■ 信任に値する人物であるか?

私は強くなった。らしい。一級呪術師である訳だから、それ相応の力があるのは分かっている。努力に芽が出だしたというところだろうが、手放しで喜ぶことは出来なかった。だって、そう、強くなったと私に言ったのが五条さんだからである。あの最強である五条悟が、何回でも言うが「弱い」と言ったあの人がだ。正直なところ素直には受け入れ難い。あの時の私は、硝子さんがやったとは言え誰が見ても重傷患者というナリであったし、精神的に参っていたのは五条さんもよく分かっていただろう。らしくもないアレは私の背を蹴るよりは鼓舞した方が将来的に見ても良いという判断だろうし。実際それで随分と救われた気がしたのだから、五条さんはやっぱり凄い人だなと思う。人の動かし方をよく理解しているというか。

「盾が減ると困りますしね」
「……それ、五条の前では言わない方がいいよ」
「え、はい……。分かりました」

怪我の経過を診てくれている硝子さんに笑ってそう言えば、苦虫を噛み潰した顔をして私の頭を撫でた。
骨は無事に繋がった。打撲や裂傷等もとうに消えており、任務復帰に鍛錬もまた再開できると頬が緩む。人手不足だと言うのに、硝子さんは何故か完治することをせず、中途半端に治して「一ヶ月休め」と高専にある医務室に缶詰にしたのだ。その間任務も鍛錬も禁止され、暇なら報告書整理を付き合えとこの一ヶ月は事務に徹していたのだ。私は事務職には向いてないなと心底思う。加えて、何故か慣れない事務処理におわれる私の元へ、暇が出来たからと五条さんがやって来るのである。胃が痛くなったのは気の所為ではない。何処へ行こうと必ず目の前に現れるから、諦めて出来るだけ人が多い所で作業するようにしていた。

「そこ、書き方違う。もっと細かく見なよ、なんの為に目玉が二つあると思ってんの。事務も出来ないわけ?」
「すみま」
「私の後輩に舐めた口叩くクズはコイツか」
「アーッ!違うって今のは気が緩んでた!こっち見てくれないから!!口がスライダーしたァ!!てか硝子だけの後輩じゃなくない!?」
「殺すぞ。アイツは気にしなくていいから、休憩するか?」
「いえ、平気です。すみません、遅かったですね。すぐ終わらせます」
「………………五条」
「アッハイ」

震えそうになる手でペンを走らせる私に、五条さんはいつも通りの暴言を吐いていたのだけれど。大体は硝子さんが言葉をかけてくれたし、硝子さんの呼び掛けに五条さんがその大きな体を縮こまらせて二人で部屋を出ていくのがよく見られた。部屋にいた伊地知くんや新田さんに「大丈夫ですか」と心配される事も常である。別に、間違ったことは言われていないから大丈夫も何も無いんだけれどなぁ。
まあそんな感じで、一ヶ月の事務は何とか無事に終わった。任務の復帰当日、準一級と二級呪霊の同時討伐という肩慣らしには丁度良い任務で。

「ただいま」
「あ、おかえりなさァァァ!?なんですかァ!?その怪我はァ!?」
「怪我……。ああ、これはちょっと鈍ってた分が出ただけだから、見た目より浅いよ。少しずつカンも取り戻してるし、十分な出来だ」

討伐後、監督さんの元に帰ってきたら真っ赤に染ったお腹を見てたいそう驚かれた。殆ど返り血だから気にしないで欲しいんだけどな。

「何言ってんですか!!せっかく骨治ったって言うのに、今度はお腹に穴開ける気ですか!?また家入さんに缶詰にしてもらいますよ!」
「いや、本当に見た目より平気なんだよ。ちょっと横に切れてるだけ」
「女が!平気で!残るような傷を!作るんじゃありません!!」
「今日テンション高くない?あと術師やってたら傷痕ぐらい誰でも残るよ」

服を捲らされ、的確に応急手当をしていく監督さんに苦笑する。傷痕なんて今更だろうと言えば、監督さんはぐっと堪えるような顔をした後で「分かってますよ」と唇を尖らせた。言葉通り、彼女も分かっているのだろう。呪霊と戦い、死なずに帰ってくるだけでも御の字。原型もなく、或いは跡形もなく消える事例だってあるのだから、怪我ぐらい予想出来る範疇だ。そりゃ私だって中身が出たら流石にヤバいなとは思うが、今回は外側だけだし。

