呼、私はこの人を見失わないようにと探し求めていたというのに。この人は初めからここにいなかったのだ。同じ土地に立ち、道を往くことさえ許されていなかったのだ。そう突きつけられた絶望に、足元が脆く崩れ去って行くようだった。足掻くように、否定するように彼に手を伸ばす。指先に触れたのは柔らかいカットソーだというのに、それがまるで彼の皮膚のようにすぐ振り向いた。その瞳がかち合えば、彼の唇は何と言っただろうか。白亜の教会にホワイトアウトする。


「名前ー、聞いてんのか?」
「え、あ、ごめん。聞いてない」


 素直に口をついた言葉をするりと出せば、シャチは無言で後ろを指差した。漏れる明かりと騒めきに、繁盛している飯屋だとわかった。まるで仕事の時間だと言わんばかりの態度に周りを見渡す。いつのまにか街の中程まで歩みを進めていたらしく、飯屋の反対側には教会が建っていた。そちらは明かりがなく、ちょうど神父が一日の勤めを終えて施錠をするところだった。もう一度シャチが私の名前を呼ぶので、それ以上は詮索できなかった。
 役に立たないような簡素なドアベルが喧騒に紛れ、カウンターに陣取る。水のグラスをカウンターに優しく置くウェイトレスは笑顔だ。余所者と警戒心を抱いていないことを確認し、こちらも笑顔で礼を言えば同性というだけで少しばかり表情が柔らかくなった。


「ご注文は?」
「サラダとパスタ、なんでもいいからオススメで。そっちは?」
「あー、ビフテキレア三枚とコロナ」
「あ、私もコロナ一つ」
「かしこまりました」


 ウエイトレスが注文を書いたメモを目の前の主人に渡す。船乗りのように日焼けして膨れ上がった筋肉の上には細かい傷のついた刺青が象っている。火傷の箇所もある。料理人らしい良い腕だった。


「よう、嬢ちゃん達は新婚旅行か?」
「ち、違います! おれ達ァグループで遊びに来ているだけでっ!」


 慌てたようにシャチが否定して、それにそうですよーとやんわり返す。海軍の駐屯所がある島で「海賊」と名乗るのはご法度だ。いくら親密的でもこちらから暴く必要はなく、「カップルになりそこないの集団で遊びに来ている旅行者」のほうが受け入れやすい。今回もそれにつられて気を良くした大柄な主人が笑みを浮かべる。人は見え隠れする秘密性と話題があるほうが食い付きが良い。素早くシャチに目配せをして、楽しいトークタイムといく。


「いやー、それにしても凄い街ですね!」
「びっくりしただろ? この街は年中霧で覆われる。もちろん周りの海が暖流っつーのもあるが、それ以上に街の中心にある森が関係している」
「森が?」
「おうよ、この森は、呼吸するんだ」


 一層声を低くした主人に乗るように、シャチが緊迫した面持ちで喉を鳴らした。偵察と演技力に関して、シャチは飛び抜けて優秀だ。話しやすく、話上手。思わず余計な一言───こちらにとって有益な情報を漏らしてしまうことだってある。


「そうだ、あの森は霧を吐くんだ。だから森のほうが霧が多いだろ? それに今日から一週間は迷い子の森となるんだ」
「なんだそれ」
「霧が昼夜問わずより濃くなるんだ。まず目の前がもう見えねェ。自分の手のひらさえもな。普段浅いところは人が入るが、この期間だけは誰も入らねェ。戻ってこれねぇからな」
「なるほど、だから迷い子な……」


 感心したようなシャチの声に合わせて肉の焼く匂いが届く。油が爆ぜる音に合わせて「でも昼間見た時は幻想的で綺麗でしたよー」と言う。着岸したのは先程なんだけど。


「それなら運がいい。昼間はまだ始まってなかったからな。今頃はもう白く煙ってるだろう。まあ、行ったところで特に面白いもんもねェし」
「何かあるんですか?」
「五十年以上前は集落もあったみてェだが、ここ最近は特に霧が濃くて誰も立ち入らねぇな。あるとしたら廃墟の教会くらいだ」
「……教会?」


 その言葉に、フォークの先で刺したトマトが落ちる。何処かで聞いたフレーズだ。
 薄暗い教会、施錠をする神父、白亜の教会、照りつける太陽、白む視界、森を中心に曇っている───「故郷では、教会に通っていた」


