■ 信仰に値する人物であるか?

「僕と話をしよう」

真剣な眼差しだった。手入れも出来ていない傷だらけの、肌触りも良くない私の手を掬う大きな手のひらは、少し乾燥気味なのが見てとれる。美しい容姿をしているから忘れがちではあるが、同じ人間なのだと当たり前のことに少し驚いた。握られたのは最初の一瞬、その手から逃れることは簡単で、けれどそれでは五条さんは納得しないだろう。許さなくていいと言ったのは五条さんなのに。いや許す許さないはこの際どうでもいい、本当に気にしなくていいのだ。他人と称するには些か距離は近いが、私は五条さんのただの後輩で、同僚で、それだけ。私たちに談笑等は必要ない、仕事、命令、それで終わりだ。これ以上何が必要だろう。
その手からそっと離れ、体勢ごと向き直る。五条さんは手が離れたことに少し唇を噛んで、けれど私が逃げないことを知ると一度目を伏せた。そうして大きく息を吐き出した五条さんは、変わらない美しい碧に光を湛えて口を開く。

「前提に置いて欲しいんだけど、」
「はい」
「僕、なまえが好き」
「……………………はい?」

いきなり耳と頭がショートした。有り得ない言葉を聞いた耳はもちろん、それを理解する頭もノータイムで緊急停止を叩き出す。宇宙に放り出された感覚だ。この人は一体何を言ってるんだ。今、割と真剣な話をしようとしていたんじゃないのか?もしかして私と五条さんの間で致命的なズレがあるのかもしれない。持ってる人間と持たざる人間の言葉の解釈が違うとかそんな感じ。
困惑を全面に出しているだろう私に、五条さんは畳み掛けるように言った。

「一目惚れした」
「は?」
「それを前提に聞いて欲しいんだけど」
「まっ、待って、待ってください。理解が追いつきません」

好き、一目惚れ。それは私が知っているものと同じ言葉なのか。尚更信じられない。あの五条さんが私にそれを言ったのが、強くなったと言われた時以上に信じられないんだけれど。何か企んでいるとしか、裏があるとしか。以前も言った通り私には権力も力も無い、ただ術式の有無で一般人とはちょっと違う人間なだけ。五条さんが惹かれるものは一切無い。美しい容姿をしているわけでもなく、どちらかと言えば任務で体は傷跡だらけで、手入れも何も出来ていないような女だ。性格だってお世辞にも良いとは言えないだろうし。
考えても五条さんが私に好意を抱く理由の一つすら見つからない。騙されていると考えた方がしっくりくる。何の為にかは知らないけど。

「理解はいらないから、なまえが好きっていうのだけ覚えといて」
「は、い、いやっ、理解しないと何とも、」
「一目惚れなんて一生かかっても理解出来ないようなもんでしょ」

どうしよう、もの凄く逃げたい。普通に怖い。何故この人は平然とそんな事を言えるのだろうか。本当にさっき私に対して暴言を吐いた人なのか、姿形を似せた別人と言われた方が納得出来る。そう、そうだ。この人は五条さんの姿をした別人だ。そう考えないとまともに話をすることも出来ない。一先ずは五条さんの話は聞くだけ聞こう。理解できるかは置いといて。
咄嗟に逃げ出そうとして引いた足を戻し、まだ上手く回っていない頭を無理やり動かす。

「天邪鬼、分かる?」
「ひねくれてる、とか。故意に人に逆らったりとか」
「素直になれないとか。僕、それなんだよね」
「……はあ」

肩を竦めて言う五条さんに、私は気の抜けたような曖昧な相槌しか打てなかった。この人は、もしかして。今まで私に対して吐き捨ててきたものの全てを「天邪鬼」という言葉で片付けるつもりなのだろうか。
弱い、と。その言葉に私がどれだけ身を削り、そして今でも縛られているのを知っているのだろうか。
視野が狭い、と。自分のことを後回しにするようになり、第一に周囲に気を配るようになった。救えるものには手を伸ばし、例えそれで自分が害されても良いと思えるぐらいに。
迷惑や邪魔、と。複数人で受ける任務は殆ど拒否するようになった。私の術式は連携が難しく討伐には他の術師の迷惑になるし、私自身も一人の方が気が楽だったから。個人でこなせる任務は他より多く受け、邪魔にならないように。
慢心している、と。した覚えはなかったけれど、そう見えるのなら気が抜けているのだろうと。何度頬を張ったか分からない。
鍛錬に手を抜いている、と。する筈がない。私が手を抜く等と。そんな。弱さに繋がるようなことを。強く在りたいと思い続けている私が、そんな事をする筈がないのに。
ぐるぐると嫌な事ばかりが頭を駆け巡る。まさか、まさかまさかまさか。「天邪鬼」そんなもので私の全てを否定してきたのか、この人は。嗚呼、それは、それは駄目だろう。吐き出した息が酷く熱い。聞かなければいけないと思うのに、零れる言葉は取り返しがつかない。