「次の任務、行こうか」
「はい、次は一級呪霊の討伐です。数は一、寄せられた三級呪霊が複数。場所は横浜、貨物船の港倉庫内。死者は出てないですけど怪我人が二名。いずれも、」

車に乗りこみ、任務内容を読み上げていく監督さんの声を聞きながら目を閉じる。一ヶ月、失った時間はどうしたって取り戻せない。強くならなくては。私はまだ弱い。今でもまだ助けられなかった人や、目を閉じた灰原の顔が思い浮かぶ。唇を強く噛めば、切れたそこから血の味がした。
着々と感覚を取り戻し、一週間も経てば以前と何ら遜色ないほど動きも良くなった。疲労が溜まれば寝て、任務が無ければ鍛錬に励み、私はまた各地を点々としながら呪霊を祓っていく。元々任務を受けるのに高専に寄る必要は殆ど無いため、私が復帰すると同時に高専に戻ることはまた少なくなった。自然、術師と教師を兼業している五条さんと顔を合わせることは少なくなるし、海外まで出張がある私たちがすれ違うことも無い。筈なのだけれど。

「お、お待たせしました。今日はすみません、補助監督が出払っておりまして……」
「大丈夫。近くに送ってくれるだけありがたいよ」
「ハイッ!安全運転でお送りさせて頂きます!」

術師が人手不足ならば補助監督も同様だ。術師が一つの車で別々の場所に送り迎えされるのはよくある事で。伊地知くんが汗を拭き目線を泳がせながら言うものだから、安心させるようにそう言ったのだけれど、余計に緊張させてしまった。後部座席をちらりと見遣る。久方振りに見た五条さんの姿に、見えないように後ろに回した手を強く握った。よし。

「お疲れ様です、五条さん。隣、失礼してもよろしいですか?」
「ウン」

本当は助手席の方が良かったけれど、伊地知くんが何故か異様に緊張しているので仕方なし。助手席の後ろに座る五条さんの反対側に座り、不自然に見えないように顔を窓へ向けた。伊地知くんの声を合図に車はゆっくり発進し、窓の向こうの景色は流れるように切り替わっていく。別段、話すことは何も無かった。そうして車に揺られること約二十分。静かな車内に響く着信音に視線を巡らせる。伊地知くんのスマホから鳴っているようで、彼は「すみません」と何度か謝りながら車を停めて外に出た。別に車内で電話してくれてもいいんだけどな。

「……次の任務、場所は?」
「ぇ、っと、名古屋です。新幹線のチケットはあるので、それで」
「そう。今日はそれだけ?」
「……はい。その、平気だって言ったんですけど、まだ二件以上の任務は受けられなくて」

硝子さんか誰かが何か言ったのか、私に振られる任務の数は前より格段に減った。心配されているのは分かってはいるけど、心底自分が情けなくなったし、肉体的にも精神的にもさらに強くならなければと気を引き締めていたのだ。五条さんに言い訳するような返し方になってしまった事にヒヤリとしつつ、膝の上で重ねた両手を見下ろして強く握り込む。喉が絞まるような嫌な感覚だった。

「……ぁ、違う違う!別に、僕より少ないなぁとかそういうんじゃなくて!そりゃ最強の僕とよわ、くない、お前じゃ振られる任務に差があるのは当然だし!?もっと頑張れよとかじゃなくてね!」
「はい。もう申請は受理されたので、来週からはまた複数任務を受けられます。五条さんの足元にも及びませんけど、今まで以上に頑張ります」
「待って申請?受理された?嘘だろ、僕めちゃくちゃ我儘言ったんだけど」
「わがま……?何でか渋られたんですけど、私も引かなかったので」

一級呪術師が骨が折れたくらいで長期間休むなど、少なくとも私個人は有り得なかった。他よりは丈夫だと思うし、骨は折れても術式は使える。こういう時に融通の利く術式で良かったと思う。死ななければいいのだから。
申請書を持っていった時、物凄くシワシワの顔で渋る様子を見せた事務員を思い出す。ちょっと笑ってしまった。けれどまあ五条さんの反応を見る限り、上に何か言ったのはこの人らしい。きっと怪我人が無駄に現場を走り回るのが嫌だったとかそういう事だろう。邪魔になるし。うん、考えとしては安直だが、間違ってはないと思う。

