※蒼い海で、君と出逢ったの続きのような
メールの受信を知らせる携帯の振動に、なにげなくスーツの内ポケットに手を伸ばした。
表示されているのは、登録されていない、見慣れないアドレス。
迷惑メールか、と兵助はそのメールを開くことすらせずに画面を閉じ、デスクの上の積み重なった書類との闘いを再開した。
パソコンのディスプレイの端に小さく表示されている時刻は、午後8時20分。
当然、定時はとうに過ぎている。
無茶しか言わない段取りの悪い上司と、人を頼ることばかりに長けた頭の悪い同僚の尻拭いを交互にこなしていれば、兵助自身が自分の仕事をどれだけ効率良く進めたところで意味が無い。
敢えて前向きに言うとすれば、上からも下からも期待され、頼られているということではあるのだが、それを嬉しいと感じるには、兵助には素直さも純粋さも足りないのかもしれなかった。
足りていなくて大いに結構、とも思うのだが。
「久々知さん、今いいですか?」
苛立ちを露わにする溜め息を幾度となく堪えながらキーボードを叩いていると、不意に横から同僚の女子社員に声をかけられた。
兵助よりも2、3年下の後輩であるその彼女は仕事熱心で、今日もこの時間まで残業をしていたらしい。
帰り支度を済ませて肩にバッグをかけながら、右手には湯気をたてるコーヒー、左手には白い封筒を持っている。
「あの、お先に失礼します。良かったらコーヒー、飲んでください」
「ああ、ありがとう。お疲れさま」
「はっ…はい。あの、それから、これなんですけど」
ちょうどコーヒーが飲みたい気分だった、…訳ではまったくなかったが、それでも厚意は受け入れるべきなのだろう。
差し出されたカップを、義務的に少しだけ笑んで受け取れば、みるみる内に頬を染めた彼女は、それを誤魔化すように慌てて左手の封筒を続けて差し出した。
「これ、この前のハワイ旅行の、写真です。久々知さんの分です」
「え?……ああ、」
社員旅行でハワイを訪れたのは、一週間前のことだ。
まさか自分のために丁寧に写真を用意されるとは思ってもみなくて、そして…たった一週間前のその出来事が、すでにひどく、遠く遠く感じて。
一瞬固まった思考に、兵助はなんとかその封筒を受け取った。
「あー…、わざわざありがとう」
「い…いえ……っ」
ますます頬を染める彼女に、内心では参ったな、と思う。
先ほどから、広いオフィス内にぽつりぽつりと残っている男性社員達からの恨めしげな視線が刺さる。
彼女が兵助ひとりにだけコーヒーを淹れたのも、写真を口実に話しかけてきているのも、こちらが悪いわけではないというのに。
ああ、面倒だ。なんてくだらない。
仕事だけでもじゅうぶん手いっぱいなのだ、これ以上の余計な厄介事など冗談ではない。
それなりに、人並みに、仕事はこなしている自信はある。努力もしている。
それでも、自分が人として、そして生きることに不器用であるという自覚くらいは、社会に出る前から持っていた。
人の感情が絡むことほど、何もかもがややこしく、面倒になってしまうものはない。
またも吐き出しそうになる溜め息を堪えていると、ようやくそこで兵助は、何故かそわそわとしたまま立ち去ろうとしない彼女に気が付いた。
「……ええと?」
「あっ、そのっ、すみません、久々知さん忙しいのにっ…」
…ああ、そういうことか。
慌てて謝りながらも、ちらりと兵助の手元の封筒に視線をやる彼女。
この場で開けて、写真を見て欲しいのだろう。
――勘がいいな、と、心の内だけで感心する。…もちろん皮肉だ。
たぶんそうしなければ、自分はこの封筒を、先ほど届いた迷惑メールと同じように開くことすらせず…そのあたりの書類の束に紛れさせてしまっただろうから。
仕方なく、かさりと封筒を開けて、写真を取り出す。
