第5回「瀬戸際」 | ナノ


雨が降り出した。霧のような、細かい雨。
船の甲板に出て外を眺めれば、霧の向こうに島が見えた。反対側はカラリとした晴れが続いている。

それはまるで境界線。島と外界を遮断する狭間。

目の前に見える光景はまさにそれだと、額を濡らす雨を手で軽く覆い思考にふけって男は___赤髪海賊団の副船長、ベックマンは船内へと踵を返した。




波打ち際で踊れ





霧雨の壁の向こうに広がるその島は、一年中雨の降る、娼館やカジノなどの歓楽街で有名な島だった。政府からも認められた治外法権地帯のその場所には毎夜、様々な客が訪れる。ほとんどが世に名を馳せた海軍や海賊だった。
赤髪海賊団も例に漏れず、ログポースがたまる一週間の間は最上級の娼館に滞在を予定していた。
店の運営責任者らしき女が船長、シャンクスと話している間、ベックマンたちは一歩引いたところでその様子を見るのに徹する。
そしてふと彼は上を見上げて、建物の三階の窓から誰かが見下ろしているのに気づいた。


「どうした?ベック」
「…いや、なんでもねェ」


化粧前なのか、素顔のままの女。黒髪に夜空の色のような瞳をした女。まだ十代後半に差し掛かりそうなその女の姿が何故か心にとどまる。
その若さゆえだろうか?病的な程までに白い肌をしていたからだろうか?

___それとも、あの瞳がどこか。
降って来そうなくらいに、潤んでいたからだろうか。








宴が始まった。羽振りのいいシャンクスが無礼講と言わんばかりに騒ぎ出せば、周りも自然とはしゃぎ出す。
幹部の席で酒を飲みながらタバコの煙をくゆらすベックマンが、空になった酒の酌を頼もうとすれば、ふと酒瓶が目の前に突き出された。


「どうぞ」
「…あァ」


短い会話と共に注がれた酒は中でコポリと泡を立てた。隣を緩慢な仕草で見れば、そこにはあの女が微笑んで座っている。店に入って早々、姿を見せた女の腕を掴んだベックマンに驚いたような顔をした女はやはり若かった。…シャンクスを始めとした幹部の連中は面白そうな意外そうな顔をしていたが。
名前と名乗った少女は、店に出るのは初めてなのだろう。少しぎこちないその姿をぼんやりと眺めていれば、居心地の悪そうな目線を向けられる。
そういう目を客にするものじゃないが、と内心、苦笑しながら女の手を取り立ち上がらせた。途端に一瞬だけ顔を強張らせた女を見て見ぬ振りしてシャンクスに一声かけると、ベックマンたちは部屋へと向かった。









シャワーを浴び、鍛えられた上半身を露わにして、まだ濡れる髪をタオルで拭きながら風呂場から出てくれば、名前はベッドの淵で下を向いて待っていた。こちらに背中を向けているから分からないが、泣いているようには見えなかった。


「…名前」
「っ…はい」


名前を呼べば、びくりと肩を震わせてこちらを見る。バスローブから覗く白い肌が、どこか扇情的に見えた。
目の前まで歩み寄り、顎をすくって至近距離までしゃがみ込む。しばらく見つめ合うと、ベックマンは目を細めて唇を重ねた。
角度を変えながら何度も口付けながら、名前の様子を観察する。怖いのか、自身のバスローブを握るその手は震えていた。それを見て、ベックマンはため息をつくと名前の軽すぎる身体を抱え上げ、ベッドの中心へ放った。
小さな悲鳴を上げた少女を抱き込むようにして横になる。そのままじっとしていれば恐る恐るというように名前が口を開いた。


