たまたま通りがかった、教室の前でのことだった。
「――ああ、君。すまないが、これを工芸科の久々知という生徒に渡してくれんか。陶芸の実習室にいるはずなんだが」
顔を見かけたことくらいはある高齢の教授に押し付けられたのは、建築科の八左ヱ門にとっては本来何の関わりも無い頼まれごとだった。
なんで俺がと思わないでもなかったが、陶芸室と言えば、この広大な大原美大の敷地のさらに端にあった筈だ。
足元も少々おぼつかないその教授に、「自分で行ってくださいよ」と言ってのけるほど不躾にも薄情にもなれず、八左ヱ門は、陶芸の資料か何かであろうずっしりとした分厚い紙の束を受け取った。
そして、文句を言う気になれなかった訳は、実はそれだけではなかったりする。
工芸科の久々知兵助と言えば、違う学科を専攻している八左ヱ門でさえ名前を聞いたことのある、ちょっとした有名人だった。
何をさせても器用にこなし、しかし中でも教員たちの舌を巻かせるのは、秀逸たる陶芸の才能。
そしてさらに有名な理由を挙げるなら、プライドの高そうな近寄りがたい雰囲気、あまり変わらない表情と決して良くはない愛想、生真面目な生活態度、それから…長い睫毛の、綺麗な顔。
それほどまでに生徒達に知られながらも、しかし噂話に違わぬ人を寄せ付けない彼のオーラに、実際に彼と親しくなろうとする人物などほとんどいないらしい。
もしかしたら、教員たちから熱い期待を寄せられている優秀な彼への嫉妬心も、彼が皆に遠巻きにされる訳のひとつであるのかもしれなかった。
何にせよ八左ヱ門自身も、姿を見かけたことがある程度で、彼と直接言葉を交わしたことなどもちろん無い。
だからこそ八左ヱ門は、重い紙の束と一緒に、面倒事を嫌な顔せず受け入れたのだった。
久々知兵助という人物への、純然たる好奇心。
自分と同じ2年でありながら、そんなふうに人の噂にのぼる彼は、いったいどんな人間なのか。
それから――八左ヱ門が彼に興味を持った理由は、実はもうひとつあるのだった。
秋は深まり、日はどんどん短くなって、陶芸室の窓からは夕陽が美しく差し込み始めている。
そんな薄明るい紅の中に、八左ヱ門は。
ひとり一心に陶土に向かう――久々知兵助の、背中を見付けた。
…ああ、なるほど、これは確かに近寄りにくい。
ごうんごうんと、ろくろの回る低い音だけが部屋には響き、研ぎ澄まされたような彼の真剣な息遣いは、いっそ人の気配を感じさせないほどに静かなものだった。
邪魔をしてはいけない、そんなことをしては申し訳ない。
彼のことを何も知らない八左ヱ門にそう思わせるほど、夕陽の中で土に向かうその背中は、まるで一枚の美しい絵画のようで。
素朴な土の匂いとは裏腹の、ぴんと張り詰めた部屋の空気に、八左ヱ門は扉から中を覗き込んだまま動けないでいるのだった。
しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。
八左ヱ門は彼をひやかしに来たのでも無ければ、観察をしに来たのでもないのだ。
人と関わるのが苦でない八左ヱ門には珍しく、緊張で少し乾いた唇を、彼に向かってようやく開いた。
「あー…、邪魔して悪い。久々知、だよな?」
遠慮がちにかけた声に、まるで世界の全てを遮断していたかのような背中が、ようやくゆっくりとこちらを向いた。
「……そうだけど、何?」
ああ、なるほど。
胸の内で呟くのは、ここに来て既に二回目だ。
なるほど、確かに……お世辞にも、愛想が良いとは言い難い。
思っていたよりも低く、固い彼の声は、見知らぬ人間への不信感と警戒心をありありと纏わせていた。
土で汚れた両手を、服に触ってしまわぬよう宙に浮かせたまま、無表情にこちらを見つめてくる。
まるで人に慣れていない、つんと澄ました黒猫のようだと、彼の大きな眼と同じ色の黒髪に、八左ヱ門はそんなことを思ってしまう。
ごうん、ごうん。
回り続けるろくろの音が、かろうじてこの気まずい空気の間を埋めている。
「これ、名前は知らねえけど、教授からお前にわたしてくれって頼まれた。資料か何かだと思うけど」
ここに置いておくな、と、重くて仕方なかったそれを、ようやくどさりと机に置いた。