青い空、蒼い海。白い砂浜にそびえるヤシの木。
そんな、旅行会社のパンフレットのようにわざとらしいほど南国めいた景色を背に、同僚たちに紛れる自分が映っている。
馬鹿みたいに明るい背景や同僚たちの中で、上辺だけを取り繕ってなんとかそれに群れている…冷めた眼をした、自分の姿。
ああ、なんて、滑稽な。
そうして、やはり冷めた思いでぼんやりと何枚かの写真を捲っていく内に、
――兵助は、息を呑んだ。
「…あ、そのとき。久々知さん、船酔いしちゃって大変でしたよねえ。でもイルカ、凄く可愛かったですよね」
兵助が手を止めたのに気付いて、彼女が笑った。
旅行の予定に組み込まれていた、イルカのウォッチングツアー。
写真に映っているのは、蒼い海の上に浮かんだ、真っ白なボートの上で笑う、同僚や上司たちの姿。
しかし、兵助の眼を奪ったのは無論その姿ではない。
その後ろに、小さく映り込んでいる、
楽しげな客たちに嬉しそうに笑いかける――ガイドの、男。
「そういえば、久々知さんてこの後のクルージングディナーにも来ませんでしたよね。
船から見たサンセット、凄く綺麗だったんですよ」
久々知さんも、どこかから見ましたか?
たった一週間しか経っていないはずの、しかしあまりに遠い、遠いあの日の記憶が。
兵助の頭の中で、ゆっくりとよみがえった。
*
「…どういうつもりだよ」
ツアーを終えて簡易的な船着き場へと戻り、見事に自分を職場の人間から引き離した八左ヱ門に、兵助は憮然として問いかけた。
昼を過ぎ、まだ陽は沈み始める前だが、ボートの点検と片付けを済ませた八左ヱ門の仕事は今日はこれで終わりらしい。
イルカのウォッチングツアー中、ガイドである八左ヱ門は突然皆の前で大きな声を上げ、兵助を勝手に酷い船酔いの急病人に仕立て上げた。
体調が落ち着いたら俺がホテルまで送って行きますからと説明し、兵助以外の客を帰りのバスへとまんまと押し込んだ彼が、いったいどういうつもりなのかさっぱりわからない。
「まあまあ、いいじゃねえか。どうせ、クルージングディナーなんて楽しみでも何でもなかったんだろ?」
からりと笑う八左ヱ門に、図星を突かれた兵助は押し黙った。
このツアーが終わった後の予定であった、社員全員でのクルージングディナー。
巨大なクルーザーの窓からサンセットを望みながら、同僚たちと豪華な料理を楽しみ、上司たちの機嫌をとりつつ美味い酒を飲む。
…考えただけでも退屈で、そして、息が詰まる。
そもそも、船酔いなんかしていない、と最後まで言わなかったのは、他でもない自分自身だ。
「さ、行くか!」
戸惑う兵助を気にする様子も無く、八左ヱ門はそう言って兵助の腕を引いた。
「行くって、どこに」
「色々考えたんだけどなー。でもやっぱり、せっかくだし。…まずは、な」
兵助を連れたまま船着き場を移動し、しかしすぐに…先ほど乗っていたよりも一回り小さなボートの前で、八左ヱ門は足を止める。
そして、こつんと白い船体を手の甲で叩いて、もう一度笑う。
「今度こそ、楽しませてやるよ。お前のためだけのプライベートツアー、ってことで」
呆気に取られる兵助に有無も言わせず、手をさらに引いて兵助をボートに押し込むと、八左ヱ門はそのままボートのエンジンをかける。
何の説明も無いままに、今度は二人だけで、再び青く広い海へと繰り出した。
どこまでも広い海、そしてそれに沿うようにして鎮座する、青々とした草木が茂る人の気配の無い島の端。
海を見慣れていない兵助にとって、海の上はどこも同じ場所に見える。
だが八左ヱ門曰く、小さなボートを数十分走らせて辿り着いたこの場所は、今日のツアーでイルカを見た場所とは少し離れているらしい。