「……シャチ、」


 いつのまにフォークが指先から滑り落ちたのか、気付かなかった。その音なのか、偵察中は身元詐称のため決して呼ぶことのない名前を声にしたからなのか、シャチも困惑と緊張を綯い交ぜにした顔をする。


「キャ……ボス、どこにいるの?」
「はあ? ……あの人のことだから、いつもの放浪癖だろう」
「彼……森を気にしていた」
「森に入っていったっていうのか? 仮にそうでも、あの人なら……いつもので抜け出せる」
「でも、」


 言い淀む私の異変に気付いたのか、ウエイトレスや主人が心配そうに覗き込んできた。焼けた肉の匂いと、茹で上がったパスタの匂いが混じり合って、焦燥を生む。


「どうした、嬢ちゃん」
「ああ……その、仲間の人がもしかしたら森に入ったのかも、って」
「森には柵がある。入り口は管理人の婆さんが見張ってるから今の時期は簡単に人を入れないはずだ」
「そうだ、それに森に入ったって決まったわけじゃ……」


 キャプテンなら能力で容易に入ることも出ることもできる。それをシャチもわかっていて言及せず、行き先のみを考える。だけれども、私には一つの確信がある。雪が吹き荒れる日や眩い太陽の中。甲板で吊るされた洗い立てのシーツの中。烟る雨の中。
 いつも彼を誘うのは、純白の。


「……彼は、島に着いたら一番に教会を探すんでしょう。向かいの教会は、施錠をしていた」


 先程自身が言った言葉が返ってきて、喉仏が上下するのが見えた。「でも、」とまだシャチは言葉を探して唇を動かす。私の不安が移ったように、サングラス越しの瞳が瞬く。


「あの人だって、外出の時は小電伝虫持ってるし……」


 私は懐から見慣れた帽子を被るアレンジされた小電伝虫を取り出した。シャチの強がりで上がった口角が引き攣る。


「……おいおいおい、まじかよ……」
「シャチは向かいの教会を調べて、ペンに連絡して。街なら迷うことないでしょう。見つかったらこっちに連絡して」
「お前はどうするんだよ。聞いてただろ、森は入ったら出れる保証はないんだぞ」
「彼さえ捕まれば、帰れるでしょ。行かせて」


 ぐっ、と言葉に詰まったシャチはそれでも一拍の躊躇の後、わかったと言うように手を上げた。それを合図に飯屋を飛び出した私は、立ち塞がる霧の壁に突入した。知らない人の引き止める声が遠退く。明瞭なはずの街灯がぼんやり映る。纏わりつく湿気が肌を、髪を、睫毛を濡らす。まるで細かいスコールを浴びているようだ。吸い込む酸素が少ないような気がして、息が上がる。だけど、私は走り続けなければならなかった。取り返すために。
 森へまでの道のりは呆気ないもので、飯屋の通りを真っ直ぐに進んだだけだ。やけに大きい通りだと思ったが、多分メインストリートなのだろう。キャプテンのことを考えていたことと、脇目も振らずにここまで走ってきたことも相まって漸くそれに気付く。むしろ酸欠で余計なことばかりを考える頭が拾ったどうでもいい情報だ。振り払うように頭を振ると、水滴になった霧の集合体が散った。
 膝に手をついて息を整える合間に、聳え立つ鉄門を睨め上げる。周囲は飯屋の言っていた通り柵が覆い、合間から手招きするような枝が伸びている。しかし、森の呼気が霧を纏って一歩先さえ見せない不気味な空間が口を開けている。いざ虎穴に入ろうとすると、門の所にいた一人の老婆が近寄ってきた。主人が言っていた管理人だろう。


「おやおや、若い子がこんな時間にここにいるもんじゃないよ」
「すみません、ですが行かせてください」
「ダメだよ。知らないかもしれないが、今日から一週間は霧が濃くなって帰れる保証がなくなる」
「ふ、……はは、まるでダンテの地獄門ですね」


 忌々しいその鉄門の上部に、あの文言が見えたような気がした。私の希望を飲み込んだその口が、何をほざくのか。


「仲間が……大切な人が中にいるんです。私には小電伝虫もあります。止めないでください」
「……どうしても、かい?」
「私はウェルギリウスでもベアトリーチェでもありません。天上の純白の薔薇なんかに、彼を奪わせはしません」
「聞かない子だねぇ。帰り道も一寸先すら見えず、電伝虫の電波すら届かず、まさに地獄を歩もうとする若人を止めるのが老人の役目と言うのに……これを、」


