第5回「瀬戸際」 | ナノ


行き倒れの女を気まぐれに拾ってから、ずいぶん経った。
名前と名乗った己の身ひとつしか持たない哀れな女を傍に置くことを決めたのは、心の隅にあった優越感を満たすためだったように思う。

残り香が落ち着くと言ったから、同じ香水を。
茶請けの菓子がうまいと言ったから、同じ茶菓子を。
王宮の庭先の薔薇が美しいと言ったから、同じ薔薇の花束を。

名前はおれの与えたものを心底嬉しそうに受け取った。
香水の瓶、茶菓子の包装、瑞々しい花束。ひとつ残らず、住まわせた城の一室に増えていく贈ったもののエトセトラ。果たして、おれの優越は満たされたのだった。


「名前」


ノックもそこそこに、名前に与えた王宮の一室に入る。思えばこの"部屋"が、名前への最初の贈り物だった。おれの贈ったものたちで飾り付けられた空間は、石壁の素っ気なさなどもう微塵も感じさせない。
ああしかし、何も持っていないと思った薄幸の女が、あんな秘密をかかえていたとは。ともすれば起きていた最悪の結果を思い浮かべると口角が下がる。


「名前?」


部屋の主はバルコニーに出ていた。
おれに気付かないほどに、どこか一点を食い入るように見つめている。その視線の先は確かめずともわかっていた。先程港から出た軍艦だろう。
ぴくりとも動かない名前に近寄って、その薄い肩をたたく。


『?! あ、ド、フィ?! はあ、びっくりした…おかえりなさい』

「フッフッフッ、あァ、ただいま」


よっぽど驚いたようで、胸を押さえて息を吐く名前。その動揺が、単に突然おれが現れたからだけでないことは薄っすら感じ取れた。


「いい子にしてたか?」

『ええ、もちろん』


やや強張っているが、名前の顔にはいつもの朗らかな笑みが浮かんだ。頭を撫でてやれば、笑みはいっそう深まる。可愛い奴だ。これから自分のつくった秘密を暴かれるとも知らないで。
名前の細い腕を引いてソファにいざないながら、懐に忍ばせていた一枚の写真を裏向けて取り出す。


「名前、今日の会議で面白い話を聞いたんだ」

『? そう、どんな話?』


ソファに座ってすぐ、思い出したように茶を淹れようと立ち上がった名前。カチャカチャと茶器の立てる音とともに、小さな背中が揺れる。垣間見えるカップはおれが贈ったなかでも名前が特に喜んだ気に入りのデザインだ。


「人捜しの話だ」

『! ひと、さがし…?』


跳ねる肩。一瞬、手元の写真を握りつぶそうかと思った。これを突き付ければ、今、目の前でおれのために甲斐甲斐しく茶と茶菓子を用意する健気な女は失われる。それが何とも口惜しく感じたのだ。


「あァ。今まで大将にだけ共有していた情報を、ついぞおれたちにも明かしたのさ。よほど見つけ出したいらしい」

『そう…そんなに…大変ね…』


名前の震えが、ここまで届くようだった。
浅い息を押さえ込もうとする気配。この状況を、どうやり過ごそうかと考えを巡らせているのだろう。
茶器と茶菓子の皿をトレーに乗せて運んでくる名前の顔は哀れなほど青褪めていた。
核心を突き付けてもっと悲壮な顔が見たいと言う仄暗い感情と、何もかも飲み込んで甘ったるいこの日常を続けるのも悪くないと言うぬるい感情がせめぎ合う。


「…顔色が悪いぜ、名前。具合が悪いのか?」

『! いいえ、何でも。さっき少し、立ち眩みがしただけ』


何とかトレーをテーブルに置いて、カップを差し出す名前。指の先まで青白い。
まあ、それもそうだろう。この女が秘していた事実は、知られればおれの今の地位のすべてを奪うほどのものだ。それをわかっていながら今の今まで黙っていたとおれが知れば、無事でいられはしまいと怯えているのだろう。


「…名前」

『何…?』


俺の呼びかけに、名前は揺れる目を向ける。視線が一瞬、おれの手にとまったのを見逃しはしなかった。
手のなかの写真を突き付けるのは容易い。センゴクから受け取った幼い少女の写真。その面影は確かに名前にある。名前を差し出せば、生ぬるさの心地よいこの日常と引き換えに、何らかの利益は約束される。

さあ、その、決断を。


『…ドフィ』


黙り込んだおれを、今度は名前が呼ぶ。答える代わりに指先で頬を撫でると、困ったように眉が寄せられ、控えめな笑みが浮かべられた。


『わがままを、許して』


か細い声を聞いた瞬間、ぞくりとした。
なんだ。答えは出ているじゃあないか。


「フフ…フフフッ! あァ、いいぜ。いくらでも許してやるよ」


手にしていた写真を、ぐしゃりと握りつぶした。
それを見た名前が目を閉じておれの胸に頭を寄せる。おれの贈った髪飾りが揺れ、おれと同じ香水がふわりと香った。


「さァ、仕切り直しだ。茶を淹れ直してくれるか? もうすっかり冷めちまった」

『ええ、すぐに』


頬にわずかに色の戻った名前が、もう震えのない手でトレーを持つ。その軽やかな足取りを眺めて息を吐いた。
そうだ、これでいい。名前がおれのもとにいることなど、どうせ海軍の連中は知る由もないのだから。



後日、ところ狭しと飾られた贈り物だけが残された虚しい部屋を見て、名前の言った"わがまま"に秘された感情を見抜けなかったことをおれは知る。


「フフフ…そら見ろ、おまえがまた秘密をつくるから、悪い結果が起きちまったぞ、名前」


淡い色のカーテンがはためく窓を見つめながら、おれは最も信頼する相棒への電伝虫を手にした。
最悪の結果につながる可能性を理解してなお、おれはおまえを秘すると決めたのだ。名前、おまえを逃がしはしない。

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