「ウン、無理してるって感じには見えないし……。それなら、まあ」
「多少の無理は許容範囲です。この一ヶ月で随分鈍りましたし」
「……そっか」
「弱いままじゃ誰も守れませんから」
「なまえは強いよ」

ハッキリとした言葉に思わず顔を向けた。目隠し越しでも分かるほど真面目な顔をしていて、ちゃんと顔を見るのはいつぶりだろうと関係の無いことを考えてしまう。そっと、機嫌を損なわせないようにゆっくり視線を外し、固まった頬を動かす。爪が手のひらに食い込んだ。

「……ありがとうございます」

視線は合わせられなかったが笑って言えた。信じられる筈がない、けれど、この人の言葉を否定する勇気もなく。五条さんは何処か呆然とした様子で、直ぐにその手がこちらに伸びて背筋が凍る。おかしいな。怖くなくなった筈なんだけどな。何でか分からないけど、学生の頃のような怖さを感じてしまう。固まった私を見てか、五条さんはピタリと動きを止めて何もせずに手を下ろした。今、この人がどんな顔をしているのか想像もつかない。見ようとも思わない。きっとまたあの冷たい表情をしているだろうから。
それから数分もしない内に伊地知くんが戻って来た。運転を再開した後は会話もなく、五条さんは誰かと連絡をとっていて、私も任務の確認をと預かっていた資料を読んで時間を潰した。呪霊を相手するよりずっと疲れた気がする。
準二級呪霊の討伐。祓う。一級呪霊一体の討伐。祓う。一級相当の呪物の捜索。発見後、回収。準一級、一級呪霊同時出現の討伐。祓う。祓う。祓う。自分で希望したとはいえ、容赦ない量を持ってくるなぁと笑ってしまった。それだけ人の淀みが溜まる時期なのだろうけど。

「もしもーし、聞こえる?」
「……は?」

いつの間に眠っていたのか、夢を見た。すぐに夢だと分かった。灰原がいたから。私の知らない少し大人びた格好をしているけど、笑う顔は学生の頃のままで。あまりにも幸せで残酷な夢に泣いてしまった。生きていたらこうだったかもしれない、なんて、想像の彼だと分かってしまうから。しゃがみこんで泣く私の頭を、灰原は仕方なさそうに笑って撫でてくれる。優しいんだ、私の大好きな友達は。

「みょうじはさ、会いたい人っている?」
「いま、いま会えた」
「ははは、僕じゃなくてさ」
「灰原に、おかえりって、言えてないんだよ」
「……うん、ただいまって言えてないなぁ」

目を細める灰原は夢だと分かっていても、私が勝手に想像している姿だとしても、妙にリアルで。本当に、このまま目覚めなければいいのになんて思ってしまう。

「でも体戻って来ただけでも凄いよね!?」
「七海にしばかれろ」
「たぶんしばかれるのはみょうじだと思うよ」
「……どういうこと?」

離れた手を咄嗟に掴んで顔を上げる。ぼやけた視界ではハッキリと灰原を見ることは出来なくて、慌てて掴んだままの手に縋り付く。都合の良い夢ならもう少しぐらい猶予はあってもいいだろう。まだ暫くはこの夢の中で灰原と話をしていたい。そうは思うのに、視界はどんどん白く塗り潰されていって、掴む手の感覚だけが頼りで。灰原。思わず名前を呼べば笑い声だけが聞こえた。すり抜けていくそれに吐く息が震え、手を伸ばす。

「はいばら」
「……残念ながら、灰原はいませんよ」
「……、なんでいるの?」
「さあ、なんでかな」

伸ばした手を掴んだのは、見慣れぬスーツを着た七海で。頽おれる私を片膝を着いた七海が抱え、反対の手には見慣れた彼の獲物が握られていた。

「……七海、」
「はい」
「ありがと」
「……はい」

私の代わりに七海が呪霊を祓ったのだろうと察した。薄く笑う顔を見上げ、私も小さく笑った。
幻術を操る呪霊だったらしい。その人が今一番会いたいものに夢の中で出会わせ、その人について行く事で死に至らしめると。何とも幸福な死だなと内心笑ってしまった。笑い事では無いのだけれど。ああ、それにしても、私はまた任務に失敗したのか。吐く息は重く深い。弱いなぁ、弱い。強くなることが難しいことなんて分かっているのに、道程が険し過ぎて嫌になってしまう。不意をつかれたからとか、疲労が溜まっていたからとか、そんなものはただの自己管理でどうにでもなる事だと言うのに。
外傷はないものの、健診も兼ねて高専に戻って来た。特に異常もなく解放され、休憩スペースで今回の報告書作成の為に書類と向き合っていれば、同じく医療班から開放されたらしい七海が前の席に座る。