「…何も、しないんですか?」
「…気分が乗らねェ」


そう言えば、安心したかのように身体中の力が抜けたのが分かった。緊張が解放されたことで気が緩んだのか、やがて寝息のような音が聞こえる。

あどけない寝顔で眠る少女を見ながらベックマンは。
どこかで、その表情に安堵していた。









「どうして、私に何もしないの」


あの日から気づけば五日経っていた。その間にシャンクスたちはカジノを楽しみ、酒に溺れ、女を抱いた。
しかし、ベックマンはその観光を楽しみはするものの、一度たりとも名前に手を出すことはなかった。キスはする。そしてあの夜のように女の小さな身体を抱き込んで眠った。だが他の女と寝る訳でもないその様子に、ただただ名前は戸惑った。
そして今、話がしたいという名前は共に海岸へと足を運んだベックマンにそう言った。


「私は、娼婦よ」
「…あァ」
「貴方たち客に抱かれるのが仕事」
「あァ」
「…貴方も、そのつもりでここに来たんでしょう?」
「あァ」
「…それなら、どうして?」


砂浜と寄せる波の狭間、裸足でこちらに歩み寄ってきた名前の髪を、耳にかける。
自然な流れで額に口付けたベックマンは、頬に手を添えながら口を開いた。


「…お前は、怖いんじゃねェのか」
「!」
「お前には酷かもしれねェが…お前は娼婦には向いてねェよ」


「知ってるわよ…!!」


パチンと、軽い音がベックマンの頬で音を立てる。痛くもないが、なぜか少しだけ、胸の奥が軋んだような気がした。
仇を見るかのような目でこちらを睨む名前が胸倉を掴んだ。


「怖いわよ、怖くて何が悪いの。知らない男に触れられるのも、抱かれるのも嫌で怖くてしょうがない!
でも、こうしなきゃ私は生きられない!!弱いから、何かを犠牲にしなきゃ生きられないから!!
…でも、その覚悟を馬鹿にされる筋合いなんてないっ…!!」


ただ、うつくしいと思った。

夜空を宿したその瞳の奥には、昏い怒りが燃えていた。夕暮れの海辺でこちらを睨むその表情が、何故だか愛おしく思えて身体が震えた。

だから。


「なら、俺と来るか」


するりと口から出てきた言葉に、さして自身でも驚きはしなかった。
そしてそれは紛れも無い、ベックマン自身への答えだった。名前は少しだけ目を見開いて、そして可笑しそうに笑った。



「無理よ」



少女は笑って拒絶した。



「だって貴方は海賊で、私は海賊になんてなりたくない」



少女は悲しそうに拒絶した。


届かない場所にいるような気がした。こんなに距離は近いのに、触れられる場所にいるのに。二人の間に、隔たりがあるように思えた。

外界を拒む霧雨。
陸と海とを隔てる波。
海賊と少女。

お前じゃ駄目なのだと、誰かに嘲笑われているような気がした。
______だけど。



「でも、私は」



______少女は。




「貴方なら、構わない。…ベン・ベックマン」




泣きそうに笑って、男を受け入れた。









その夜、男は少女を抱いた。あどけなかったはずの少女が女に変わりゆくその姿を、その腕の中で見ていた。
口付けの合間に呼ばれる名に、何度、心臓が震えただろうか。色を乗せた表情が切なげに揺らめくのを見て、込み上げたものは何だったか。


「___ありがとう、ベン・ベックマン」


___その日、男は生まれて初めて、自分の心臓の位置を知ったような気がした。









船が出る。見送りに名前は来なかった。だけど、それでいいと思う。会ってしまえば未練が残る。もうきっと、少女と。…彼女と、出会うことは無いと思うから。
霧雨の向こうに島が消える。もう少しすれば、久々の青空が拝めるだろう。


___境界線は超えられなかった。
彼女が海を拒むかぎり、男が海から離れないかぎり。
でも、その上に立つことくらいはできただろうか。彼女の心に少しでも、触れることはできただろうか。

今はもう、分からない。












叶わぬ願いだと分かっている。
未練がましい男の戯言だと笑ってほしい。
それでも、自分は今も。


二人きりの砂浜、雨の上がった波打ち際で。
彼女が幸せそうにわらっていることを。


今も、夢見ている。

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