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12/08 Thursday < >
やっぱりさいと移転することにします。

まっさらなブログに新しく書き始めるパワーがないというのが一番引っかかっていたのでこのブログの記事を選んで移植しました、拍手お礼の短文なども内容そのままひっぱっています
新しいところはサイトに広告出ない代わりに編集用ページに出るんですが聞きたくないことを聞くより言いたくないことを言わされるのを避けた方がいいだろうという感じです

新しいURLはこちら
http://shokuji.xria.biz/?guid=on

改めて書いてませんが移転先もどちらかと言えばリンクフリーです、ここも消したりせずに過去ログとして残しておきます なるべくシームレスに移動したいです
改めて、いつも読んでくださる方ありがとうございます。

p.s.言い忘れてました、新サイトの表示が余りにも崩れてるとか最悪表示されないとかあったらご一報下さい。直す技術があるかどうかはまた別問題ですが…。参考までにこちらの環境はiPhoneのSafari&Google Chromeと、PCからの閲覧はあまりお薦めできませんが、WindowsのIE&Google Chromeです。


12/03 Saturday < 花瘤 >
何かと一致したい、一致して安心したいのに、お前はわたしじゃないという免疫系――憎しみのシステムがわたしを怒らせる 怒りは熱を生み、つまりわたしを生かすエネルギーになる
存在しないものを存在させることが人生の目的のような気がする、ほんとうに存在してほしいものを存在させるのは不可能なのも分かっていて、その努力のうちに死ぬために努力する 目的を再生産する努力、因果を語り続けるための物語り を 繰り返す

怒りや憎しみはそのものが快感でもあって、気持ちよく怒るには自分のことと他人のことをたくさん知っていた方がいい、自分と比べるためのサンプルをたくさん持てる
でも免疫は過敏になるといくらでもどこからでも差異を発見して攻撃しはじめる、自分として正しい範囲がどんどん狭くなり、けっきょく自分がボロボロになっていく つまり癌だ 癌細胞の"悪性"は純粋にそれが自細胞と異なっていること、コントロールできないことに由来している それ自身の性質として悪なのではない
怒らないと意義を失いがちだけど怒りに翻弄されすぎると目的を見失う バランス感覚、熟練…わたしの苦手なものだ
追記


12/01 Thursday < coda >

ランキングサイトを「東京モダンアパート」さんから「coda」さんへ変更しました。こちらの管理が行き届かず何度めかの登録切れになっていたのでなんとなくです。
codaは音楽用語のコーダらしいですが、コーダ部のイメージはf,ff,maestoso〜!みたいのが多くて奏者的にはつらいところだけど同時に曲の展開が終わったところでもうひと〆しようみたいな余裕を見せるべきかっこいいところでもあるので、これを機にきちんと終結部のある読みがいのある記事を書きたいなというふうに無理やりこじつければこじつけられるかなと思いました、が、ページデザインが清潔で人間の肌が写ってる画像があるのが良かったので選びました
誰に言えばいいか分からないけど今までありがとうございました、これからよろしくお願いします。ご報告まで。

あと、今更ながらに広告表示のことが気になったので移転するのもありかと思って新サイトのコードぽちぽち打ってほぼ完成もしたのですが、とりあえずやめます。踏ん切りがつかないうちにランキング登録し直したことで少し新規感が出て別にいいかという気持ちになったので。また考えます。


11/30 Wednesday < 花びらの影 >
わたしや他のたくさんの人が毎日いろんな発言をして過ごしているけど、わたしたちには、自分を言語化したい、ほかの生命に伝わることを確信できる形態に自分を落とし込みたいという気持ちがあると思う。何かと一致したい、言語と一致したいし、人と・とりわけあなたと一致したい、本当は、わたし自身と一致したい、一致しないものは滅ぼしたい。

『スポーツの美的要素』という、美学哲学的な言葉でスポーツの歓びを言語化した文章を読んだとき、「沈みゆく」「肉薄」「挨入」という言葉がなんども出てくるのが印象的で、それはたぶん何かと一致しようとする動きのことを言ってるんだと思う。没頭すること、夢中になること、自分を検閲しないですむこと。それが美を感じるのに必要な条件だ。
人生に夢中になりたい、何なら仕事という名前のスポーツでもいい、けどできれば読むことと書くことに夢中になりたい。

小説を書くことの正当性を考えた作家としてわたしはマルグリット・デュラスを知っている。

作家に求められる(≒文学と社会が一致する)仕事の中で最も大きなものは、その時代を生きるみんなが自分を転写し得る文体を作り上げることだと思う。それができた作家は幸運だ。明治の日本には確かに新しい文体があらわれていた。むしろ新しい時代の文体≒文学のために、人々が自分を読み変え、書き換えていくという逆転が起きたほどに、その文体の価値は信じられ、効力を発揮していた。それはフーコーに言わせれば、何かを発言させるというかたちの最も恐ろしい暴力だったかもしれない。