 しょうがなさそうに笑った老婆が、私の頭から半透明の布を被せる。シルクのように手触りがよく、太腿当たりを彷徨う裾には綺麗な刺繍が施されている。一目で高価だと言うことがわかるのに、見ず知らずの小娘に貸し出すものではない。


「本当は鈴と魔除けの香炉も持たせたい所だけど、生憎と今はそれしか持ち合わせがなくてねェ」
「……あの、」
「霧払いのベールだよ。少しは前が見えるだろう」
「ありがとう、ございます」
「大したもんじゃないさ。お気をつけて。見つかるといいわね」
「……見つけます」


 時間が惜しくて、もう一度老婆におざなり気味な礼を言ってから駆ける。門を潜れば直ぐに目の前が白く烟った。深い霧がこれ程と思わず、息を詰めた。だが、ベールがなければきっと目の前すら見えなかっただろう。目に入る粒子を遮断できているからか、ある程度までは見える。海賊は迷信や奇跡を信じ、時には理屈抜きで考えなければならないが、生憎と私は信心深くないのでこれは特殊な素材で出来ていると思い込んだ。神の御加護を願うなら、彼に鈴付きの首輪でもつけて欲しいところである。
 振り返ると、そこは霧に覆われてあの皮肉な鉄門さえ見えない。まるで帰り道を埋められたようだ。でも、それでいい。それくらいの覚悟と対価は必要だ。
 焦燥から駆け足になり、不安が苛立ちに変わってくる。ここまで真っ直ぐに進んで来れているが、分かれ道があると厄介だ。孤独に正常な判断ができない。霧の白と夜の暗闇が混じって、狂いそうになる。怖い。ベールが湿気を帯びてしっとりと手に馴染む。このまま白に溶けてしまったらどうしよう。彼を見つける前に、私が消えてしまったらどうしよう。
 彼が白に溶けそうになる度に、手を伸ばしていた。彼も彼で抗いもしなくて、むしろそうなってもいいと望んでいる所がある。淡い破滅願望を内包している。それを引き上げるように、見つけるようになる度に、彼が振り向いてくれる安堵感の大きさに───私はどうしようもなくなって泣きそうになる。海賊の船長にどこにもいかないでって、言えるわけないのに。

 ぽっ、とモノクロの世界に暖色が灯った。視界の端、右手。そちらを振り向くと少し過ぎた所にぼんやりと映っている。近付くと建物の中から灯っているようだった。もっと近寄ればその扉に特徴的な物が飾ってあるのを見て、ここが朽ちた教会だと知る。霧で覆い隠された死んだ教会の扉はあっさりと、軋むことなく開いた。もしかしたら定期的にメンテナンスされているのかもしれない。飯屋前の教会は周りの建物より少し新しかったから、最近まではこちらを使っていたと予想を立てる。
 小さく燃える蝋燭の隣、会衆席の前列に座る彼もまた、それを見てこちらに立ち寄ったのかもしれない。


「……キャプテン、」


 小さな震える声だった。それでも届いてくれたのか、彼のピアスが小さく揺れてこちらを振り向く。その瞳が瞬いたあと見開かれるものだから、色褪せた薄っぺらいカーペットを辿って歩みを進めていた私はその場にへたり込んだ。今までにない安堵に力を奪われたようだった。


「もおおぉぉぉっ……! 探しましたよ!」
「……何を言っている? 小電伝虫持ってきたか?」
「呑気か! いま夜ですよ!あとこの森、今日から一週間は霧が濃くなるみたいです。帰れなくなる前に迎えに来ました!」
「よる……?」


 私の言葉に眉間に皺を寄せたキャプテンが窓の外を見る。燻んだガラスの先でもわかる霧の深さに、納得したように頷いた。大方気になった森に入って、気になった教会でぼんやりとしていたのだろう。後で森のことは話してあげるから、早く逃れたい。


「ねぇ、キャプテン、早く帰りましょう。みんな待ってますし、寒いし、冷たいし、湿気で髪うねるし最悪ですよ。お腹すいたし」
「……お前は、」


 不安は苛立ちへと変わり、キャプテンにぶつけたそれが安堵の針によって萎んでいく。もうそんなものどうでもいいから、帰りたい。シャワー浴びたい。美味しいものみんなで食べて、キャプテンの眠たげなおやすみ野郎どもって早く聞きたい。私がその場でぐずぐずと愚痴を並べていると、会衆席から立ち上がったキャプテンが真っ直ぐ歩み寄って来た。