「ちょっと老けた?」
「みょうじは窶れましたね」
「前より綺麗だーとか言わないんだ」
「それは以前から思ってましたので、特には」
「……慣れてる男の言い方だ。カッコイイ」
「はいはい」

「呪術師はクソ、でも労働もクソです」
「えぇ……。まあ世知辛い世の中ではあるけどさ」
「けれど、人に感謝されるのは存外悪い気はしませんよ」
「あ。ははは、そっかぁ。そうだねぇ」

「ねぇ、七海」
「なんですか?」
「私、ちゃんと七海のこと守れてた?」
「十分な程に」
「……わたし、弱くなってない?」
「……分かりました、五条さんは殺しましょう」
「七海サァン!?」

あまりにも突拍子も無い言葉に思わず声を上げてしまった。何故そこで五条さんの名前が出てくるのか。席を立とうとする七海の腕を掴み、何とか思いとどまってもらう。いきなりそんな術師界を壊滅させるような事を言うんじゃない。どこか納得のいかない顔で座り直した七海に戦々恐々としながら、改めて「おかえり」と零す。少しの間の後、七海はまた小さく笑って「ただいま」と返してくれた。七海が帰ってきた理由は聞かなかった。なんとなく理解出来たし、七海も話そうとはしないだろうから。
報告書も出来上がり、あとはサインだけだという所で七海が唐突に口を開いた。

「実は五条さんにみょうじとの関係の修復を手伝えと言われてるんですよね」
「は?」
「実は五条さんにみょうじとの」
「いやワンモアじゃなくて。なんの冗談?笑えないけど、ドッキリかなにか?」
「術師に戻る算段をつける代わりに、仲を取り持ってくれと」
「……あの人が?嫌いな相手に対して?どういう心境の変化?」
「そこは是非とも自分で聞き出して欲しいですね」

肩を竦めた七海はそう言って、出来上がった報告書を持って部屋を出て行ってしまう。とんでもない爆弾を落とされてしまったなと、フリーズした頭はそんな感想を零した。
いや冷静に考えてそんな訳ないだろう。業務をこなしながらふと我に返る。五条さんからしたら私は体のいいストレスの捌け口、雑務をこなす後輩、弱い術師、そういった所だろうに。あの人が私に対して何か思う所があるとすれば、数々の暴言集を自身の生徒達にバラされたくないとかそういう事ぐらい。別に言うつもりは毛頭ないけれど。七海の聞き間違いとかではないだろうか。あの七海に限って聞き間違いとかあるのかと思うけれど、七海だって人間だし、誰しも聞き間違いの一つや二つあるというもの。そもそも、今更五条さんが私と仲を深めたところで何があるというのか。私には御三家のような権力もなければ、特別な力も無い。必要ならば命令があれば動くし、態々そんな面倒なことをしなくてもいいのに。
呪霊を祓い、脱力して深く息をこぼす。一人で考えたところで埒が明かないのは十分理解している。けれど、だからって本人に聞いても、また強く当られるかもしれないし。結局のところ私はあの人に関しては怯えて何も出来ないのだ。少し前ならば、ただ純粋に私のことを嫌っていると思っていたから、面倒だなぁと済ませることが出来た。今はなんだか、前と少し違う。慣れない気遣いを向けてくれているのは気付いていたし、無遠慮に詰めていた距離を少し開けるようになったし、何より言葉が随分と優しくなった。いやまあ時折凄いことを言われたりする時もあるが、そういう時は決まって最後にスイーツの名前で終わる。意味が分からないと思うが、私も意味が分からなかった。実際に言われたのは「弱い上に愚図って本当に救いようがないよねプリンアラモード」とか。あの人なりの優しい言葉みたいなものなんだと思う。確かに甘い言葉ではあるけど。とまあ考えると前とは大違いなんだけれど、怖いものは怖いのである。なにか裏があるんじゃないかと思ってしまうから。

「裏も何もアイツは変わらないよ」
「……つまり学生の時と同じって事ですか?」
「まあ。相互理解しろとは言わないけど、なまえも怯えたままじゃなくて歩み寄ってみな」

任務後のお土産を渡すついでに相談したら、硝子さんは思っていたよりスパルタだった。頭を撫でる手つきは優しいのに、言葉に優しさを感じられない。文句を言えば「甘やかしてきただろ」と笑われた。御尤も。