デュラスは、物語の価値を信じない。すべてのイデオロギーを信じないし、フランス語という枠組みもたぶん信じない。材料としてのマルグリット・ドナデュー(デュラスの戸籍上最初の名前)の記憶も、このテクストが他のなにかの模範となることも彼女は信じない。
書かれた内容にではなく、テクストの外側の状況にでもなく、何かに向かって書くことそのものに、ときには同じエピソードを何度も書きなおす手つきの中に、マルグリット・デュラスの仕事は見出される。
デュラスは徹底的に自分と一致しないで書いていると思う。書く理由を解体し、解体しすぎて跡形もなくなったその虚無と忌避に向かってそれでも書いている。そのテキストに何が書かれているのかを理解し没入する喜びを味わうことはできなくても、彼女の書き方は文学のひとつの極致のような気がするしその真摯さ切実さにわたしはこの世の何よりも感動している…していたいと思う。


10/19 Wednesday < やわらかい部屋の内と外で >
その瞬間まで誰も知らなかった言葉を話したいよなあ、そんなこと私には無理だという卑下もあるけどやっぱり話したい 一方で自分にしか通じない言葉を話すことにも愉しみはあってわたしはそっちに引きずられがち

ネットっていうもう一つの世界ができた今ではSNSで詩人や歌人がいくらでも発言してて、その括りで呼ばれる人たちにもやはり狭い集落のような業界、社会があるらしいのが分かって、それがとんでもなく恐ろしい 他人が怖い人間の集まりはそりゃ閉鎖的になる(偏見) わたしはそれを眺めて怯えてるだけで透明人間になったつもりになってるけどわたしもまた何かの村の内側にいる

『昭和元禄落語心中』がめでたく完結したけど、最後は疎外感があった 優しさ村の住人の話だった 密室のどれか一つにでも安らえたら大往生だ 自分を肯定できない代わりに抜けられないほどどっぷり嵌り込んだ密室のことを愛でるみたいなこと これが大人なのか

スカイクロラシリーズの内どれかに吉本ばななが解説を書いてて、わたしは「キッチン」すら読了した覚えがないんだけど解説読んだ限り村意識の強さみたいのを感じて引いてしまった、いま『明かしえぬ共同体』読まなきゃいけないんだけど読んだらたぶんその引いちゃった気持ちがもうちょっと分かるようになると思う そう思いたい