「……え?ああ、わざわざ…こんな所まで、悪かったな」
おや、と思う。
確かに分かりにくくはあるものの、少し和らいだ彼の気配と表情を、八左ヱ門は見逃さなかった。
噂に違うそんなところを早くも見付けて、ますます…彼に興味が湧く。
「気にすんなって。俺、お前と話してみたかったし」
明るく、自然な笑顔でそう言えば。
――しかし、せっかく緩んだ彼の気配は、何故か再び張り詰めたものに戻ってしまった。
「…俺はお前を知らないし、話したいとも思わない。用事を頼まれてくれたことには感謝するけど、噂話のネタを探したいだけなら、さっさと出て行ってくれ」
「え?…っち、違う違う、そんなつもりじゃねえって!」
噂話と言うものは、周りが思っているよりも、実は当人の耳に入っていたりするものだ。
例に漏れず、揶揄にも取れる自身の噂話は、彼の人を寄せ付けない空気に拍車をかけてしまっているようだった。
正直なところ、皆の話にまったく興味が無かったと言えば、嘘になる。
だけどだからと言って、この男に取り入ってさらに面白可笑しく噂を広めようだなんて思ってもいなかった。
そうではなくて、断じて、そうではなくて。
八左ヱ門は単純に、純粋に、久々知兵助という人間と、話をしてみたかったのだ。
何故なら。
「えーっとさ、久々知が俺を知らないのは、俺、建築科だし、当たり前だけど。でもさ、俺はお前を知ってたんだよ」
「…だから、俺は皆が俺のことをなんて言ってるかくらい…」
「いや、そうじゃなくて。ええと、確かにお前のことを皆が噂してるのも知ってるけど、それだけじゃなくってさ。
去年の、美祭の展示ホールで。……お前がな、ずっとずっと、俺の作った模型を、真剣に、見てたんだよ」
「――え?」
あまりにも思いがけなかったのか、きょとん、と眼を見開いた顔がやけにあどけなくて、なんだか意外だった。
意外で、可笑しくて、思わず笑いそうになってしまって、しかし彼の機嫌を損ねたくはなかったから、今のところは我慢する。
「俺、物を作るのが好きで、だけどそれと同じくらい生き物が好きでさ!去年の美祭の作品に、動物園設計してでかい模型を作ったんだよな」
動物園の設計。
それは八左ヱ門にとって、この大学に入学した訳とも言える、いつか絶対に叶えたい夢のひとつだった。
人間と動物の距離を出来る限り縮めて、大人も子供も皆がわくわくするような、それから動物達もストレス無く快適に過ごせるような、そんな動物園。
「出来栄えは、入学して1年目だったし、すげー上手くいったとは言えなかったけど。でもさ、俺にとっては夢への第一歩だったっていうか。
それを、お前がな、じっと見てたんだよ。なんでかは分からねぇけどさ」
本当に、何故なのかは分からなかった。
学生や一般客、教員たちで込み合う展示ホールの中。
その人混みに流される訳でもなく、眼の前の、この久々知兵助は、何故か自分の専攻する学科とはまるで関係の無い八左ヱ門の作品の前で、しばらくの間足を止めていたのだった。
その頃には既に、この男の顔と名前は知っていた。だからこそ、その姿を見かけたときには驚いたのだ。
ただし、興味深そうに模型のあちらこちらを覗き込んでいる訳ではなかった。
むしろ、模型の先の少し遠くを見ているような、何かをぼんやりと考えながらのような。
どこか温かな、そしてどこか切ないようなそんな眼をしながら、彼は八左ヱ門の作品を、長い間眺めていた。
その、静かな横顔に。
誤解を恐れずに言うならば、もしかしたら……一目惚れというものを、したのかもしれない。
別に八左ヱ門には、男を好きになる趣味は無い。
だけど、彼が自分の模型を見て何を思ったのかが気になった。
いや、何も思ってはいなかったとしても、自分の作品の前で足を止めてくれた、それこそがとても大事なことに思えた。
ああ、なんて素敵な出来栄えの模型だろう!なんて、彼が決して思ってはいないことくらい分かっていた。
むしろ、ああ、よくこんな下手くそな作品を堂々と飾れるもんだ、と思われていたというほうが、よほどしっくりとくる。
実際、八左ヱ門がこの大学で特に仲の良い友人達にこの話をしたところ。