「えー、五条さんですか?裏があるというか、胡散臭いって方が合ってる気がします」
「……それ本人に言ったことある?」
「ないですないです。私そこまで命知らずじゃないです」

別件の任務にあたる監督さんは資料に目を通しながらカラカラと笑う。この子本当に大物だな。気をつけなよと言葉をかければ「そっくりそのまま返します」とムッとした顔をされた。

「えっ、その、私がどうこう言うつもりは無いですけど、みょうじさんの前だと随分と丸くなるというか、借りてきた猫みたいな感じでして」
「私と話す事無いから大人しくなってるだけじゃない?」
「無いですね。アレは確実に……、いえっ、これ以上は私が殺されるっ!」

報告書を提出するついでに、休憩していた伊地知くんの隣に座り聞いてみる。青褪めた伊地知くんの背中を撫でてやれば余計に怖がられた。何故。ペコペコ頭を下げて走り去っていく伊地知くんを見送り、帰ろうと振り返って見慣れぬスーツに顔を上げる。呆れたような顔をした七海がいて、首を傾げれば「送ります」と有難い言葉が降ってきた。

「車買ったの?」
「会社で使うこともありましたし」
「そっか。ねぇ、七海」
「なんですか?」
「私、五条さんと話すべき?」
「そうですね。その方がお互いのためになるでしょう」
「なるかなぁ。……でも、うん、頑張るよ」
「何か言われたら私が息の根を止めます」
「……知らない間に過激になったね」

笑って七海を見上げれば、七海は目を細めて小さく口角を上げた。
とまあ、私がこうして意気込んだ所でお互い多忙を極める術師であるし、なかなか話をする機会などなく。せっかく押された背中も思わず丸くなってしまうというもの。おまけに教職に就いている五条さんは私よりもかなりハードスケジュールで、切っ掛けというものは掴めないでいた。
そうしてとある日、非術師が呪霊の蔓延るビルに閉じ込められたという、そこそこ緊急を要する任務が舞い込んできた。討伐に加えて保護も必要になってくるため、七海との合同で捜索に当たることになった。非術師は基本的に呪霊の姿は見えないし、触れることも出来ない。興味本位でそういった場所に赴いて痛い目を見るのは、きっといつの時代でも変わらないのだろう。営業休止中の看板が提げられたビルに帳を下ろし、隣に並ぶ七海と私は多分同じような顔をしていた。

「痴情の縺れとか凄そうだしね」
「対象は二人、手分けしてさっさと済ませますよ」
「うん。変死体が出たラブホテルだって言うのに、人の興味って本当に侮れないよね」
「……ハァ」

ため息をこぼした七海は、三時間五千円等と書かれた看板を見て続けてさらに深いため息をこぼした。
七海は上から、私は下からワンフロアずつ潰しながら呪霊の気配と非術師を探していく。と、二階の角部屋で男の悲鳴が聞こえてすぐに駆けつければ、呪霊に襲われている男の姿に僅かに肝が冷えた。大きく裂けた口で丸呑みにしようとする呪霊を先ずは蹴り上げ、男の首根っこを掴んで呪霊から距離を取る。よし、生きてる。腰を抜かしたらしい男に腰に縋りつかれ、動きづらいなと内心ため息をついた。呪霊は三級だったらしく難無く討伐することが出来、男を外に連れ出し七海と合流しようと中に入り直そうとして縋りつかれた。置いていくなと泣かれ、外は安全だからと宥めても震えて私の腕を離さない男に眉を寄せる。まあ七海ならすぐに片付けて来るかなと、仕方なく男の傍にいてやる事にした。聞けば一緒にいたらしい女性は、呪霊と遭遇した瞬間に置いて逃げたらしい。ううん、情けないな。私の考えを察したのか、腕を離してツラツラと言い訳を並べる男に適当に相槌を打って時間を潰した。それから少しして呪霊の気配が消えた。予想通り直ぐに終わったなと息をつき、気付かれぬように帳を解く。
七海から気絶した女性が起きてから合流すると連絡が入り、未だそわそわと落ち着きのない男に声を掛けて喫茶店に入る。怪我もないようだし、殺されそうになったのだから、今後はああいった場所には近付かないだろう。女性からの連絡を待っているらしい男はチラチラと携帯を見、ちゃんと好きではあるんだなと運ばれてきた珈琲に口をつけた。