10/19 Wednesday < やわらかい部屋 >
※森博嗣「すべてがFになる」のトリックのネタバレあります※

森博嗣のスカイクロラシリーズを読み直したのち処女作(発表は2番目)だという『冷たい密室と博士たち』をぱらぱら読み返した
『冷たい〜』の解説を書いた人は、推理小説を「割り算の文学」と呼んだ人がいることを引き合いに出して、森博嗣のデビュー作『すべてがFになる』の何が画期的だったかを説明している。従来の推理小説は<事件÷推理=解決>という既存の数式に提出された事実を当てはめることで「解る」仕組みになっているのに対して、『Fになる』は読み手が自分で試行錯誤して式を立てる必要があり、それが新しかったということらしい。
つまり、『Fになる』を読み解くためには、複数の人間の男と人間の女がいて、閉鎖的な空間があって、誰かが不可解な死に方をする、という条件の中で提出されたピースをこねくり回して、何を変数として立てるかを読者が自ら決め、「男と女は子供をつくる」という公式というか定理というかを代入(?)することを思いつかなくてはならない、ということだろうか。
『Fになる』のいわゆるトリックの根幹を成すのは「愛」とか「生殖」といったものごとだが、それらを数式や論理の材料として数量化するような態度にグロテスクさを感じるのはなぜだろう? 恐らく森博嗣自身もそのグロテスクさを承知で書いている。その態度は決してグロテスクではない。グロテスクに思うのは私たちが愛や生殖を神聖視しているから? それらを神聖視する私たちの方が実はグロテスクなのでは。
森博嗣のS&Mシリーズ(『Fになる』と『冷たい〜』から始まる連作)は全部密室ものだったような印象があるけど、私たちはみんな密室の中で、それも同時に幾つもの密室の中で生きている気がする。愛や生殖の神聖性という通念が共有される社会という単位も一つの閉じた系で、つまり密室だ。或いは逆に、個人個人が抱える社会的でない部分を、ひとりひとりが閉じこもることのできる密室と呼ぶこともできる(小林康夫『君自身の哲学へ』に出てくる井戸、たて穴のような)。私たちは幾つもの密室に同時に閉じ込められる複数の身体によって生きていて、どの密室の中でも死ぬことができる。もちろん公共・社会という密室の中でも人は死ねる。過労死とか。そして何より"外"に出ることだけが私たちにはできない。
スカイクロラシリーズは、職業作家として"推理小説(ミステリィ)"を書き継いできた森博嗣が、唯一自分で書きたいから書き、装丁に口出しをし、それを書き終わったとき「作家業は引退した」とまで言った"小説"だが、その作中主体たちが望んでいるのはひたすら「密室から抜け出すこと」「自由であること」だ。ミステリィと銘打ったS&Mシリーズでもそれは変わらないと思う。スカイ・クロラのキルドレ達が戦闘機に乗って空で殺し合いをすることに最も自由に近いものを見出し、大人になること・子供を作ることに忌避を感じたのと同じように、S&Mの犀川は研究に自由を見出し、恋愛ということから逃げようとしている。
愛=人が増えること、を、あまりに特別であまりに当たり前であるがゆえに人の目をすり抜ける透明さ・から・取り出し、その現象を凝視し、躊躇なく数式に組み込むという一連の禁忌の作業を促すことによって、『Fになる』は、私たち読み手に少しだけ密室から外に出る体験を与える。もちろんその脱出は錯覚で、次の瞬間にはまた新しい密室に絡め取られてしまうのだが、その子供っぽい家出のようなものを繰り返すことはできる。
森博嗣の小説はそもそもが作者の模型製作の趣味費を稼ぐために書かれ始めたもので、それ自体逃避への投資だ。作中でその自己正当化をしているとも言えるし、家出仲間に向けて声を上げたということでもあると思う。決起して子供の王国を建てるための声明ではなく、それぞれに孤独だけど一人じゃないよという確認の挨拶。その逃避は個人の世界に閉じこもることではない。その一瞬だけは誰も知らないもの、を、手に入れること。その瞬間までこの世になかった言葉を初めて話すことだ。


09/24 Saturday < ずっとアクセスできなくなっててすみません >
ナノの広告表示規約に引っかかって、ずっと修正しては基準クリアできずを繰り返してました 難しかった… 記事地味に増えてます


09/08 Thursday < 唖し2 >
中学生の時、わたしがやりたかったのは自立分散型の組織を作ることで、でもどうしたら自分のやりたいことをやれるのか分かってなかったし、まったく言葉が足りず、とにかく怖い部長をやってた 部活中はほとんど必要なこと以外喋らなかったし、それで部活の空気は締まったけどたぶん嫌われてただろうなあ、部活を引退するとき、顧問はわたしと副部長に向かって「今まで見てきた中で2番目によくできた代だ」って言った、そしてそれ以上は何も言わなかった 副部長の子も何も言わなかった
わたしが大学入試を終えて、中学時代の顧問に東京で文学部に進むって言いに行った時、「ええ〜」って言って、顧問はもちろん止めはしなかったけどあなたが文学は違うでしょう?!って感じだった、そりゃそうだ、政治経済でもやりそうなことを中学の部活ではやってた

高校ではほとんど何もしなかった、国語科の先生にやたらと好かれるけど自分の何がそんなにいいのかわからなかった、ただ日本語を読んで理解して問題に答えるのはゲームのようで楽しかった
校内合唱コンクールの時、付きものの「歌詞の意味を考えよう」の時間があって、みんなディスカッションしようとしないし、わたしは一人で歌詞に夢中になれた 3年のときのクラスには同じ部活の男の子がいて、その子はめちゃくちゃ音楽に詳しくて1年の時から毎年自分のクラスを合唱コンクール優勝に導いてきた天才(だとわたしは思う)で、彼の指導は実際見事なものだった、彼は京都の哲学科に進んだけど、その子がわたしの歌詞の意味を考えようプリントを覗いて、「そんな風に読むんや」ってヘーッて感じで言ったのが不思議でたまらなかった、なんでこの子はこんなにいい曲を知っているのに、みんなをまとめてレベルの高い合唱を作れるのに、この曲の歌詞はこんなに分かりやすいのに、わたしの「読み方」に驚くのか、そもそも詩に読み方なんてあるのか
わたしはその年あれよあれよと言う間に合唱の指揮を任されてしまったんだけど、指揮なんてやったことないし、自信ないですって担任に相談したら「あなたの指揮は分かりやすいよ」って言われてこれでいいのかなって最後まで分からないままだった コンクールの結果は優勝、ピアノを弾いた天才の男の子は個人賞もとった 当たり前だと思った
後になって、指揮部門の個人賞をとった子とわたしとのどっちが良かったか最後まで審査が割れたんだって聞かされて、わたしが賞を取らなくて本当に良かったって安心した
指揮の賞をとった子はわたしの部活の部長だった