「最低、です。貴方の言葉、仕草、視線の一つ、私には畏怖の対象でしか無かった。初めはただ良い関係を築けたらと思って、でも貴方はそれを悉く退けて私と言葉を交わすことすらしなかった。嫌われていると思ったから、私も極力関わらないようにしていたのに、今更、今更なんですよ。灰原や七海と一緒に任務に行けたらそれで良かった。貴方が時を遡れるなら、奇跡を起こせるなら私は今すぐにでも灰原の代わりになります。私は灰原に死んで欲しくなかった。言葉は呪いだと貴方は私にそう言いましたよね。分かっていて口にしているんだと、それだけ私に対して許せない何かがあるんだと思っていました。天邪鬼、それがなんですか?そんなもので私にかけた呪いが解けると、解決すると思ったのなら勘違いも甚だしい。私は今の私を止めるつもりは無いし、強さを求めることだって止めない。ああいえ、これは関係ないですね。私の問題なので。改めて、許さなくていいなら貴方を許すつもりはありません。例えあれ等が好意の裏返しからくるものだったとしても、私は貴方に好意は抱けない」

止められなかった。いつもそうだ。言い終わってから後悔してしまう。これは殴られるかもしれない。咄嗟に俯き、自身と五条さんの足を眺めるに徹する。敬語も上手く使えていたか怪しいし、支離滅裂になっていた気も。理解出来ないと放っておいてくれればいいと一縷の望みにかけて、動かぬ足に内心ため息をこぼした。

「それがなまえの本音?」
「は、」

予想していた反応とは違い、すぐに顔を上げた。五条さんは未だこちらを真っ直ぐに見ていて、引きそうになる足を踏ん張って耐える。

「嫌われてることも、許すつもりがないことも知ってる。けど内に隠した本音だけは知らなかった。そう、それがなまえがひた隠しにしていたものか」
「何が言いたいんですか」
「なまえを好きな僕と、僕を許さないなまえで話がしたい」
「私は話すことなんてありません」
「ちょっと吹っ切れてきた?いいね、謝られるよりずっといい」

こうなればヤケクソだった。殴られてもいい、既に関係は拗れまくっているのだし、どうだっていい。そう思い始めたら態度も悪くなってしまい、けれど五条さんは本当に嬉しそうに頬を緩めるから腹が立った。ああもう、本当にこの人は昔から苦手だ。何を考えているのかさっぱり分からない。相手にするだけ無駄なのではないだろうか。この時間を鍛錬や任務に回した方がずっとずっと有意義に思える。

「まず信じられるはずないですよね」
「うん。それに関しては僕の自業自得だと思うし、弁解はしても反論はしない」
「何が本当なんですか?言われてもきっと信じないとは思いますけど、まあ、一応聞いておきます」
「全部だけど。なまえを信頼出来るのと、強くなったっていうのと、初めて会った時からずっと好きっていうの」
「……やっぱり信じられませんね」
「いいよ。ずっと言い続ける覚悟は出来たから」

吹っ切れたのは私だけじゃなく、あろうことか五条さんもだ。私が何を言っても、それこそ罵倒しようと五条さんは何も言わずに受け入れる気がする。面倒なことになった。嫌われていると思っていた方がずっと楽だったとすら思う。
五条さんを許せないのは本当である。私を弱いというのは別に良かった。強さを求め続け、一級術師になれたのはその言葉に囚われ縛られた上での結果だったから。まだ満足する強さではないけれど。これから先もずっと強さに執着するだろうけれど、それを私は良しとした。それでも、五条さんは好意の裏返しであったとは言え、私を貶める為に七海や灰原、推薦者に対しても口を出したのだ。それはどうしたって許せるものではなく、いつまでも胸に残る凝りになるだろう。他の何を未来の私が許したとして、それだけは一生許せない。
そもそも五条さんが私のトラウマの対象であるのに、トラウマに恋愛感情とか湧く筈がない。どこの少女漫画だ。小さい頃に見た嫌いな相手と結ばれる恋愛などあると思えないし、あったとしてもそれは両方のベクトルがしっかり互いを向いていないと成立しないだろう。
今日はとにかく色々あり過ぎて頭が痛い。話が終わったのならすぐにでも退散したいぐらいだ。五条さんの話を信じる信じないはともかく、私も考えを纏める為に一人の時間は必要である。ふと五条さんを見上げれば未だ緩んだ顔がそこにあって、私は顰めっ面を隠すこともしなくなった。

