名前はおれに感謝して然るべきだ。それはあまりにも当然で、疑う余地はない。
予定より早く戦地から帰還した。部屋に帰っても名前はおらず、壁際に控える召し使いに問えば躊躇っている。新人でもねェのにな。床石を踏み砕けば震え上がって『第三厨房です』と答えた。『ほとんど使われていない小さな調理室です』と的外れな追加情報を寄越した女に何か怒鳴ったような気もする。
おれが自ら選んだ召し使いを、厨房なんぞに送った?誰の命令なのか早く名前に言わせて、たとえ古株でも放逐してやろう。上に立つ者として、おれにはその義務がある。そう思ったのだ。名前がおれに微笑んで礼を言う姿を想像したことは否定しないが。その必要もないだろう。忠実な者には頼り甲斐のある主でいてやることも王族の責務の内だ。夕食までにはまだ時間がある。
第三厨房へ近付くと、バターと肉の焼ける匂いがした。いつもおれが食べる料理の匂いとはどこか違っている。あまり良い肉を使っていないのだろうか。肉の油の匂いが違う。味付けの系統も違っているのかもしれない。いや……?違っている、というよりは拙いのか。そうだ、これは。
スラックスのポケットから手を出す時間が惜しい。何かに急かされるように厨房の扉を押し開けた。
『何をしてるんだ?』
名は知らないが時々戦地で見かける花を、逆さにしたような形の。うちの制服とは違う。今の身長に合わせて新調したのか?おれが与えた給金で。名前は裁縫が出来るんだったな。あいつにコック服を仕立てて罰を受けたことも忘れたのか?あんなに泣いていたのに。
名前が纏うエプロンは、昔と同じように白かった。その隣に、出来損ないの兄の金色がちらつく。
技巧も何もない肉料理の匂い。『サンジ様が美味しいと言って下さいました。ヨンジ様にも食べて頂きたくて』。あの日名前はそう言って笑った。
召し使いには過ぎるほど丁寧に声をかけてやったのに、名前の肩は跳ね、後退って、壁にかかった時計へ視線が逸れた。
おれの名を呟いた名前。反射的にメシ炊き共の仕事場へ一歩足を踏み出す。王族が入るべき場所ではないが、仕方ない。一刻も早く名前を部屋に連れ戻さなければ。
もしかしたら舌打ちをしたかもしれない。だがおれは、別に怒ってはいなかった。あの感情は、怒りではなかった。だったら何なのか?分からないのだから、どうでも良いことだろう、どうせ。
サンジが消えてからしばらく経った頃だ。味見係がいなくなったためか、名前は一度だけおれに料理を持ってきた。匂いだけで味の想像はついたし、何が悪いのかおれには分かったが、教えてやらなかった。
上達しては困るのだ。名前の母でもある使用人頭が、娘の将来の職種を決めかねていることは知っていた。料理に強い興味を示せば、厨房に配属されてしまう。
それにサンジに感化されたままだなんて、……ジェルマの使用人として、良くないことだ。王子であるおれは名前が料理をしないよう、肉を全部食べてから、はっきりと不味い、お前には才能がないと言ってやった。名前は二度と料理を持ってこなかった。
そんな回りくどいことをしたのは、まだ専属の召し使いを得られる年ではなかったからだ。十六になり、名前をおれの召し使いにした日、真っ先に料理の禁止を命令した。お気に入りに要らぬ苦労をさせてはおれの名折れだ。不愉快な金色のことなど、勿論関係はない。
二日前、サンジが帰ってきた。ニジが言うほどの嫌悪は感じなかったが、王族の身分を失い、海賊船でコックをしていたという兄は昔に輪を掛けて理解出来ないことばかり口にする。料理を続けさせていたら、名前もああなっていたのかもしれない。
『お前のせいだよサンジ。身分違いの女をつけ上がらせた』
やはり、名前はおれに感謝して然るべきだ。意識のない料理長を見て、再度確信した。専属でいればおれ以外に手を出されることはないのだから。そしておれは名前を殴らない。
出来損ないの兄は憤っていたが、ニジを目の前にしても反撃しなかった。ほらな、名前。サンジは東の海に大事なものを見つけた。不義理な野郎だ。お前が義理立てする必要などない。
『今一度おれ達の階位を確認しておかなきゃな』
イチジの言葉に呆然とするサンジに、腕を振り下ろした。
おれの外骨格が触れた名前の手に、足に、目には見えない傷が増えていく。きっと明日には痣になっていることだろう。
あいつなら『可哀想』とでも思ったのかもしれない。離してやったのかもしれない。そもそも抱きしめるだけで怪我をさせることもないのか?
この、名前のない嫌な気持ちを追いやる方法は分かっている。硬い唇を名前のそれへ押し当てた。
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