太陽に照らされ、ぴかぴかと光る南国の海の青さは、日本の都会で見られるそれとは違って、やはり美しい。
先程まで会社の人間たちと一緒にいたそのときよりも、素直にそんなことを思いながら、兵助はぼんやりと波打つ水面を眺めていた。
そうしている内に、八左ヱ門は島へとボートを寄せていき、手なれた様子で器用にロープを木へと結びつけてエンジンを切る。
「さてと、じゃあ兵助、これ」
「………は?」
結局何の説明も無いままの八左ヱ門が兵助へとおもむろに手渡したのは――派手な柄の、男物の水着だった。
「俺の水着だけどさ。大丈夫、ちゃんと洗ってあっから!」
「いや、そういう問題じゃ無くて!」
やはりからりと笑う八左ヱ門は、固まったまま手を伸ばさない兵助にさっさと水着を押しつけると、自身もTシャツを脱ぎ始める。
そして元から水着を履いていたのか、それとも普通のハーフパンツなのかはわからないが、ともかく上半身裸の身軽な姿になった八左ヱ門は。
何のためらいもなく、大きな水音と水しぶきをあげて、勢い良くボートから海へと飛び込んだ。
「……ッ、はー!!ほら、兵助も早く来いよ!気持ちいいぞ!」
そして、水面から顔を出して、陽の光で水滴をきらきらさせながら、当たり前のように笑ってそう言った。
だって、ハワイだろ。ここは海だろ。泳ぐだろ、普通。まるでそんなふうに。
彼と出会ってから、すでに何度目になるのかわからない。
それでも兵助は律儀にもう一度、心の底から呆気にとられてぽかんと口を開けた。
なんなのだろう、本当に、この男は。
突然海の上へと連れてこられて、水着を押しつけられて、早く飛び込んでこっちに来いと言われ。
無邪気な子供でもやんちゃな学生でもない、とうに大人になってしまった自分が、そんな誘いにあっさりと乗ると、この男は本気で思っているのだろうか。
ここはハワイなのだから、無論海に入り遊ぶ同僚たちもいたが、それに加わる気なんてさらさら持ち合わせてもいなかったのに。
水着を握りしめたまま、やはりまた動けなくなっている兵助に、八左ヱ門は首を傾げた。
ぷかぷかと水面に浮かびながら少し何かを考えるようにした後、にやりと悪戯を思いついたような顔になる。
嫌な予感…は、的中した。
「うりゃっ!!」
「っ!!おいっやめろよっ!」
「はははっ、ほら、濡れたくなかったらさっさと着替えろって!!」
海水を両手ですくい、ざばりと思い切りボートの上へと投げかけた八左ヱ門を兵助は睨みつける。
しかしそんな兵助を見ても、八左ヱ門は悪びれもなく、まるでこの海のように大らかな顔で笑っているのだった。
毒気を抜かれる――というのは、こういうことを言うのだろうか。
八左ヱ門は無邪気に、楽しそうに、また海へと潜っていく。
八左ヱ門の姿が水中へと消え、海の上に一人取り残されるようなかたちになった。
ざぶん、ざぶんとボートを叩く波音だけが耳に届く。
なんだか、呆れるのも怒るのも、すでに馬鹿馬鹿しい。
自他共に認める生真面目で面白みの無い自分が、こんなことをするなんて信じられない。
だけど仕方ない、ハワイとそれから彼の、大らかであたたかな空気にきっと当てられてしまったのだ。
現実味のない南国の明るい空の下、白いボートの上で、兵助は思い切ったように服を脱ぎ捨て、浮かれた柄の水着を身につけた。
やはり真面目に少しストレッチをした後、ざぶん、と飛び降りた海の水は、思っていたよりも少し冷たい。
一度沈んだ後、ぷは、と空気を吐き出しながら海から顔を出すと、少し塩辛くて、それからさっきまでよりも近く、きらきらとした世界が目の前に広がっていた。
ちょうど水面に戻って来ていた八左ヱ門は、ようやくその気になった兵助を見て嬉しそうに笑う。
「やっと来たな。もしかして泳げねえのかと思ったけど」