「……お前はたまに、迷子になって不安そうな目をするな」
「どういう……?」


 薄手のベールの向こうで仕方なさそうな、困ったようなはにかむ顔が私を見下ろしていた。その顔に、覚えがある。薄手のカットソーと白亜の眩さ、半円の先から見えた霧の街が脳裏に浮かぶ。ああ、この白いベールがなければ、もっと鮮明に見えただろうに。長く航海を重ねて初めて間近で見た表情は直ぐにいつもの仏頂面で隠される。吐いた言葉をそれ以上掘り下げることはなく、長い足を折り畳んで私の目の前にしゃがみ込んだキャプテンの刺青塗れの指がベールの裾を掬う。


「というか、なんだこれ」
「あ、ここに来る途中お婆さんが貸してくれました。霧払いのベールです。便利ですよー、前が見えます」
「その頭悪い回答から察するに、お前これがなんだか知らないだろうな」
「え?」


 私を馬鹿にしたキャプテンが意地悪そうな顔をする。心臓に悪い顔だ。刺繍をなぞる親指が、なんだか目を毒する。


「花嫁のベールだよ。裾の刺繍で婚礼用だとわかる」
「ええっ!? あのお婆さん、そんな大層なものを……!」


 飛び上がるほど慄いて、思わず大きな声を出してしまう。がらんどうな教会内は湿気が多く存在するからか、思ったよりは響かない。それでも建物には幾分反響するから、嫌でもここが霧で外界から遮断された二人きりだと明らかにされる。そして、一生着ることはないと思っていた純白の一部を手にしているというだけで、その、なんだか気恥ずかしさがこみ上げて来た。きっとペンギン当たりに見られたらまだ女心があったんだなって揶揄われる。


「……ベールは穢れなく清らかなものであり、邪悪から花嫁を守るものだと言われている。この街の古い風習で、花嫁はベールを纏い香炉と鈴を携えて森を一周して帰ってきたら生涯息災なんだとよ」
「へぇ、祈願みたいなものですか」
「ああ、だから花嫁が駆けてきたのかと思った」
「なっ……!」


 ああ、なんて悪い顔だろう。追い討ちをかけるように「おれと結婚するか?」なんて笑いながら言われても真っ赤になった私はベールを掻き集めてそれに顔を埋めるしかなかった。揶揄われているだけだとわかっているのに、心臓も血液も言うことを聞きやしない。喉を震わせて笑っていた彼も漸く落ち着いたのか、楽しそうな声色で知っているか、と聞いてくる。


「何もベールの役目はそれだけじゃない。ベールは花嫁と花婿を隔てる壁でもある」


 そうだ、今の私と彼みたいに。白の世界に閉じ込められて、尚も私から彼を隔離する白。あれ程踊り狂っていた心臓は平常に近付く度に、忌々しくなる。せめてこのベールだけでも脱ぎ去ろうとしたそれを止めるように、キャプテンがベールを持っている手の反対で掴む。それが居住まいを正すように指先を辿って緩く絡まれば、また動悸がして血流が良くなる。振動が伝わってしまうんじゃないかと思っても、引っ込めることを許さない柔い力で留められた。
 二人を別つその壁に、彼の手により亀裂が入る。


「それを上げるのが花嫁を一生愛し、守り抜くと誓った花婿だ」


 いくつかの島を経由した際に見たことがある。親がベールを被せて、花婿にベールアップされて幸せそうに口付ける花嫁を。一生、縁のない話だ。傷だらけの体にドレスは似合わないし、薄汚れた白のつなぎで私は十分だからだ。ただ、そう。惹きつけられる純白を身に纏うことは少しだけ羨ましかった。そうしたら、キャプテンは私の所へ帰ってきてくれるのにって。
 だけど今は、その一部を纏っている。繋いだ指先の熱が可能性はゼロじゃないと言っている。もう迷子にならなくていいって、呼んでよキャプテン。


「なあ、名前。これ、上げてもいいか」


 悪戯な色を隠しもしない瞳の奥底で、炎が揺らめいている。揶揄するには少しばかり、声色が足りない。
 睫毛が濡れているのは湿気のせいじゃない。高鳴る鼓動は不安だからじゃない。白い世界で取り残された教会は二人きりだ。

 奪うばかりだと思っていた純白が、彼の手で晴れる。その向こうに待っているのは、

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