一人には、まあ、別に奴にどう評価されたところでお前の単位が変わる訳で無し、気を落とすなよとからかわれ。
同じ顔をしたもう一人には、はち、元気だしなよ、僕はなかなか良かったと思うよと憐みの眼を向けられた。
もちろんなんだか面白くなかったが、二人がそう言うのもどこかで納得できる自分もいた。
それなのに。
「……たけ、や?あれ、お前が作ったのか」
「え?ああ、そうだけど。……名前まで、覚えてたのか?」
驚いた。
実は、その模型を見ていたことすら覚えていないだろうと本当は思っていたのに。
作品の脇のちっぽけな札に書かれた、「竹谷八左ヱ門」という名前まで、覚えていたというのか。
彼の記憶の中に、それほどまでに自分の作品が残っていたのが、思いがけなくて。
ぽっかりと口を開けた八左ヱ門を見て、兵助ははっとしたように、気まずげに眼をそらした。
まるで間違って、うっかり名前を呼んでしまったかのような。
知られてはいけない感情を、出してしまったかのような。
少し動揺しているようにも見える兵助に、何故か八左ヱ門は、自分も少しの焦りを感じて、言葉を続けた。
「あ、いや、言っとくけどな、俺の作品凄かっただろ?なんて言うつもりは無いぞ。下手くそだってことくらい、分かってるし。
…でもな、なんていうか…皆から凄い、って言われるような優秀な奴が、なんで俺の模型を見てたのかなって。
陶芸だけじゃなくて、建築にも、意外に興味があったりするのかなー、なんて思っただけで」
しどろもどろな言葉は、自分でもいったい何が言いたいのかがわからない。
兵助が、実は建築に興味があるのかどうかなんて、本当はそんなこと、どっちだって良かった。
ただ、皆に遠巻きにされている彼と話がしてみたかった、それだけのこと。
本当は遠巻きにされるような人間ではないんじゃないか、と八左ヱ門にはそう見えた、ただ、それだけのこと。
しばらく何かを考え込むようにしていた兵助は、長い睫毛に縁取られた大きな眼を、遠慮がちに八左ヱ門へとようやく向けた。
「……幼稚だなって、思った」
「…………はっ?」
思わず、思考が固まる。
ああ、なんて素敵な模型だろうと思ってもらった訳ではないことくらいわかっていたけれど。
どう考えても好意的でないそんな言葉を、直接面と向かって言われるとは、思わなかった。
再び口をぽっかり開けてしまった八左ヱ門に、兵助は苦笑するように口角を少し上げて、再び言葉を紡ぐ。
「俺と同い年で、同じ学校で、こんな幼稚なものを作る奴がいるんだなって思った。…言っとくけどな、馬鹿にしてる訳じゃないぞ」
「いや、ええと、…してるだろ」
「してないって。どんな奴が作ったんだろうって、思った。
あの模型を見ただけで、これを作った奴が、いかに幼稚で、純粋で、綺麗な夢を持ってるかが、伝わってきたから」
馬鹿にしている訳ではない、と彼は言う。
言葉だけを聞いていれば、そんな筈はないだろうと思うような言い分だけれど。
小さく上げられた口角と、それから柔らかく細められた彼の黒瞳からは、確かに悪意など感じ取ることはできなかった。
むしろ、その不器用な笑み方に八左ヱ門は――眼を、奪われる。
「作った奴…お前のことなんて、俺は知らなかったのに。こいつの夢が叶うといいなって、思った。
模型だろうが、陶器だろうが、絵だろうが。作品っていうのは、作った奴の世界そのものだって俺は思う」
まるで陶器のように白くて滑らかそうな彼の頬に、睫毛の影がそっと落ちている。
鮮やかな赤と、やさしい土の匂いに染まった部屋の中で、細く柔らかそうな彼の黒髪が、小さく揺れる。
「確かに、凄く上手いとは言えなかったけど…でもお前の、明るくて、楽しくて、きらきらした世界が、俺には見えた。
俺の作品には、俺の世界には無いものが、そこにあったから。……なんだか、羨ましかったんだ」
ああ、なんてことだろう。
人の噂話というものが、これほどまでに当てにならないものだということを、八左ヱ門は生まれて初めて痛感した。
プライドの高そうな、近寄りがたい雰囲気?
あまり変わらない表情と、決して良くはない愛想?
