■ 漆

劣勢。その一言に尽きる。どれだけ優れた身体能力を持っていたとしても、元から備わっている夜兎本来の、しかも夜王とまで呼ばれた男の力は、年老いても尚そこに健在していた。
木刀と刀の両方で何とか一撃一撃に耐え忍ぶ坂田さんは、誰が見ても分かるほどに疲弊していて、その顔は苦痛に歪んでいる。晴太君の思わずと言ったような声が響き、柵を越えて己の武器を交える二人に息を呑む。どうしたって震えが止まらない。


「おねーさんはどっちが勝つと思う?」

「…一度賭けた勝負を途中で降りるなんていう見苦しいマネはしない主義なの」

「へぇ、あの銀髪のお侍さんの方が圧倒的に弱くても?」

「燃えるでしょう?」


ケラケラと笑う神威君に笑みを返すも、笑っている場合かと叱責する自分がどこかにいる。早くこの場から離れるべきだと分かっているのに、どうしたって坂田さんが気掛かりで離れられないのだ。
聞いたこともないようなけたたましい音に、酷く狼狽える晴太君の傍にしゃがみ込む。顔を上げた晴太君の顔にはどうしていいのか分からないと書いてあって、せめてこの子は母と逃がしてやらなくてはいけない。


「お母さんを連れて逃げなさい」

「で、でも」

「何のために坂田さんが貴方をここまで連れてきたと思ってるの」

「連れてきたのは俺だヨー」

「話がしたいなら後でいくらでも構ってあげるから静かにしててくれる?」

「ん、りょーかい」


横槍を入れてくる神威くんを一瞥して、未だ迷う晴太くんの頭を撫でる。こちらを見上げるその瞳は幼いもので、安心させるようにと商売柄慣れた笑みを浮かべた。純粋な子供の目には、少しばかり汚れているかもしれないが。


「いくら坂田さんでも、惚れた女の前で情けない姿なんて見せないでしょうし?」

「過分なご期待感謝致しますうううう!!」

「軽口叩けるならまだ大丈夫ね」


驚いた。聞こえているとは思わなかったから適当なことを言ったのに、あれのどこにそんな言葉を吐く余裕があったのか甚だ疑問である。坂田さんの叫ぶような声に晴太くんの目付きが変わった。やだ、この子大きくなったら女の子にモテちゃうんじゃないかしら。肝っ玉は座っているし、格上の相手でも多少の恐怖は混じりつつも前を向く姿勢は変わらない。なかなかの優良物件じゃないかしら。
とまあ余計なことを考えていれば、壁に何かを押し付けるような嫌な音が耳に響いて眼下を覗く。壁伝いに背を預けて頭から血を流す坂田さんの姿に心臓が嫌に騒ぎ出す。僅かにこちらを見上げた坂田さんは、私と同じ言葉を晴太くんへと繰り返した。母を連れて吉原から逃げろと。


「銀さんが言ったんだ。血なんか繋がってなくとも家族より強い絆があるって。オイラを泥棒から足洗わせて、まともな生活をおくれるようにしてくれた。一人ぼっちのオイラと一緒にいてくれた」


ポタリと涙をこぼす晴太くんに、ああやっぱりまだまだ子供だとその頭を撫でながら黙りこむ。きっと私が口を出してはいけない事柄だ。坂田さん達と、晴太くんの絆というやつだろう。


「みんなは、銀さんはオイラにとっちゃ大切な家族なんだよ!大切なことをいっぱい教えてくれた、かけがえのない人達なんだよ!それをこんな所にっ、見殺しにしていけって言うのかよ!」

「…それが聞けただけで、俺ァもう充分だよ」


ゆるく笑みを浮かべるその姿に、その場から走り出してしまったのは衝動というもので。ママと、きっと心配しているだろうオジ様にはあとで謝ろう。


「行ってくれ。俺をまた敗者にさせないでくれよ」

「ぎ、銀さっ」


その言葉の直後。耳を塞ぎたくなるような轟音に勢いのまま飛び降りた。晴太くんの叫び声が聞こえ、鳳仙様の笑う声が聞こえ、神威くんの呆れたような声が耳に入ってくる。慣れない服装に加えて中々の高所だったから、上手く着地ができずに左足を痛めたものの動けないほどではない。壁に人がめり込んでいる光景を目に、震えそうになる体に鞭打って坂田さんへと手を伸ばす。服が血に濡れた。構わない。頬へと触れた手に血が伝う。構わない。


