■ 真面目に考えた
「よお」
「……懲りない人ね」
私がお店から退勤する時間は決まっていない。出待ちを体験するなんて、芸能人になった気分だ。だからと言って嬉しくはないけれど。
坂田さんが私を待っている日は実は初めてではない。最初された時は本当に真選組に電話しようかと思った。ため息をついて鼻を赤くさせている坂田さんの首に、私のマフラーを巻いてその額を軽く叩いた。
「あー、あったけェ…。待ってた甲斐あったな」
「馬鹿な事言わないの。風邪でも引かれたら迷惑だからもうやめて。気温も下がってきてるんだから」
「……なまえの匂いする」
「匂わないでくれる?」
人の話を聞いていない坂田さんに大きくため息をこぼした。鼻までしっかりマフラーに埋めて隣を歩く坂田さんには微妙な心境だが慣れてしまい、わざわざ家の前まで防犯のためだからと送ってくれる。彼氏か。周りの人に見られたら怪しまれる。坂田さんがそこを理解して外堀から着実に埋めているような気がしてならない。私の考えすぎであってほしいと心底思う。
「なぁ」
「ん?」
「仕事中真面目に考えたんだけど、俺がお前に何かしたから俺を嫌ってんのか?」
「別に何もされてないし嫌ってもいないから仕事中は仕事に集中しなさい。ジワジワこっちに来ないで。威圧感が凄い!」
嫌ってはいないとは言ったが、嫌いになる可能性がないとは言っていない。調子に乗るなと近付いてくる坂田さんの肩を押して睨め付ければ、残念そうな顔をして肩を落とす。
「坂田さんって、他人行儀じゃね?」
「お客様を呼び捨てにできないわよ」
「いやいやいや、営業時間はもう終わったんだからね。もっと砕けた呼び方になってもいいと思うね」
「家に帰るまで営業は続いてるのよ」
「遠足気分?」
大きなため息がこぼれた。坂田さんに出会ってからため息をつかない日はないのじゃないかと思う。隣でぶつぶつと五月蝿い坂田さんを横目で見て、歩く速度を少しだけあげた。
「あれ?ちょっと?なまえ?いやなまえさん?何か銀さん置いてかれそうになってるよ?」
「家に来たのよ」
「は?何が?」
「名前で呼んで、ほかとは違うと優越感を覚えて、いつの間にか恋人気取りになって、挙句の果てには家にまで来たの」
立ち止まって振り返れば、目を見開かせて僅かに口を開いた間抜けな顔が見えた。笑ってまた歩き出す。後ろから慌てたようについてくる足音を聞きながら、過ぎた過去を振り返った。
まだこの仕事について始めたばかりの頃、右も左もわからない私は慕っていた先輩の技を見て覚えた。その先輩はお客様を名前で呼んでいたから、真似て名前で呼んだ。勿論お客様は喜んだし、私自身親近感を覚えた。けれどそれは思い込みの強い相手に使用するのは禁止事項だったらしい。それを知らずに相手をしていたら、いつの間にか身に覚えのない恋人なんて者ができていた。というわけである。
「それからよ、オートロック式なんていうお高いマンションに住むようになったの」
「……」
「名前で呼びたくないの。誰であっても、お客様は名前で呼びたくない」
マンションの前、坂田さんからマフラーを取り上げれば「寒いっ」と声と体を震わせていて笑った。ここまで送ってくれた礼にと、ホットココアを差し出す。お店でママから貰ったものだけど、私は飲まないから丁度いい。礼というよりは押し付けに近いなと後で思った。
「今日もありがとう。気をつけて帰って」
「なまえ」
見上げて目を瞬かせた。寒さから鼻を赤くさせた坂田さんが思いの外真剣な顔をしていたから、少し驚いた。そんな顔は初めて見たかもしれない。
「親しくなる為に一発どうですか」
「帰れ」
思わず出てしまった言葉は、自分が思っていた以上に冷たい音となって出ていた。けれど、へらりと笑う坂田さんに胸が軽くなったのは確かだった。
2016/11/13