「なめるなよ。これでも運動神経は悪い方じゃないんだ」
周りからはどうも机にばかり向かっていたように見られがちだが、身体を動かすことは好きだった。
――だけど、泳ぐのなんてどれだけぶりだろうか。
身体にまとわるひんやりとした透明の海水の感触は、どこか懐かしくて、そして確かにとても、気持ちが良い。
「そうか、じゃあしっかり楽しめるな!ほら、これ」
「え?」
水着に続いて次に放り投げられたのは、いったいどこに持っていたのか、少し古ぼけた水中メガネだ。
そして八左ヱ門も、同じものを自分の頭に付け始める。
そしてまた、悪戯っぽい、楽しくて楽しくて仕方ないかのような無邪気な目で、兵助をじっと見る。
「騙されたと思って、それ付けて潜ってみろよ!…それに、そろそろ時間だしな」
だからどういうつもりだよ、なんて。
もう、いちいち八左ヱ門に突っかかる気など、実のところ兵助にはまったく残っていなかった。
この男が、次は一体何をしでかすのか、自分をどんなふうに驚かせるのか、いつの間にか楽しくて仕方なくなっていた。
初めてだ。誰かに対して、こんな気持ちになるなんて。
差し出された水中メガネを、素直に付ける。
少し視界は狭まって、しかし。
八左ヱ門に手を取られて再び水中へと潜ると――そこには、まるで夢のように美しい世界が、広がっていた。
揺らめく陽の明るい光が差し込む、青の世界。
360度どこまでも続くかと思われる澄み渡った世界に、色とりどりの熱帯魚たちが、様々な形のサンゴ礁の周りを優雅に泳いでいる。
テレビや、水族館の水槽では見たことがあり、こういう景色を知ってはいた。
…いや、知ったつもりでいただけなのだと、今、思い知った。
テレビ画面や、水槽を外から見るのとは訳が違う。
雄大で、優雅で、あまりにも無垢に美しい、海中の世界。
眼の前の世界に見惚れている兵助の横で、八左ヱ門がポケットから何やら小さなものを取り出した。
そして半分にちぎって、兵助の手に握らせる。
何だろう、と思う暇も無かった。
一瞬の内に、先程まで水中を悠々と泳いでいた魚たちが、一斉に兵助の手の元へと群がって来たからだ。
「…っ!?」
驚いて慌てて手を開くと、そこにあったのはパンの欠片。
兵助の掌から逃れてふわりと水中を漂ったそれに、魚たちがまた一斉に群がる。
八左ヱ門の方を見ると、動揺した兵助が可笑しかったのか、水中だというのに器用に腹を抱えて笑っていた。
息継ぎの為に、一度水面へと上がる。
そして、またすぐに青い世界へと戻る。
何度も、何度も二人でそれを繰り返しながら、魚にまたパンをやったり、一気に海底に潜ってサンゴに触れたりしていると。
水中で不意に、八左ヱ門が兵助の腕を引いた。
なんだろう、と八左ヱ門の指さす方向に視線を向ける。
そして……息を呑んだ。
数時間前にはボートの上からその背中を見下ろすだけだった、――無数のイルカたちの群れが、こちらに向かって一斉に泳いでくるところだった。
何度目かわからない息継ぎのために上がった水面で、兵助が茫然としていると、八左ヱ門はようやく、嬉しそうに説明する。
「驚いたか?こいつらな、昼間の群れと一緒だぞ。この時間になると、いつもこの場所で泳いでるんだ」
可愛いだろ、とそう言って。
「お前だけ、特別な。ほんとはウォッチングツアーなんかよりよっぽど、一緒に泳いだ方が楽しいからさ」
正直なところ、女子供でも、動物が好きらしい八左ヱ門でもない兵助は、イルカを見て「なんて可愛い!」と感激するようなことはなかったけれど。
だけど、八左ヱ門が自分に、自分だけにこの景色を見せてくれた、そのことこそがとても大事なことに思えた。
きっとこの場所は、八左ヱ門の気に入りの場所なのだろうと兵助はようやく気が付く。