「…坂田さん」


返事はない。口元に寄せた耳に僅かな呼吸音を拾い、僅かながらも心臓が落ち着いた。嗚呼まったく。私がこんな所に立ち入ったとて、何も出来ることなどないというのに。下手をすれば鳳仙様の指の一振りで私の首が飛ぶかもしれないというのに。そんな危険地帯にまで足を痛めながらも入ったのには。この男を失うのが、恐ろしく思えるだなんてそんなこと。


「知りたくなかった」


投げ出された男の手のひらを上から握れば、まだ温かいことに心底安堵した。どうか冷えてくれるなとその手を握りしめて、その小さな背に日輪太夫を抱える晴太くんを見上げる。


「たとえお前が何度母ちゃんの顔を曇らせても、オイラが笑顔に戻す。何度でも」

「晴太!放しな!アンタ大人一人背負って吉原から逃げられるとでもっ」

「ぎゃーぎゃー騒げばいいや。そうやってオイラも母ちゃんの腹の中で騒いでたんだろ。赤ん坊の頃は親に背負われて、大人になったら今度は年とった親を背負って、それが親子ってもんなんだろ。母ちゃんの一人や二人、息子なら背負って当然だろ。今までなんにも背負ってこなかったんだ。これ位で丁度いいんだ。この重さが嬉しくてたまんねーんだ」


ふらつく足取りでもしっかりと前を見据えて歩く晴太くんの瞳に、もう迷いなんてものはなかった。ああきっと、彼は素敵な男性になるに違いない。


「そいつは頼もしい話じゃな」


鳳仙様へと放たれた数十もの苦無は、背後へと避けたことによって床へと突き刺さる。動揺したようにそれを見遣る鳳仙様の頭上に立ち並ぶ女は、誰もが闘志を宿した目をしていた。


「ならば背負ってもらおうかの。ここにいる皆を。貴様の母親四十九人。優しい息子をもって幸せじゃ、わっちゃ」

「月詠!」


いい女を振り向かせたのだ。それもここ吉原の女達を四十九人も。晴太くんの未来が楽しみだ。
こちらを見下ろす月詠が僅かに驚きで目を見開かせ、口だけで謝罪を述べれば緩く頭を振った。私の友人は本当に察しがいい上に頼りになる。


「き、貴様ら何の真似だ。このわしに、この夜王に謀反を起こそうというのか」

「わっちらは知らぬ。悪い客に引っかかっただけじゃ。吉原に太陽を打ち上げてやる等という大ボラを寝物語で聞かされてな」


冷ややかな鳳仙様の声に、月詠は落ち着き払った様子で見下ろした。指先を微かに握られて思わず顔を向けるも、目を伏せたままの坂田さんに変わった様子はなかった。


「ホラ、あそこでわっちの友人を侍らせながら伸びている奴じゃ。まったく、信じて来てみればこのザマ。偉そうな事を言ってなんじゃこの体たらくは。太陽などどこに上がっている、ぬしに期待したわっちが馬鹿だった」


月詠の雰囲気が段々と悪くなっているのには気付いた。嘘でしょう?まさか重体の相手に追い打ちをかけたりはしないわよね?月詠を見上げれば「避けなんし」とまあ無理難題を口だけで述べて苦無を一本構えた。


「この大ボラ吹きめが!」


まさか本当に投げてくるだなんて思いもしなかった!咄嗟に顔を背けて、あまり意味はなさないだろうけれど分厚い袖で坂田さんの体を覆う。


「動くなよ」

「っ、」


身を引かれ、握っていたはずの手はいつの間にか私の頭に回り、坂田さんの胸板へと押し付けられて。言葉通りに動かずにいれば緩く髪を梳いた無骨な指に息が漏れた。


「ホラなんざ吹いちゃいねェよ。太陽なら上がってるじゃねーか。そこかしこに、たっくさん」


苦無を指で挟んで止めた坂田さんに、色々な思いを綯い混ぜにしてため息をこぼす。体を離してふらつく坂田さんへと手を貸した。私はここにはいられない。戦う術も無ければ、自分自身を守る術だってありはしないのだから、この手を離せば大人しく身を引こう。


「情けねぇなぁ」

「…いつもの事でしょう」

「ん、そーか」


普段もっと情けない姿をお店で晒しているのだから、こんな事は情けないとすら言えない。それでも納得がいかないならデートの話は無かったという事で。「狡い女」「女は狡い生き物よ」軽口を交わして引き止めるような小さな力から、するりと抜け出して笑った。


2017/07/10