いったい、彼のどこにそんなくだらないことを思えば良いと言うのだろう。
彼が綺麗だ、という、その噂だけは確かに間違っていなかったけれど。
皆が囁く噂を面白がって、ただ好奇の眼を向ける為に近付いた訳ではないと分かったからだろう。
八左ヱ門に見せる兵助の表情は、随分と落ち着いたものになっていた。
――知りたい。
もっともっと、彼を知って、近づきたい。
まるで本能のように込み上げるその感情は、八左ヱ門の心を揺さぶった。
彼が垣間見せた、不器用な人柄にたまらなく惹かれた。
彼が言うところの"世界"を。彼が感じている"世界"を、自分にも見せてもらいたいと思った。
「…なあ、しばらく、お前が土を触ってるのを見ててもいいか?」
「は?別に構わないけど……今は、ちゃんと何かを作っていた訳じゃないんだ。ただ、土を触ってると、落ち着くから」
そうは言うものの、止まったろくろの上に乗っているのは、きちんと形作られた器だった。
八左ヱ門の眼から見れば随分立派に見えるというのに、さすが教師に一目置かれる存在である兵助にとっては、これでも作品にすらならないらしい。
「へえ。…なあ、じゃあさ、俺もやってみていいか?」
「はっ?いや、まあ、別にいいけど、なんで……」
「よし、じゃあさっそく」
突然の申し出に戸惑う兵助を置いて、八左ヱ門は自身の服の袖を捲し上げた。
そして、さっきまで兵助が座っていた小さな木の椅子に、遠慮なく腰を下ろす。
「おい、服、汚れるぞ」
「大丈夫だって。えーと、ろくろってどうやって回すんだ?」
何も知らない八左ヱ門の、しかし嬉々とした様子に、兵助は心底驚いた顔をしてから、諦めたように小さく息を吐き…そして、笑った。
「…その、ペダルを踏むんだよ。だけど、初めてならきっと、手びねりの方が面白い。こっちに来いよ」
言いながら兵助は、ろくろに乗った粘土を何のためらいもなくぐしゃりと潰して持ち上げると、隣の木の机の上に広げてしまった。
「うわ、もったいねえ」
「いいんだって。…ほら、もう土は練ってあるから、好きに作ってみていいぞ」
「好きにって言われてもなー、えーっと…」
兵助の視線を感じながら、八左ヱ門は粘土の中に手を差し入れた。
ひんやりとした土の感触は、何故だかとても懐かしいような思いにさせた。
試行錯誤を繰り返し、少し形を作ってみてはいったん壊し、また、形を作り上げる。
そうしている内に、おっかなびっくりだった最初よりもなんだか楽しく感じ始め、夢中になる。
そんな八左ヱ門の手元を、兵助が、どこか面白そうに見守っていた。
「――できた!」
気付けば、数十分もの間没頭してしまっていたらしい。
顔を上げれば、窓の外はすっかり陽が暮れていて、いつの間にか兵助が、部屋の明かりを点けてくれていた。
少し離れた場所で道具の片付けをしていた兵助が、八左ヱ門の声を聞いてこちらに戻ってくる。
「……これは?」
「……えっと……あー……さかずき?」
八左ヱ門の作りあげた、土をめいっぱい使った、冗談のように大きな作品。
何の知識も無く、ただ自由に、好きに作ったこの器が、良い出来栄えだなんて思ってはいない。
だけど、楽しかった。とてもとても。
土を触ることも…兵助と同じ何かを、することができたのも。
「初めてにしちゃ、上出来じゃないか」
「ほんとか!?」
「ああ。さかずきっていうか…花器なんかに使っても、良さそうだよな。あったかい質感で、椿の花なんかが似合いそうだ」
思ってもみなかった称賛に、喜ぶというよりは驚いてしまう。
そして。
――ああ、まただ。
また、信じられないくらいに……彼に眼を、奪われる。
「……竹谷には、世界がこんなふうに、見えるんだな」
静かに、やさしく、やわらかく。
八左ヱ門の作った器を見下ろして、見惚れるほど綺麗に……兵助は、穏やかに笑っていた。
この気持ちを、なんて呼べば良いのだろう。
一年前のあの日、自分の作品を静かに眺める横顔に、一目惚れ。
そして今、自分の作品を見下ろす穏やかな笑顔に、二目惚れ。
ただひたすらに込み上げる、この熱くて甘くて痺れるような感情の正体を、自分は、知っているような。
「…もっと早く、お前に声をかけてれば良かった」
思わず呟いたその言葉に、兵助が驚いたように顔を上げる。
そして…今はすっかり沈んでしまった夕陽を思い出すほどに、兵助の頬がゆっくりと染まっていく。
「……な、に言って…、ええと、…いや、でも、」
あからさまに動揺し、言葉が見付からなくなっている兵助を見て、ますます胸に熱い感情が満ちていく。
「…でも、うん、そうだな。……俺も、そう、思う」
すっかり真っ赤になってしまった顔を、手の甲で隠しながら。
兵助は、照れたように眼をそらして、そう言った。
その姿にまさに陥落した八左ヱ門が、今度は自分が顔を真っ赤にさせて、好きだ、と彼に告げるのは。
当たり前のように毎日を一緒に過ごすようになる、この日からの後の時間の――さらに、また少し、先の話。