「なんですか?」
「こんなにいっぱい話すの初めてじゃん。嬉しくてさ」
「そうですね。基本的に五条さんは私を罵るか無視するかのどちらかでしたから」
「ん゛ん゛っ!!ほんとに包み隠さずになったね」
「それ、夏油先輩にも言われてました」
「っ、いや、……元は僕が悪いし、ウン」

目の前で人一人殺されたので現状で許せないのは僅差で夏油先輩の方ですね。口にはしなかったが、引き攣った顔をする五条さんに少しばかり胸がすく思いがした。五条さんの前で夏油傑の話をするのはこれで最後だ。踏み込んだ話を先にしたのは自分であるという自覚があるなら良かった。いや全然良くはないんだけど。

「帰ります」
「ン、送ろうか」

視線を逸らせば、随分と柔らかい声が聞こえて。無視して踵を返せば、後を追うように目隠しを戻した五条さんも着いてきて頭を抱えたくなった。勘弁して欲しい。貴方と並んで歩くのも、今の私には苦でしかないのだけれど。どうしてこういう時に七海も硝子さんもいないんだろう。七海、そうだ、今日の報告書を作らなければいけないんだ。すっかり忘れていた。五条さんが帰ってきているのだから、七海だって高専に来てくれているだろう。何処にいるのと連絡を一つ、直ぐに返ってきたそれには「自動販売機の前」の一言と、片手で缶コーヒー二本を持っている写真が添付されていて、七海手デカと関係の無いことを考えてしまった。

「用事が出来たので見送りは結構です。それでは」
「え、待って待って。露骨に冷たくなり過ぎじゃない?」
「気に食わないなら殴っても構いませんよ」
「好きな子殴るわけないでしょ」
「ハハ」
「真顔……」

どうにか振り切れないかと思ったものの、何だかんだ言いながら五条さんは着いてきてため息をこぼす。見えてきた目的の場所には七海と硝子さんが二人で話している姿があって、声を掛ければ二人は私を見、直ぐ隣に並ぶ五条さんを見てそれぞれ違う顔をした。七海は呆れたような面倒くさそうな顔をしており、硝子さんは訝しげな顔をしている。

「なんだ五条、その顔」
「んー、これはまあ、罰的な?」
「ふぅん、じゃあ私も殴ろっかな」
「なんで???」
「私の可愛い後輩を散々無下にした制裁も兼ねて」
「だから硝子だけの後輩じゃなくない???」

「どうぞ、ブラックですが。話は?」
「ありがと。最低ってことしか分からなかった」
「十分です。殴った甲斐が有りましたね」
「カッコイー」
「知ってます」
「自己肯定感高」

「すっきりしたか?」
「まったく。というか許せない部分ができました」
「ふぅん?……前は全部諦めてたのにな」
「硝子さんの言う通り、あの人はクズです」
「ははは、だろ」

私が硝子さんと話していると、五条さんが突如「ちょっと待って!?」と既にこちらに顔を向けた七海を引き留めるように声を上げていて、硝子さんと首を傾げる。七海はそれに応える気はないらしく、私に報告書の作成を兼ねて飲みに行こうと口にした。今日の任務はもう終了し、この後特に用事もないので了承すれば「僕も行く」と勢い良く五条さんが手を挙げ、それを見た硝子さんも「私も飲む」と手を挙げて笑う。正直五条さんは遠慮してほしい。というか嫌だ。どうやってかわそうかと考えていたら、隣に立った七海が「同期会なので」とピシャリと断った。強い。流石社会の荒波にもまれた男はひと味違う。
文句を垂れる先輩方を無視して歩き出した七海に、慌てて軽く一礼して追いかける。ブーイングを背に受けながら、七海を見遣れば誰かに連絡をとっているようで。

「誰か呼ぶの?」
「いや、煽り文もたまにはいいかなと」
「七海ちょっと悪質になったね」
「という訳で、後で飲んでる写真撮りましょう」
「言ったな。今度こそ七海のニヤけた顔撮ってやるからな」
「いくらでも」

居酒屋に突撃した私たちは報告書もそこそこに、さっそくお酒を飲めるだけ飲み、赤い顔のまま二人で写真を撮ったりした。心の底から楽しいと思ったし、灰原がいたらもっと楽しかったんだろうなぁと、どうしようも無い考えに少しだけ泣いた。写真は硝子さんに送り、翌朝返信を確認したら「交際した」と勝手に私と七海が付き合ってて笑ってしまった。

絞り祓う呪霊は呪力に寄せられて集まった恐らく三級から二級の複数体。目的の一級呪霊は歪な口を大きく開けたまま氷漬けになっており、終わったと肩の力を抜く。吐き出す空気は白息に変わり、背後から声を掛けられ振り返ればコートを羽織った監督さんがいて。安全を確認してから連絡すると言ったのになぁと、危機感の無さに白い額を指で弾く。肝が冷える行動はやめて欲しい。切実に。いつかのように怪我をさせてしまったら、私は今度こそ死にたくなってしまう。「守ってくださいね」と笑う監督さんに心配になりつつも、それだけ信頼されているのだと口角が緩みそうになってため息をついて誤魔化した。
呪霊を祓い安全を確認後、帳を解除した監督さんは思い出したように顔をこちらに向けた。