部活では高校最後の年に副部長をやった、なぜわたしかというと、部長を誰がやるかはもう1年の時から決まっていたようなもので、その天性のリーダーに反対できる強度を持った人間がおらず、その下の副部長ポジションにその他主張の強い子たちの誰か1人を置くよりは、部の派閥とか政治的なことに関わりが薄い人間を置いた方が安全、ではそれに相応しい、とにかく練習には熱心でそこそこに認められてて部内にアンチがいない人間は誰か、と考えたとき、わたしに白羽の矢が立ったからだった わたしは派閥とか意味が分からなかった わたしにとって部活は純粋に練習をする場所のはずで、彼女たちが一体いついがみ合ったり共謀?したりする暇があるのかさっぱり分からなかった
でも私たちはやる気のある代と言われた いろんな部署からいろんな意見が出て、いろんな点で体制が変更された わたしはそれらの提案や時には決定を、幹部会議で、部活の他の子達より先に聞いて、いいね、と言った それ以外にすべきことはなかったしできることもないように思えた 先代の体制についてわたしが疑問に思っていたことはだいたい解消されていた わたしはとにかく新しく決められたメニューに従って練習を回した
毎日がとても充実していた 時折感じる居心地の悪さを無視すればわたしは自分の部活が好きで、練習以外にすべきことは何もないように思えた 演奏の出来について細かく気になるところは多々あったけど、それでもコンクールに向けて皆んなが考え動いていると思えたし、そんな環境を愛していた
その年、私たちの部は県代表になれなかった はっきり言って理由は分からなかったし、今でも分からない わたしがした以上にできることも後悔すべきこともなかった
今でもトランペットは続けているけどあの頃みたいに明けても暮れても吹き続けるなんてとてもできない気がする いや、今のわたしのまま部活以外にすべきことがないようなあの状況に置かれたら同じことができる、同じことしかできないのかもしれない
食堂の2階のボロボロの部室に朝も昼も夜も響いていた人の声と楽器の音、氷点下の冬に雪の降るなか戸外で練習するつらさ、歯ならびに問題があったばかりにコンクールのステージでトランペットを吹けなかったあの天才の男の子 でもそれらは現在だった時から既にわたしに関わりのないことだった


09/08 Thursday < 唖し1 >
閲覧停止状態のまま書くけど、高校の頃までどんな小説もみんな詩のようなものとして読んでて、意味はよく分からなくても文体と雰囲気だけでなんでも読んだと思う
森博嗣、いしいしんじ、カミュ、舞城王太郎、森見登美彦、恩田陸、太宰治、村上龍、あとは漫画の山岸凉子、萩尾望都、竹宮恵子、あだちみつる、手塚治虫、あしべゆうほ、赤石路代、今市子、などなど
本を開いてどこからでもいいから読み始めれば誰かがずっとしゃべりつづけていて、だいたい社会に顔向けできない感じのことを言ってて、なんの答えも用意せずにそれをただ聴きつづけるのが小説を読むってことだった
現代文の読解・要約や小論文は嫌いじゃなかったけど小説などを読むのはそれとは全く別のものだった、小説は要約できないし、小論文みたいに形さえ整っていれば嘘をつけるようなものじゃない、別の言葉に移し替えて順序よく説明するのは侮辱だと思ってた気がするし、入試で小説を読む意味が全くわからなかった、つまり小説は研究するものではなかった
それを大学でもだいぶん引きずってきたと思う
わたしの読んだことがあるものを指して、これは○○の話だとかどういう人間が××する話だとか否定しようのない簡潔な言葉で言い表す人間に対してなんとなく傷ついた
デュラスが『愛人』のなかで下の兄を「物事を理解せず、そして怖がる、というようなひとだった」と描写するけどそう、分からないものは怖い、だからわたしはなかなか小説が書けないし、書いたという気がしない 読めないし、読めたという気がしない


09/01 Thursday < 禁止 >
ナノ公式から広告表示状況についての検閲が来て、無料で使わせてもらってる以上当然なんだけど、その対価を支払うつもりはあるし実際に支払うけど、同時にちょっと緊張した 自分以外に発言を検閲される感覚なんてほぼ感じたことなかったから 組織からの検閲は自分でする検閲ともちろん似てるけどやっぱり違うところもある のっぴきならなさなど




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