海が綺麗で、たくさんの熱帯魚が泳いでいて、イルカの群れがやってくる。
何故なのかは分からない、だけど八左ヱ門は、きっとこの景色を兵助に見せたいと、思ってくれたのだ。
日本から遠く離れたハワイの海で、自由に、紛れもないこの自分が、無数の熱帯魚や野生のイルカ達と泳いでいるという、現実味の無い事実。
おっかなびっくりではありながら、息を大きく吸って深く潜り、滑るように泳ぐイルカの姿へと近づいてみる。
まるでイルカとじゃれているかのように楽々と泳ぐ八左ヱ門のようにはいかなかったが、それでも好奇心旺盛なイルカは新顔の兵助に興味を持ったのか、まるで泳ぎ方を教えようとするかのように、周りをゆったりと泳いでいく。
そうしている内に、八左ヱ門が兵助の背後に向かって指をさした。
今度は何だろう、と振り返れば……いったいこの海は、どれだけ兵助を歓迎してくれるのだろうか。
兵助のすぐ後ろを、二匹の大きなウミガメがゆったりと横切っていくのだった。
自他共に認める、生真面目で、面白みの無い自分の人間性、そして人生。
それなりに努力はしてきた、懸命に生きてきた、それでもどうしても。
心から幸福だ、と思うことが、出来ないでいた。
今日初めて会ったこの男に、「疲れちまったんだな」、なんて見抜かれてしまうほど。
どれだけ頑張っても終わりの無い、厳しく理不尽な、自分の生きる世界に。
気付けば自分は、心の底から憔悴しきってしまっていたのかもしれなかった。
生真面目に、面白み無く、日本のあの大きなオフィスでパソコンのキーボードを叩いているだけでは、知り得なかった。
嫌々ながらも仕事の一環とこのハワイへとやって来なければ、
イルカのウォッチングツアーにも、真面目に参加していなければ、
そしてツアーのガイドが、眼の前の男でなかったならば。
この男が、自分を見付け、声をかけ、この青の世界へと連れ出してくれなければ。
自分の生きる、どれだけ頑張っても終わりの無い、厳しく理不尽な世界と人生の中に――この美しい場所を、見付けることすらできなかったのだ。
ひとしきり泳いで、潜って、さすがに息が切れてきた。
イルカの群れも、連れ立つウミガメも、彼らの居るべき場所へと帰っていった。
そろそろ帰るか、と言う八左ヱ門の言葉に頷いて、ボートに戻る。
そしてボートから見た景色に、兵助は再び、息を呑む。
水平線へとゆっくりと降り始めた太陽が、それはそれは美しい色で――海面も、空も、空気も、全てを真っ赤に染めていた。
全て、全て、やさしくて、どこか懐かしい赤色に。
乗って来た白いボートも、眼の前の八左ヱ門も、それからもちろん、兵助も。
まるで、この雄大な自然の中に招き入れられたかのように、自分も、この雄大な夕陽の一部になったかのように。
何かはわからない、感じたことのない思いが、胸に、喉に、眼に、込み上げる。
そして、八左ヱ門がゆっくりと、穏やかに言う。
「なあ、兵助。お前が思っているよりも――…世界って、綺麗で楽しいよ」
ぐしゃり、と八左ヱ門の左手が、兵助の髪を掻き混ぜた。
頬をつたった雫が、前髪から零れ落ちた海水ではないことに気付くのに…少しだけ、時間がかかった。
*
あの後。
八左ヱ門に連れられて二人で食事をして、色々な話をして、それから砂浜を歩いて横切りながら、スパンコールのような星空を見上げたりもした。
その星空に、昼間と同じようにまた感嘆の声を上げた兵助に、八左ヱ門もやはり昼間と同じように、とても満足そうな顔で笑っていた。
どちらかと言えば人見知りする自分にしては信じられないほどに、八左ヱ門との会話は自然に弾み、どれだけ一緒にいても疲れることも無かった。
そして、約束通り兵助をホテルまで送った八左ヱ門の顔が、どこか名残惜しそうに見えたのはただの自惚れだろうか。