「新宿に来るように指示があったんです」
「私だけ?」
「はい。任務の後で大丈夫だからって」
「誰から?」

監督さんは何とも言えない顔で肩を竦めて見せ、私は首を傾げた。要件だけを伝えられたのだと言う。余程急いでいたのか名乗りもせず、けれど支給されている専用端末からの連絡だった為に高専の関係者ではあるらしい。この後は監督さんも別の任務があるらしく、私を送り届けた後は一度高専に戻ると告げられ、私は不思議に思いながらも頷いた。誰が、私になんの用があるというのか。
「お疲れ様でした」と走り去って行く車を見送り、指定された場所に向かうべく足を踏み出して、直ぐに気付いた。大勢に紛れるように、けれど確かにそこにある残穢。私に気付かせるように態とらしく見える場所に呪力の痕跡がベッタリと。しかもそれが誰のものかなんて、後輩である私には手に取るように分かってしまう。時間を置かずに目の前に現れるであろうその人に、焦りを落ち着かせるように深く息を吐き出す。嗚呼、誘い込まれてしまった。

「お疲れ様。デートのお誘いは了承ととるよ」
「……お久し振りです」

にっこりと笑顔を浮かべた夏油傑に、私は笑みを返すことは出来なかった。手の内に滲む汗を誤魔化すように握り締め、震えそうになる体を堪える。

「どうやってコンタクトをとったんですか?」
「酷いな、私もOBみたいなものだろ。連絡を取るなんて簡単じゃないか」
「そうですか。一度内部をきっちり調べるべきだと言うことがよく分かりました」
「はは、心配ないよ。もういないからね」

高専内部、又は術師と呪詛師が繋がっていると考えたけれど、夏油傑は笑って「いない」と口にした。痕跡を残さず行方をくらましたか、言葉通りの意味なら彼に殺されてしまったか。必要ならば殺す。前にそう言っていたのを思い出して静かに息を飲む。迂闊に動くことが出来なくなった。ここはあまりにも人が多く、彼の傍を通り過ぎる人を見る度に肝が冷える。いつその手が彼らに伸びるか、どうしたら夏油傑とここから離れることが出来るか、いくら時間を稼げばいいか。まったく、本当に呪霊よりも質が悪い。きっとそんな私の心情も分かっているだろう夏油傑は、笑みを浮かべたままこちらに手を広げた。

「迎えに来たんだ」
「お断りしたはずですけど」
「私は良い返事を聞きに来たんだよ」
「脅しですか?刺し違えてでも止めてみせます」
「悟がキレそうだなぁ」
「その人の名前出さないでください。最近地雷になりました」
「……え?私の知らない間にもしかして進展してる?」
「……これ進展になるんですか?」

ひやりとした空気は一瞬。私の地雷発言に気が抜けることを言う夏油傑に、こちらも純粋な疑問が湧いてしまった。
軌道修正。
良い返事も無いと改めて返せば、残念そうに伸ばした手が下げられていく。ハッキリ断ったというのに、夏油傑は逆上す る所か緩やかな笑みを浮かべたままで、その気味の悪さに眉を顰める。呪霊の気配は今のところ感じられない。

「困ったな、荒っぽいことはしたくないんだけど」
「これだけ人がいる所で騒ぎを起こせば、高専にも直ぐに知られますよ」
「そうだね。じゃあすぐ終わらせようか」

呪霊を顕現させるより先、夏油傑の周囲の人間を投げ飛ばす。悲鳴、動揺、怒号、受ける中傷などこれから起こることに比べればどうだっていい。周囲に人間がいなくなったことを確認してすぐに私たちを囲むように氷壁を作り上げ、次に帳を降ろす。目を丸くしてそれを見上げる夏油傑に僅かに口角を上げた。

「デートですよね。私以外見ないでくださいよ」
「ふ、熱烈だ」

いいよ、少し痛くしようか。そう言って呪霊を顕現させた夏油傑に息を整える。勝算などある訳が無い。
夏油傑は特級術師だ。等級はあくまでその人の実力を分かりやすく記した階級である。一級の上が特級とあるがその差はピンキリ。人は進化していく生き物で、強さの上限など正しく測れる筈もない。彼がどれだけの呪霊をその身に飲み込んだか、そうしてどれだけの人間を殺してきたか、きっと殺すことに躊躇いは無い。前方を遮る呪霊を祓い掻い潜り、飛び込んだ夏油傑の懐、根本を叩くべく振り被った腕は逆に掴まれ、呪霊の中へと投げ飛ばされた。襲いくる呪霊はまだ弱く、直ぐに印を結んで絞り祓う。低級呪霊の中に時折混ざった恐らく二級以上の呪霊に舌を打つのは仕方ないと思う。