「これに懲りたらこんな場所に来るのはやめなさい。次、命があるとは限らないから」
「……本当に、ありがとうございました」

頭を下げる男の顔色はまだ青く、思っているよりも深く反省しているらしかった。
女性が意識を取り戻したと連絡をもらい、現在地と外で待っている事を告げて席を立つ。会計を済ませて外に出た所で、地方土産のショッパーを提げた五条さんと鉢合わせた。驚いた。数日前に出張だと聞いていたし、何故こんなところにいるのだろうか。

「五条さん、お疲れ様です。お帰りで」
「強くなりたいっていうくせに、非術師と遊んでる時間はあるんだ」
「は?」

驚きつつも挨拶をと思った矢先、要領の得ない言葉に困惑する。そんな私と背後で何がなにやらといった顔をしている男を交互に見、五条さんは笑う。空気が重い気がする。ああ、これは、嫌だ。思わず握った手のひらに爪を立てる。

「任務だって聞いて見に来たけど、まさか公私混同してるとは思わなかったなぁ。僕があの時強くなったって言って安心でもした?嘘に決まってるだろ。お前が弱いのは自分が一番理解してるんじゃなかったっけ。一人守れたくらいで満足して慢心するから目の前で人が死ぬんだよ。七海が帰って来てから随分甘くなったよね、ちゃんと鍛えてんの?それで非術師を守れる?本当にそんな甘い考えで盾になるの?浮ついた気持ちでやってんなら邪魔にしかならないから。迷惑だよ。怪我も前より増えたって硝子から聞いた。幾ら治せる人がいるからってお前だけを見てるわけじゃないし暇じゃない、危機管理能力が低下してんじゃない?まあそりゃ男出来たら考えが緩むのは仕方ないよ。でもそれで周りに迷惑掛けてちゃ世話ないだろ、キッチリ分けて考えなよ。大体強くなりたいとかって言う割には進歩が感じられないんだよ。鍛錬とか手ぇ抜いてんじゃない?そりゃ弱いまんまでしょ。それでよく一級になれたね、推薦した奴の見る目なかったんじゃない」

久し振りの感覚だった。身が竦む、呪霊を前にした時とは全く違うそれ。乾いた喉は何か口にすることもなく、ただ短い呼吸を繰り返すのみで。背後で狼狽えている男には申し訳ないが、私もこの人の前では為す術がないのだ。怖い。震えそうになる体を何とか押し止めながら、ただ静かに俯いて終わるのを待つ。そうして、私がいつまでも胸に抱えていることを、

「お前が代わりになれば良かったのにね」

この人はとどめのように突き刺してくるのだ。
誰とは明言しなかった。けれど分かる、分かってしまう。息を飲む。瞬間熱いものが込み上げてきて。駄目だ。泣くな。泣くな泣くな泣くな。立てた爪に力を入れ過ぎたらしく、じわりと血が滲む。
代われるのなら、すぐに代わりたいと今でも思っている。夢の中で見た笑った顔が頭にこびりついて離れない。

「……七海?」
「術式を解いてください。まずはその使えない目、潰します」

五条さんの困惑した声に顔を上げたら、振り被ったらしい拳を無下限に阻まれている七海がいた。見たことの無い怖い顔をしている。そんな一触即発の空気を破るように、七海の背後から女性が声を上げた。そのまま私の背後にいた男性に走り寄り、私達もそっちのけで喧嘩しだして目を丸くした。七海は毒気が抜かれたように拳を下ろし、五条さんを無視して男女に声を掛ける。

「怪我は無いようですが、違和感があればすぐに先程渡した番号に連絡を。今後は二度とああいった場所には近付かないようにしてください」
「はい、ありがとうございますっ!ほら、アンタも言いなさいよ!」
「叩くなよ!あのっ、助かりました!ありがとうございました!」

そう言って喧嘩しながらも寄り添って背中を向けた二人に、いつの間にか止めていた息をこぼした。ぼうっとする頭で街中に消えていく背中を眺めているとバサリと音が。次いで、強い力で腕を引かれて振り返る。私を見下ろす五条さんに、全身が引き攣るのが自分でも分かった。触れられた腕が、酷く冷たく感じる。