兵助が帰国したのは、その翌日のことだった。
来る筈が無い、とわかっていたのに、搭乗時間ぎりぎりまで、空港で無意識に周囲を見渡してしまったのを覚えている。
日本とハワイの時差は、19時間。
日本に戻って来てから、ふと時計を見て、ハワイは今何時だろう、と計算してしまったり。
…彼は今何をしているだろう、とちらりと考えてしまったのも、実のところ数回では足りなかった。
だけど、そんなことをして何になる、と冷静な自分がいることも確かで。
彼は、あまりに遠い場所に暮らす、ただ偶然に旅行先で出会った現地ガイド。
彼にとっての自分は、毎日毎日彼が接する無数の観光客の内の、ただの一人。
つまらない時間から連れ出してくれた、美しい世界を見せて貰った、だけど…もう二度と会うことのないであろう相手。
それじゃあ失礼します、と頭を下げる彼女をデスクから見送って。
兵助は、深く息を吐いた。
どれだけ考えてもどうにもならないことを考えて、こんなふうに仕事中にぼんやりとしてしまうなんて、自分らしくない。
頭を振って、現実に目を向ける。
机の上の減らない書類、ちかちかと眩しいパソコンのディスプレイ、それからすっかり冷めてしまったコーヒー。
あの日ハワイで彼が見せてくれた美しい世界とは、まるで真逆のように感じる眼の前の無機質な景色。
…だけど、本当は分かっている。
この景色の中にも、自分が生きるこの世界にも、美しいものだとか、あたたかなものだとかを、本当は見つけることができるはずなのだ。
気付いていないだけ、気付こうとしないだけ。
手を引かれてボートに乗り込んだ、あの一歩。
服を脱ぎ捨て海に飛び込んだ、あの一歩。
彼があの日、訝しむ兵助を半ば無理やり連れ出して、ハワイの海と夕陽の中で教えてくれたのは、きっとそういうことだったのだ。
…ああ、
彼に――八左ヱ門に、逢いたい。
もう少し、あと少しでも彼と一緒に過ごせたなら。
例えば目の前のコーヒーを、もっと心から笑んで礼を言って、受け取ることができるのだろうか。
楽しいだとか、嬉しいだとか、綺麗だとか、そんなことをもっと素直に感じたり伝えたり、できるようになるのだろうか。
ちらり、と再び写真の入った封筒に目を向けて…そこで、兵助はようやく。
はっと、眼を見開いた。
どくん、と大きく心臓が鳴る。
スーツの内ポケットから、少し慌てながら、もう一度携帯を取り出した。
先ほど届いた、アドレス未登録の迷惑メール。
開くことすらしなかったそのメールを、動揺で小さく震える指で、表示させる。
そして。
表れた一言に、胸と眼の奥が、かっと熱くなるのを感じた。
短い文面、しかしすぐに思い浮かんだのは……あの、大らかであたたかで泣きたくなるような、彼の笑顔。
アドレスを交換したのは良いものの、正直なところ、本当にメールが送られてくるなんて思ってもみなかった。
彼は、あまりに遠い場所に暮らす、ただ偶然に旅行先で出会った現地ガイド。
彼にとっての自分は、毎日毎日彼が接する無数の観光客の内の、ただの一人。
もう二度と会うことのない、会おうと思ってはいけない相手だと思っていた。
それなのに。
――"また、逢いたい"。
ああ、俺だって。
こんなにも、こんなにも、お前のことばかり考えてるよ。
俺にあんなに美しいものを見せてしまった、
あの世界を、それからお前を、忘れられなくなってしまった、
その責任を、お前は俺にとるべきなんじゃないのか。
なあ、八左ヱ門。
なんと返事をしようかと迷いに迷って、ようやく返信が出来るまで、気付けば一ヶ月もかかってしまっていたけれど。
八左ヱ門と兵助が、再会し、
そして、互いに抱いている感情の正体を知るまでには。
きっと信じられないほど、いくらの時間も、かからない。