「本当に人の嫌がることが得意ですね!」
「褒められちゃった」
「可愛くないですよ」
「残念」

悲鳴じみた音を上げる呪霊を夏油傑に向けて投げつけ、凍った呪霊の塊を足蹴に跳ぶ。飛んできた呪霊を叩き潰した夏油傑は、その背後から跳んだ私を見ても悠然とその場に立っていた。余裕な態度に腹が立ち、顔面を狙った拳は内側の腕を軽く払い躱され、体を捻って顎を目掛けて蹴り上げる。爪先が掠った。地面に足が着くより先、胸部を狙った掌底に咄嗟に体を丸め、庇った腕から胴体にかけてまで重い衝撃が走り呻き声が漏れる。撥ねられたように体は真横へ飛び、残った呪霊がクッションになって倒れ込むことは回避出来た。呪霊を祓い、燃えるように痛む腕に溢れた息が震える。肋の次は左腕を折られた。腕の周りの空気を絞り凍らせ固定させる、添え木の役割には不十分だが無いよりはマシ。困ったように眉を下げて笑う夏油傑は顎を擦り、軽く「痛いなぁ」なんて言うものだから頬が引き攣る。人の神経を逆撫でするのが上手すぎる。

「水分があれば本当に何でもアリって感じだね。その分、体力も呪力も削られてるみたいだけど、まだ慣れてないのかな?」
「いちいち腹立つこと言いますね」
「前に比べれば体の動きも随分良くなってる。ますます欲しいなぁ」
「あげません。私は私のものです」

上がりそうになる息を何とか鎮め、前を見据える。私の呪力量は桁外れという訳では無い。分相応。帳を降ろし、氷壁を作り、折れた腕を固定し、呪霊を祓う。呪霊を祓うのは苦ではないけれど、上記三つを維持するのは少しばかり疲れるものがある。私は短期決戦型なのだ。それを補う為に体術にも力を入れていたのだけれど。流石は特級、術式だけでなく体の作りも化け物みたいだ。
背後の呪霊を祓い走り出す。折れた腕で勝てる程この人は甘くない、なんなら術式が使える腕は残して足を切断するぐらいはやってのけそう。

「あまり時間を掛けたくはないな。こちらも準備があるし」
「まあそう言わず。邪魔が入るまでは私と二人きりですよ」
「その邪魔が問題なんだよね」
「っ、」
「私はここで殺し合うつもりは無いんだ」
「ァ゛ガッ!?」

容赦も遠慮もなく顔を狙った蹴りに後退することで威力を減らしたものの、脳震盪を起こしたようにぐるりと目が回る。崩れ落ちそうになった足を気力で持ち直し、叩きつけられた頬の痛みに口から血が出た。内側の頬が破れて血の味が広がり気分は最悪だが、歯が折れてないだけマシだと言い聞かせる。

「……、せんよ」
「うん?」
「出来ませんよ」
「……そうかな」
「今のあの人は貴方を止められても殺しは出来ません。口で殺すと言えても、体が動かないだろうから。知ってますか?友人を失うのって貴方たちが想像する以上に辛いものなんですよ」

その友達を手にかける事になるだろうあの人は、きっと私より重いものを背負うのだろうけれど。まだ心の整理がついていないだろうし、たぶん。いずれ来る彼らの本当の決別は、今この瞬間ではない。
荒い息はそのままに走り出そうとして、回る視界に膝をついた。思いのほか頭に強い衝撃が走ったらしく、酔ったような感覚に吐き気が込み上げる。嘔吐く私の耳に届いたのは、近付いてくる足音。やがてそれは目の前で止まり、私の顎を掴んだ夏油傑が濡れた視界に映り込む。笑みは無かった。

「殺せるよ、私も悟も。私の考えは変わらないし、悟も変わらない」
「ぁ、ぐっ、オ゛ェ……」
「私は君たちを救うために猿を殺すよ。けれど、邪魔をするなら排除するさ」
「……、や」
「なに?」
「クソ、や……ろ」

にっこりと、貼り付けたような笑みを浮かべた夏油傑の手で頬を強く打たれ。暗転。そうして、自身が倒れ伏すのと同時に何かが割れたような音、夏油傑の驚いた声。それらを耳にした後で私の意識は飛んだ。
微かに聞こえたのは誰かの鼓動。