「さっきのっ、」
「ぁ、すみません。五条さんがどう思っているのか十分なほどに分かりました。すみません、わたし、報告書の作成があるのでっ。は、離してください、ごめんなさいっ、すみません」
「違う。待って。お願いっ、聞いて」
「やめてっ、ください。もういいですからっ」

「みょうじから離れてください」

力が強過ぎて振り解くこともできず、更に距離を詰めてくる五条さんに息を飲み。途端耳に聞こえたのは安心する声で。一気に力の抜けた手から私を引き剥がして背に押しやった七海は、今日一番の深いため息をついた。

「先に帰っていてください。私は五条さんと話をしてから向かいますので」
「七海っ」
「黙りなさい。貴方には言いたいことが山ほどあります。これに関して私は引くつもりは毛頭ない」

七海はそれだけ言って私の背を押した。少し気が引けたけれど、私がここにいても何もすることは無い。結局私は五条さんと目を合わせることも無く、逃げるように高専へと帰ってきた。
弱いのなんか私が一番理解している。けれど鍛錬を疎かにしたことは無い。動くなと言われたあの一ヶ月は確かに何も出来なかったけれど、それをカバーするように復帰後は任務も鍛錬もこなしていた。弱い。救えなかった人はいる。私の判断が遅くて目の前で死なせてしまった人もいる。救える命は自分がどれだけ大怪我をしようとも救おうとした。弱い。灰原だったら。灰原だったら私よりもずっとずっと強くなって、七海とも良いコンビになって、もっと沢山の人を救えるんだろう。何故、私がここにいるのだろう。弱い。
大きく息をついて、これではいけないと首を振る。逃げ込むように入って来た私を、硝子さんは邪険にすること無く「好きなだけ居るといい」と言って席を立った。何も聞かれなかったのは有難かった。言うつもりもないけれど。五条さんの言う通りだ。硝子さんだって暇じゃないのだから、ここに来るのも控えた方がいいな。酷く情けない顔が鏡に写って、頬を持ち上げて笑顔を作る。大丈夫、まだ私は笑える。人を守って死ねるなら、それは私にとって幸福な死だ。
ガタンッとけたたましい音がした。今日は驚くことばかりだ。目隠しを外して息を切らせた五条さんが、扉に体を預けるようにして立っていたから。頬を赤く腫れ上がらせていて、七海と何かあったのかと口を開こうとして「ごめん」と聞き慣れない言葉に耳を疑った。

「言っちゃいけないこと言った。お前に、許されないこと言った。思ってないこととか、意味分かんないこと口走った。ごめん、許さなくていい」
「……」
「本当に、ごめん」

硝子さんや監督さん、伊地知くんの言葉を思い出す。七海の言葉も。話し。そう、私は五条さんと話をしなければいけないんだった。お互いのためになるって言われたから。けれど、今目の前にいる五条さんとさっきの五条さん、私にはどちらがこの人の本音なのか分からない。口ではなんとでも言える、行動だって意識すれば何だって。私はこの人の真意を見抜くことなど出来ない。きっとそれはこれからも。もういいのではないか。相互理解、歩み寄り、本当に必要だろうか。ただ同じ学校の先輩後輩で、同じ術師になったと言うだけの、挨拶を交わす程度の他人ということでは何か問題はあるだろうか。
ストンと腑に落ちる。一気に視界が晴れたような気がして、自然と笑みを浮かべることが出来た。

「気にしてませんよ」
「……あ」
「五条さんも、気にしないでください。まだ報告書を書き終えてないので、これで失礼します」

怪我の具合も気にはなったが、硝子さんもすぐ帰ってくるだろうしと隣を通り抜ける。私は他人を治せる術式など持っていないし、そもそも五条さんは反転術式が使えたはずだろうし。暫し疑問に思いながらも、頭は直ぐに残りの必要事項の記入について考え始めていた。
廊下に出てしばらく、ダンッと床を蹴る音と共に腕を掴まれ。

「待っ、て」
「え」

緩く、けれど振り払うには強い力だった。まさか追いかけてくるとは思わなかった。あの時はこんなこと無かったから。見上げれば、情けなく表情を歪めた五条さんがいて目を瞬かせる。碧い瞳が揺れ、ハッとして視線を落とす。大きな手はあっさりと私の腕を掴んでいて「どうしたんですか?」と少し感情のない声を出してしまった。面倒だとか怖いだとかに振り回されないのは少し楽だった。

「僕と話をしよう」

五条さんはそう言って、私の両手に己の手を滑らせて優しく握った。