■ 玖

迂闊だったとため息をこぼす。屋敷の着物を着て、加えて裾が誰のものとは知れない血を含ませているのだからそうなると安易に予想できていた筈なのに。鬼のような形相でオジ様に保護された後で、オジ様がしたことと言えばママへの報告である。電話口の向こうでママの怒声がこちらにも届いて、正直帰りたくなくなった。足が治るまではオジ様のお店で保護するようにと言う言葉に、オジ様が当然であると言葉を返していて、オジ様も怒ってるなと二度目のため息。お店の女の子達に足の処置をされながら、オジ様に叱られて数日吉原待機を命じられた。巻き込まれただけだと言うのに、誠に遺憾である。


「ママもオジさんも心配してるんだよ!」

「分かってるから泣かないで。私が悪かったから」

「じゃあ詳細をちゃんと話してほしいナ!」

「それは嫌」

「もーーー!」


半泣きのオジ様には悪いけれど、こればかりは話せない。ここでの愚痴はママに聞いてもらうに限る。
お店の手伝いも少なく、手持ち無沙汰な日が数日立って、足も本調子とはいかないまでも歩行が随分と楽になったその日、ママよりも顔を合わせたくない人が先にやって来たのだ。


「元気だったか、なまえ?」

「今すぐにお連れ様と一緒に帰ってくれる?」

「すまんな。わっちにはできん」


怪我も完治したらしい月詠が顔の横で手を上げ、思わず眉を寄せて引き返すようにと口が動く。あえなく撃沈して内心舌打ち。吉原の自警団の頭領である月詠が、ここのお店を知っているのは分かるけれど、何故私がまだ吉原にいると思ったのか。


「聞けば教えてくれてな」

「……、オジ様ね?」

「さぁな」


奥に引っ込んだであろうオジ様に悪態をつきつつ、月詠の後ろでさっきから表情を変えぬままこちらを見る男へと目を合わせた。言わずもがな、坂田さんである。面倒な男は暫く避けたかったのだけど、自分の運の悪さに辟易する。ちょっと最近ツイてないにも程があるんじゃないのか。私が一体何をしたっていうの。


「『吉原の救世主』様が、どんな御用かしら?」

「動けるな?」

「?…ああ、足ならたぶん平気だけれど」

「帰んぞ」

「は?」


言葉を理解する前に腕を取られて、引かれる腕に反射的に足が動く。慌ててお店の奥に顔を向ければ、オジ様達がひらひらと手を振っていて、また勝手な事をしたなと呆れつつその手に振り返した。月詠もお店を出てすぐに「では」と短い返事と共に姿を消してしまって本当に勘弁して欲しい。ただでさえ何も言わずにこのお店に来たというのに、ここで見つかってしまっては意味が無いじゃないか。内心深くため息をついてどうしようかと頭を悩ませる。先に口を開いたのは坂田さんだった。


「晴太…あー、あのちっせぇガキ覚えてるか?」

「ええ」

「今度ちゃんと会って礼がしてェんだと」

「…そう。お礼も出来るなんて、やっぱり将来を期待して何か先手を打っておくべきかしらね」

「なまえちゃん浮気はよくない」

「お付き合いしてる相手はいないけど?」


軽くなった雰囲気に少なからず安堵する。ああ、もう、これだから面倒な男は。というかいつまで腕を引いてるつもりなんだこの男。軽く揺すってみても離す素振りが一切無くて、隠さずにため息をこぼした。
坂田さんの歩く速さがまだ少し痛む足では辛い。地上に出るまでの辛抱だとついて行くも、お店からそこまでの道のりは今の足では正直骨が折れる。高所から運動もせず飛び降りるなんてするべきでは無いと深く心に刻む。もう二度としない。


「キツいか?」

「いいえ」

「そーかい。でも俺がしたいからする」

「は、ちょっ、坂田さん!?」

「散々なまえの好きにさせたろ。今度は俺の番な」


背中に目でも付いてるのかと疑っていたら構わず抱き上げられた。人目も憚らず何て事をしてくれるのこの男!そりゃここには私のお客様はいないけれどっ、何も言わずに歩き回ったから根に持ってるのかしら!?羞恥心というものはないの!?馬鹿!?馬鹿なの!?語彙力の低下が著しいのはこの男のせいだと奥歯を噛んだ。


「照れてんの?」

「…嫌いになりそうだわ」

「え」


結局、ありえない事にそのままの状態で私の家まで送られたわけだけれど。本当に馬鹿じゃないの。お店に来たら絶対に高いお酒をねだってやる。


「あんたの話を何も聞かない代わりに、銀さんに依頼したんだよ」

「ママが?」

「どーせ詳細は省いて愚痴だけ言うつもりなんだろう?聞かない代わりに、銀さんに辱めてもらおうと思ってね」


ちょっとした意趣返しだよと笑ったママに、本当に手回しが良すぎると手で顔を覆った。頼りになるのは確かだけれど、敵になると怖いタイプだ。
坂田さんが苛立ちを隠さずにお店に来たのだという。案内も押しのけてママに私の居場所を聞きに来たらしく、ママが依頼料として私を辱める代わりに場所を教えると言ったのだ。お店の子達が口を揃えてそう言うのだから頭を抱えるしかなかった。


「それで?シンデレラの如く逃げてきたお姫様は王子様に何か言われたの?」

「…約束は忘れるなって言われたぐらいよ」

「約束?」

「無事に帰れたらデート」


大爆笑をもらった。全然これっぽっちも嬉しくない。そもそも無事に帰れてないのだから約束は無効になるんじゃないのか。家の前で悪態をついたら無事に送り届けてやっただろとしたり顔で言ってくるものだから、その日二度目の「嫌い」が自然と口から出た。
未だお腹を抱えて笑い続けるママにため息を吐き捨てて、お店の子達へと謝罪しに回る。一月お店を空けた礼と、怪我した療養の数日であるプラスα分の謝罪。笑って首を振ってくれるいい子達ばかりで、最近の運の悪さが浄化されている気がする。


「ま、約束はちゃーんと守ってやんなよ」

「憂鬱だわ」

「銀さんの他にも指名は頂いてんだ。休んだ分、キリキリ働いてもらうからね」


歯を見せて笑ったママに何度目か分からない今日一番のため息が零れた。本日一番に私を指名したのは久しぶりの土方さんで。何やらママが裏で仕組んでいるのではないかと疑ってしまう。


「傷、できてんじゃねぇか」

「ああ、ちょっと色々あってね」


伸ばされた指が左目の下を優しくなぞる。あの交戦の最中、崩れた壁の破片が跳ねて過擦り傷を作ったのだ。化粧で隠しきれなかったかと内心舌打ちして、何でもないようにと笑って見せた。目に入らなかっただけマシだ、失明なんてものになったらお店も辞めねばならなかっただろうから。


「そこも気に入ってんだから大事にしろよ」

「相変わらずね。私も好きよ、貴方の顔」

「へぇ、顔だけか?」

「秘密」


指を立てて笑う私に土方さんが目を細めて小さく笑った。賑やかなお店は私が吉原に行っていた時と何も変わらない。
あの吉原で鳳仙様が焦がれた太陽に私も少なからず魅せられた。強く美しい女性の華やかさを、私はこの身をもって体験した。あの町を彼女らが支える限り、翳りができることはないだろうと思う。晴太くんを見に行くのと共に、吉原一の日輪太夫にお近付きになっておくのもいいかもしれない。そうすれば男を手玉に取る芸ももっと伸びるわね。内心ほくそ笑みながら、何でもないように土方さんの空いたグラスにお酒を注いだ。


2017/07/30
吉原炎上篇 終