「──……って決めてんだよ」
「うわ、付き合ってもない癖に重……」

目を開く。開いた視界に映ったのは嫌でも目立つ白髪と黒い服。ああ、やっぱりこの人が来るのか。
気を失っていたのは一瞬らしい。私の体を抱き起こす五条さんは夏油傑から目を離さず、ひりつく空気に頭が段々冴えてくる。気怠い体を叱咤するように大きく息を吸い込んで、激しく咳き込んだ。内蔵が傷ついているのか、咳き込んだそれに血が混じっていて、口についたそれを袖で拭い体を起こす。

「すみません、誘き出されて気を失いました。帳は、」
「降ろし直したよ。大丈夫、ちょっと騒ぎになってるけど死傷者はいない」
「そう、ですか」
「はいはい、怪我人は下がってな。おつかれさま」

死傷者はいない。その言葉だけで肩の力が抜けそうになった。直ぐに気を引き締め立ち上がろうとして、大きな手のひらが視界を覆い、背後の胸板に後頭部がぶつかった。あまりに自然な流れに手馴れてるな、と関係の無いことを考えつつその手を払い除ける。元より邪魔するつもりなどない。大人しく足を下げる私を一瞥した五条さんに、夏油傑は驚いたように目を見開いた。

「へぇ、本当に進展してる。話を聞いた時は半信半疑だったけど、何があったんだ?」
「え、気になる?教えてあげようか。大人しく捕まったらな」

そこからは戦争だった。言葉にすると単純に聞こえるかもしれないが、私の中でそれが適切だったというか。次元が違ったと言えばいいのか。帳が降ろされているとは言え、コレは本当に大丈夫なのだろうかと心配になってしまうぐらいには凄まじく。しかも私に被弾しそうになる度に五条さんが難無く庇ってくるので格の違いと言うものをまざまざと見せつけられた。チートもいい所だ。後ろに目がついてるのかこの人は。
不意に夏油傑の目がこちらに向けられる。警戒を解いていた訳では無い、構えを解いた訳でも。私が一呼吸置く間にブゥンと左側に音が響き、咄嗟に動かそうとした腕は折れた痛みで悲鳴を漏らす。小蠅程の呪霊が耳へと侵入する寸前、私を抱いて飛び退き祓った五条さんは、その頬に汗を垂らしながら無理やり笑みを作り夏油傑を睨んだ。

「この性悪っ、モテねぇぞ?」
「もうフラれたよ。それじゃあ、私は引かせてもらおうかな」

五条さんが夏油傑から離れたのはその一瞬。それだけで十分だった。外からの立ち入りを阻むだけの帳はあっさりと夏油傑の撤退を許し、足手まといになってしまったと体は強張る。私を抱えたまま無言で歩き出した五条さんの顔を見ることが出来ない。吹っ切れたなんて、どうやらそんな事は無かったらしい。

「あの、すみませ」
「はいはい、謝罪はいらないから。先ず硝子に診てもらうよ。腕、無理やり固定したでしょ。凍傷になりかけてんじゃん」
「ぁ、歩けますっ、大丈夫です。降ろしてください」
「そ?」

適当な相槌ながらもその手から降ろされ、お礼を口にしようとして振り返り五条さんの指が額に触れて。
気が付けば、硝子さんに見下ろされていた。ベッドの上で「は?」だの「え?」だの口にする私に、硝子さんは呆れた顔で「治したぞ」と一言だけ告げて背中を向ける。落とされたらしい。あの最強たちは一度は私の意識を刈り取らないと気が済まないのか。腹立たしいことこの上ないが、私を硝子さんに診せるにはそちらの方が手っ取り早いだろうと思ったんだろうなあの人は。

「すみません、本当に迂闊でした。まさか専用の携帯から堂々と仕掛けてくるとは。もっと私が念入りに調べておけば怪我をすることも無かったのに、本当にすみません。痛みとかありますか?」
「大丈夫だから。頭上げて」

頭を下げる監督さんを何とか宥め、あの後どうなったのかを聞いた。
私が降ろした帳は、咄嗟の事だったのもあり誰の出入りも許さないもので、一度気を失った瞬間、外で待機していた五条さんが緩んだ帳と氷壁を無理やり壊して入ったのだと言う。あの時聞こえた何かを割った音は、五条さんが氷壁を壊した音だったらしい。そうして夏油傑が逃げた数分後、五条さんが意識を失った私を抱え後始末を任せるとさっさと高専に帰ったと。新宿一帯に暗示の術を掛け、目撃証言その他諸々を隠蔽し、暫くは煩いかもしれないが何とか場を収めることは出来たという。
これは上の連中にこっぴどく絞られるかもしれないなと頭を抱えれば、監督さんがそれは無いと思いますと首を横に振った。

