■ プロローグ

綺麗な所作だなとぼうっとする頭で、視界に写ったそれを眺めた。特になんてことない動作であったけれど、それはよく見てみれば繊細な動きであったように思える。


「…よし、合ってるぞー」


数学担当の先生の言葉にハッとして瞬きを繰り返す。黒板に赤いチョークで書き加えられた丸に、些かホッとした様子で自分の席に座る女子生徒。名前は確か…、みょうじさんのはずだ。話した事は数回あったはず。本当に一言二言、次の移動教室が何処かとか次の科目は何かとか、それだけ。
俺の座る席とは少し離れた位置。窓側から二列目の後ろから一番目が俺の席。みょうじさんは窓側から一列目の前から二番目。やっぱり少し遠いかもしれない。後ろからその姿を眺めていれば、真面目な彼女は板書されたものをノートに書き込んでいた。
失礼なのは分かっているが、あまり目立った点はなく大人しいみょうじさんを目で追う理由が分からない。多分これは好きだとかそういう恋愛感情のものではない。では何かと問われると答えにくい。研磨と同じようなものかと考えるも少し違う気もする。


「わからんっ…!」

「さっきから五月蝿いぞ黒尾!」

「うわ、先生…。思春期の悩みとか考えとかその他諸々に対してなんてことを…」

「だったら授業中にぶつぶつぶつぶつ喋んな!休み時間に夜久と相談しろ!」

「なんで俺!?」


どうやら無意識の内に口から出ていたらしい。夜久にも被害は飛んだが、まあ後で謝ればいいかと頭を伏せて夜久から飛んでくるギラギラとした鋭い視線を避ける。
教室が笑い声で包まれる中、チラリと見たみょうじさんは窓の外へと視線を移していた。何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか、そんなに付き合いの無い俺には全くわからない。バレーの事じゃないから余計に。ぐるぐると同じような事ばかり考えて、面倒くさくなって目を閉じた。


「……くん、…黒尾くん」

「んー…、?……っ!?」

「わっ、ごめんね」


聞こえてきた柔らかい声に、ぼんやりと浮上した意識の中で返事を返して、そうして一気に覚醒した。ガバリと顔を上げたそこには驚きに目を瞬かせたみょうじさんがいて、その後方にある時計が授業が既に終了していることを知らせていた。


「あ、え、なんか用だった?」

「うん。先生からノートを持ってくるように頼まれちゃって。後は黒尾くんのだけなんだけど」


出せる?と小さくはにかむみょうじさんに慌てて返事を返しノートを渡そうとして、俺より小さな手がそれを掴む前にサッと遠ざけた。きょとりと目を丸くさせて俺を見てくるみょうじさんを一瞥して、その細っこい腕に抱えられているノートの束を見ながら口を開いた。


「それ?」

「うん?」

「それ、全部か?」

「うん。そんなに重くないし」


こくりと首を縦に降る彼女を見て席を立つ。その腕に五冊だけ残してあとは全部奪い取った。パチパチと瞬きを繰り返すみょうじさんに小さく笑って片手を空けてそっと背中を押した。


「ほら、行くぞー」

「え、あ、うん」


俺は今とても良いことをしているのである。か弱き女子生徒を助けるという任務を負っているのだ。だから夜久様そんな睨まないでください怖いです。
夜久の帰ってきたら覚悟しとけよコルァと言う視線を背中に教室を出て職員室へと向かう。道中、特に話すこともなかったが気まずい雰囲気というよりは、みょうじさんが異様に緊張しているというのが伝わった。俺はそんなに威圧感を出しているのか、そうなのか。…今度研磨に聞いてみよう。


「先生、提出したノート持ってきました」

「おーう、みょうじ。お疲れさ…おお?何で黒尾まで」

「ひっでぇ、俺が手伝ってたら可笑しいですか」

「……何かこう、謝礼を要求しそうだよな」

「先生が生徒に言う言葉じゃない!」


ケラケラと笑う先生の机にノートの束を置いてサッサと職員室を後にする。先生に軽く一礼して慌てて後ろを付いてくるみょうじさんはやはりどこか目が離せない。頭一つ半ほど下にある旋毛を見下ろして、視線に気付いてか丸い瞳をこちらに向けてくるみょうじさんはどうかしたのかと眉を下げて、ハッとしたように目を見開いた。


「ごめんね黒尾くん、先に戻ってていいからっ」

「お、おう。みょうじさんは?」

「私はさっきの授業で質問あるから…」

「そっか」


それだけ言ってパタパタと来た道を戻り始めた背中をしばらく見て、教室に戻るかと踵を返せばまたこちらを呼ぶ声。振り返れば控えめに小さく笑ったみょうじさんの姿。


「手伝ってくれてありがとう」


離れた場所からでも分かるほどにその頬は薄い赤に色付いていた。そうして職員室へと戻って行ったみょうじさんの姿を見送って、きごちない足取りで教室へと戻る道を歩く。

前言撤回である。

これは研磨と同じようなモノではない。断言できる。控えめに笑うみょうじさんは、確かに全く違う感情で目を離せない存在になった。口にするなら恋というものなのだろう。


「何浮かれてんだこの馬鹿」

「いってェ!?」


若干浮かれた気分のまま教室に入った直後、思い切り夜久に頭を叩かれた。


2015/10/18
こうして君に恋をしました