▼ 鬼との馴れ初め
「悪いな」
「あら、お客様が悪いわけじゃないでしょう?」
低い声で一つ謝罪の言葉を述べたそれに振り返って微笑めば、それでも苦い顔で居心地悪そうに後ろ頭をかいた男。こういったお店で遊び慣れていない顔だ。大方、お店の中央のテーブルで女の子達を侍らせている松平様に無理やり連れてこられたんだろう。大きな笑い声を上げている松平様に落ち着くようにと声を張り上げている、髪を逆立たせた髭の男も同じなんだろうと思う。
ママから聞かされたお店の貸切には驚いたものの、相手が警察組織を纏める警察庁長官の頼みとあれば聞かぬ訳にもいかぬ。とはママが言っていたんだけれど、まあ幾ら貰えるんだとは聞かなかっただけ賢い判断だったと思う。ママのあの目はお金に目が眩んだそれだった。これに付き合ってくれている女の子達には、後でちゃんとお礼を言っておかないととため息をこぼす。
「疲れてるな」
「貴方ほどじゃないわ」
「…そう見えるか?」
「スカーフ、よれてるわよ」
目を丸くして私を見下ろす男に口角を上げて、首元に手を伸ばす。少し躊躇う素振りを見せて、直しやすいように少し身を屈めてくれた。直してやる最中、少しだけその顔を見遣れば視線を合わせないようにか伏し目がちになっていて笑ってしまう。女慣れしていそうな見た目をしているのに案外堅物なんだろうか。何にせよ予想外である。
「行かなくていいの?」
「苦手なんだよ。こういう店は仕事絡みでしか来ねぇ」
「ふーん?じゃあ慣れてもらえるように頑張ろうかしら」
「話聞いてたか?」
「お酒は飲めるでしょ。付き合ってくれるだけでいいの」
中央の席から離れた隅のテーブルへとその背中を押す。些か強引だとは思ったけど、私も売上を少しは残しておかないとママが五月蝿い。
「どうせお代は松平様持ちでしょ」
「…アンタ肝座ってんな」
「か弱い女の方が好みかしら?」
「いや…、嫌いじゃねぇ」
仕事絡みではあるけれど、業務は終わっているらしいので遠慮なくグラスにお酒を注いでやる。灰皿も用意してやれば、少しばかり目を見開いて「助かる」という小さな声。スカーフを直している時に香った煙草の匂いは決して移ったものでは無い。態々礼を言われたのは久方振りで思わず微笑んで首を振った。
お客様が一口飲んだのを確認して自分も同じようにそれを喉に通す。口に広がるアルコール度数は低めで、飲み慣れている人ならば物足りないだろうとは思う。だからと言って初っ端から飛ばし過ぎてしまうのは慣れていない子のすることだ。美味しいお酒を飲みつつ、話に花を咲かせて気持ちよく帰ってもらうのが私たちの仕事である。飲んで楽しくなるだけでは私達の存在は要らぬも同然だ。
「名前」
「あ?」
「名前を聞いてなかったわ。そう言えば、自己紹介がまだだったのよね」
「…ああ、そうだな。そういや、アンタの名前を聞いてねぇ」
「改めてまして、なまえって言うの。好きに呼んでね」
「……俺も言うのか」
「こう言うのはお互い言い合うものでしょ。私は新聞でよく見るけど、初対面なのには変わりないの」
「なるほど、アンタの言う通りだ」
くっと口角を上げて笑った男は、それはもう自分の魅せ方をよく分かっている。目を細めて笑みを浮かべる、それだけで様になっているのだから嘆息しつつ少しばかりざわついた心臓を落ち着かせた。文武両道で容姿も整っているだなんて、そりゃあ女の子からはモテるでしょう。
「土方十四郎。好きに呼んでくれ」
「じゃあ土方さんで。…なぁにその顔?」
「いや…、てっきり名前で呼ぶんだろうと思ってたからな」
「ちょっとね。気にしないで」
「そうかい」
察してくれたのか、それとも興味が無いのかは分からなかったけれど助かったことには変わりなかった。前者ならモテる秘訣がまた一つ明らかになったんだけれど、その表情からは何も読み取れず諦めて汗をかいたグラスを拭く事を優先する。
会話を交わすうちに慣れてきたのか、土方さんからも話を振られたり目も合うことが多くなった。大きな進歩を喜ぶと同時に、次回の来店が望み薄な事に苦く思う。どんちゃん騒ぎも終わりに近いのか、始めの喧騒とは比べ物にならないほど小さくなっていた。様子を見ていたボーイに聞けば、松平様は寝落ちしたらしい。宥めようとしていた髭の男も、一升瓶を松平様に無理やり飲まされ慌ててトイレに駆け込んだのを見たと。
「どうしましょうか?」
「あー…、そうか。……忘れてた」
「タクシーでも呼びましょうか?」
「いや、飲んでねぇ奴もいるだろうから、そいつらに送らせる」
「そう。貴方も無理しないで、顔赤いわよ」
「…なんていうか、なぁ、なまえ」
部下らしき人達に指示をした後で、目を伏せてソファーに深く背中を預けた土方さんは薄く笑みを浮かべていて。名刺を渡そうか悩んで顔を伏せた。
「すっげぇイイ気分だ」
「それは…、ええ、良かったわ」
「また来る」
思わず伏せた顔を上げると、妖艶な笑みを浮かべて視線だけをこちらに向ける土方さんに目を丸くした。肩から力が抜けて、私もゆっくりと笑みを浮かべてみせる。
「待ってるわね、土方さん」
どうやら私は無事、土方さんをお得意様にできそうである。ママが遠目でガッツポーズをしているのはバッチリ見えた。せめてお客様が全員帰ってからやって欲しかった。
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