「どちらかと言えば私達側の問題ですから。加えて五条さんが上層部に口を利いてくれまして、此方も情報整理のために報告書を提出すれば大丈夫だと。幾つか向こうから質問はあると思いますけど」
「そっか。随分軽い処置だね、あんなに人目のつく場所だったのに」
「まあそれに関しては小言を言われるかもしれませんけど、気にしなけりゃいーんですよ!どーせ上司っていうのは言うだけ言って何もしないんですから!」
「どうどう、落ち着いて。誰が聞いてるかもしれない場所でそういうこと言うのはやめよう。疲れてるのかな?」

ふんすっと鼻息荒くそう言い切った監督さんに苦笑しつつ、きっちり繋がっている腕を見下ろし息をつく。良かった。また事務仕事をする羽目になると思っていたから、今回は見逃してくれたようだ。
監督さんと一緒に、仕事が残ってるからと出て行く硝子さんに改めてお礼を言って、扉の傍でずっと黙って待っていたその人に目を向けた。

「五条さん」
「なぁに?」
「捕まえられたかもしれないのに、足を引っ張りました。すみません」
「謝罪はいらないって言ったよね?」
「はい。態とです」
「……イイ性格してるなァ」
「……ありがとうございます、助かりました」

引き攣った口許に先程の腹立たしさは少し和らいだ。視線は合わせられなかったけれど、言えなかったお礼を口にすることは出来た。私はまだこの人が怖い。染み付いた恐怖というのは、そうそう克服出来るものでは無いのだと知る。

「僕、なまえが好きなんだよね」
「はっ、はぁ……存じております?」
「傑は殺す、けど、なまえが死ぬのは耐えらんない」
「……随分と、まあ。勝手なこと言わないでください。私は守られるためにあるんじゃない。あの人を殺すのに邪魔なら捨て置いてもらって構いません」
「多少の犠牲は仕方ないって考えは理解できるよ。でも体が勝手に動いちゃうんだからどうしようもない」
「罪悪感、贖罪。間違えてるんですよ、きっと」
「そう見られてるって内はそうかもね。ああでもさ、知ってた?僕って執拗い男なんだよ」

苦手だ。この人は、本当に。私が幾らその手、言葉、視線に臆そうと無遠慮に関わろうとして。僅かな躊躇いはあれど、結局近付いてくるのだから嫌になる。
ベッド脇に立った五条さんは私を見下ろして、私も漸く目隠し越しの視線を合わせた。握る手のひらに爪を立てることは無かった。

「貴方を好きになることは、きっと無いと思いますよ」
「だろうね。でもごめん。これから先、お前がどれだけ嫌がろうが殺しに来ようが呪おうが、僕はなまえ以外を見ることはないよ」

よくそんな重たい言葉を苦手に思われてる相手に言おうと思ったな。なんて、呆れてしまってため息をついた。これだけ言っても響かないのならもう好きにすればいい。この人の中にある罪悪感が薄れたら、私以外を見る余裕も出来るだろうし、その時まではこの人の戯言に付き合ってやろう。
それから暫く、話すことも無くなり黙り込む私に、五条さんは好物だの趣味だの休日の過ごし方だのと根掘り葉掘り聞いてきた。正直に言うと鬱陶しくて仕方ない。怖かったのは嘘をついた時だけ「本当に?」と聞き返してくるので、この人全部知ってて聞いてるのではないかと震えた。答えるのも面倒になってきた頃、不意に扉が開かれ顔を向ける。

「やっほー、七海。今日はもう終わり?」
「……何で貴方がここに居るんですか。上海に行くと聞いてましたが」
「緊急じゃないし、別に僕じゃなくても良さそうだったから別のヤツに向かわせた。アイツがいるなら僕が行かない訳には行かないでしょ」
「はぁ、そうですか」

入ってきたのは七海で、任務明けなのか少し頭髪が乱れていて、普段キッチリ着こなしているジャケットは今は腕に掛かっていた。ベッド脇に立つ五条さんを見て少し嫌そうな顔をした七海は、適当な相槌を打って私へと視線を向けた。

「見送りを家入さんに任されたので支度してください。帰りますよ」
「え、私一人で帰れるよ。めっちゃ元気だよ私」
「前回も今回もピンポイントで狙われていて何言ってるんですか」
「ぐうの音も出ない」
「七海が嫌なら僕と一緒にか」
「よろしく七海」
「……食い気味」

絶対に嫌だという意思が私にはある。けれどまあそこは流石デリカシー無し男(歌姫さん曰く)。断ったというのに普通に着いて来たし、私を家の近くまで送った後は上機嫌で七海と帰って行った。その時の七海の表情は死んでいたし、早急にまた同期会を開催しなくてはと思わず日程を確認してしまった。

「暫くの間、悟と行動を共にするように」
「異議あり!」
「異議なーし!」

先の報告書を提出し、上層部からの質疑応答を終えた数日後。呼び出された部屋には既に学長と五条さんがソファーに座っており、一人分空間を開けて五条さんの隣に腰を下ろした。そうして開口一番そう言われたのである。間髪入れず、思わず手を伸ばした私は何故だという意味を込めて学長を見た。愉快そうに笑う五条さんに構っている暇などない。私が納得できる理由を。今すぐに教えて欲しい。確かに付き合ってやるとは思ったがこういう意味じゃない。
学長は私の勢いに少しばかり驚きながらも、一つ咳払いして静かに夏油傑の名を口にした。

「各地に散らばっている窓や協力者の力を持ってしても居場所が分かっていない。完璧に行方を眩ませているアイツが二度もお前の前に現れたんだ。勧誘を目的として。偶然じゃない、傑はまたお前を狙ってくるだろう。今度は無理やり拐う可能性だってある。武力行使でかなう相手でないことは今回のことで理解出来たはずだ。現時点でまともに対抗できるのは悟だけ。言い方は悪いが、みょうじには傑を釣るための餌になってもらうという訳だ」
「……任務はどうするんですか。一級と特級が組んで任務をこなすなんてあまりにも非効率的です。大体、また私を狙って来る確証なんて無いでしょう」
「必要がある時は分かれて行動するよ。それ以外は僕の任務を手伝ってもらう。確率五割なら賭けるでしょ」

広げた手を振って笑う五条さんに、学長は同意するように頷いて。理解した。この話はとっくのとうに済んでいるのだ。私が今更何かを言ったところで学長は一切耳を貸さないだろう。
今日の任務だ、と学長自ら手渡してきたそれを受け取る五条さんの隣、肘掛けに寄りかかり頭を抱える私は深く重いため息を吐き出した。任務が、いや夏油傑を捕まえる為に仕方ない、けれど五条さんである必要は、他の術師では、太刀打ちできないのか、そうか……そうかぁ。

「……五条さん、一人の方が術式使いやすいんですよね」
「のびのびやるのはね。でもまあ滅多なことがない限りそんな機会ないし」
「……もし遭遇したら直ぐに連絡を取れば」
「前回といい今回といい、肋も腕も折られてんだよ。次、死なない可能性なんて無いでしょー」
「……やっぱり、」
「公私混同しない。分けて考えなよ」

パラパラと書類を捲り、そう言った五条さんにハッとする。
そうだ。これは仕事で、私の我儘で周りに迷惑をかけるなど以ての外。なんなら特級である五条さんの任務を手伝えるなら、それは私の強さへと還元されると言ってもいいのでは。一度大きく息を吸い込み、深く吐き出す。感情は捨て置け。今は強くなる為だけに頭を回せばそれでいい。
仕様もないことを言ってすみません、と居住まいを正して振り返り。人一人分を開けていた筈の距離をきっちり埋めたそこに、五条さんの顔が目前に迫っていて、悲鳴も上げられずに飛び退いた。震える体は力が抜けて、背を壁につけてへたり込む。本当に、本当にこの人は何がしたいんだ。公私混同するなと言ったのは自分の癖に馬鹿なんじゃないか。

「胡瓜見て飛び跳ねる猫みたい、かぁわいっ」
「が、眼科行ってください……」
「生憎、目が良いんだよね。それにほら、今仕事中じゃないし」
「うわ……」

苦手だ。苦手過ぎて吐きそうだ。助けて七海。誹謗中傷、暴言の嵐だった五条さんは一体どこに行ったんだ。もしや知らぬ間に別次元に来てしまったのでは、なんて馬鹿な事を考えてしまうぐらいには五条さんの変わりようったら酷いもので。この人の罪悪感が薄れるまで、なんて悠長なことを言わずに無理やりにでも海外支部に駐在した方が良いのではないか。いや駄目だもしこっちに来た時の逃げ場所(七海or硝子さん)がない。
ぐるぐると纏まらない考えに眉を顰める私を気にせず、五条さんは書類片手に腰を上げ「さて」と伸びを一つ。

「任務行こっか。二人って事もあって結構過密スケジュールになってるから、さっさと終わらせるよ」
「……、はい。よろしくお願いします」
「ウン、背中は任せたよ」
「私の手に負えるものじゃないですね」

切り替える。伸ばされた手を一瞥して立ち上がり、裾に着いた埃を払う。残念そうに降ろされた手に息を零し、先を歩き出した五条さんの後に続く。今より少しでも強くなる為に、一人でも多く私の手が仲間や非術師を救えるように、血反吐を吐いてでも強くなる。私の幸福な死は、きっとそこにあるのだから。

「終わったらご飯食べに行こうよ、奢るからさ」
「他の方を誘ってください」
「僕、好きな子と行きたいんだけどなー?」
「私にとっては拷問ですので」

海外支部の方は真面目に検討した方がいいかもしれない。


to be continued……?