■ 五条と二人きりの箱庭

陽の光が瞼を刺激して、ゆっくりと目を開ける。カーテンが少し開いていたのか、縦に長く伸びる光がベッドにまで伸びていた。布団を被っていた体は少しだけ熱を持ち、上体を起こして固まった体を解すように伸びを一つ。室内は暑くも寒くもない丁度いい温度に設定されていて、まだ少し眠気の残る目はぼうっと部屋を映す。この部屋の主はまだ帰って来ていない様子で、ぺたりと床に足をつけて洗面所へ向かい顔を洗った。
トーストにハムと目玉焼きを乗せて、冷蔵庫にあった野菜ジュースをグラスに入れる。手軽で簡単な朝食は少食気味になった私には十分だ。むしろ半分ほど食べてお腹いっぱいになってしまうので困ったものである。食べかけのそれにラップをかけて、そのまま小さな庭のあるベランダに足を伸ばす。窓を開けると大きな風が吹いて、少しよろけながらも踏み止まり外に出た。いい天気だった。雲は少なく陽は暖かくて、過ごしやすい気温なのだろうなと思えるぐらいには。地上から遥か高い場所に位置するこの部屋は、以前私が働いていた仕事のお給料では到底払えない金額で。私はいつからだったか部屋の主である五条さんに連れられて、この高層マンションに住むようになっていた。その時の記憶は酷く朧気で、五条さんの何らかの提案に私が了承したということしか覚えていない。まあ帰ってくる度五条さんが嬉しそうに抱き締めてくれるし、彼が笑うのは私としても嬉しいので記憶の曖昧さは以前よりかは気にしてない。
地上よりも空に近い場所にあるのに、何故か更に遠く感じてしまうのは何故だろうか。庭の中心に立って目を閉じる。閉鎖された空間でもなければ、息苦しくなるような拘束もない、実に開放的な場所である。この高い高い場所では、人の声はおろか、鳥や虫の音も滅多なことがない限り聞こえない。静かな場所だ。あまりにも。


「おはよう、なまえ。よく寝れた?」

「おはよう、おかえりなさい。まだ少し眠い、かも」

「ふふ、じゃあ後で僕と一緒に寝よっか」


ふと瞼にあった光が遮られ、ゆるりと目を開ければ空とは違う碧がそこにあった。覗き込むように私を見下ろす五条さんは穏やかな笑みを浮かべて、私もいつも通り挨拶を返す。急に彼が目の前に現れるのにも慣れてしまった。頬を挟むように両手が添えられて、慈しむかのように額に唇が触れる。五条さんはいつも唇以外のところに口付けて満足気な顔をするのだ。口にしないのかと疑問に思って聞いた事があるけど、毎回「まだしない」と笑って口を閉ざしてしまう。理由は分からないけれど、私もそれで困ったことは無いし特に気にすることでもないのかなと思い始めている。少し、寂しいような気もするが。


「朝御飯、また残ってたよ。ちゃんと食べないと元気でないぞー」

「お腹減らないの。知ってるくせに」

「知ってるよ。でもアレぐらい普通に食べて欲しいんだけど」

「……全部食べたら何かご褒美くれる?」

「えぇ、欲張りだな」


呆れたような言葉でも口調は優しく、私を撫でる手つきも優しいままで、五条さんは私を甘やかす事を決して苦だと思ってない。私のこんな不必要な我儘も何がいいの?と促してくるあたり甘過ぎる対応だ。軽々と抱き上げられ部屋に戻る最中、ご褒美の内容を考えてみる。これといって特に欲しいと思うものもないし、今の生活に不自由も不満もない。ううん、改めてご褒美を考えるとなると難しいな。考える私を腕に乗せたまま、テーブルに置きっぱなしだったトーストに手をつけた五条さんは「目玉焼きちょっと焦げてる」と笑って口に放り込んだ。五月蝿い、ぼうっとしてたの。


「ん、んん。まって、あるから。たぶん」

「僕と一緒にいたーいとかなら大歓迎だよ。仕事入っても連れてくから」

「いや。五条さん抱っこから降ろしてくれないでしょ」

「え、何がダメなの?」

「恥ずかしい」

「恥ずかしがってるなまえも可愛いから大丈夫!」


何も大丈夫じゃないし仕事の迷惑になるでしょう。そう言って唇を尖らせたら「可愛い」とヘラヘラ笑う。真面目に聞いてないなこの人。でも仕事という言葉で思いついた。私はこの部屋から出て働きたいという欲がある。流石にここの家賃を払える金額は稼げないだろうけど、私が五条さんに少しでもお返しできるものと言ったらそれぐらいだし。んん?でもこれはご褒美では無いな、わがまま?いやお願い?


「外で働き」

「ダメだよ」

「……食い気味は酷い」

「お金が欲しいなら僕があげる。幾ら欲しいの?」

「毎日大変な五条さんにちょっとでも恩返し出来たらなって思っただけなのに」

「僕のためっていう気持ちはめちゃくちゃ嬉しい。ありがとう。でもダメ」


キッパリはっきりそう言った五条さんに拗ねた顔をしても意味が無いことは知っていた。この人は部屋に連れてきた時から私が外に出るのを良しとしない。それまで勤めていたはずの仕事も、親しくしていたはずの交友関係も、私が元々住んでいた家だって、いつの間にか全てなくなっていた。私のスマホは五条さんがプレゼントしてくれたもので、それも五条さんと私の家族以外の連絡先が全て消えていたのだから、最早驚きを通り越して感心するしか無かった。
閉鎖された空間でもなければ、息苦しくなるような拘束もない、けれど確かに私を捕まえる何かがあった。一度だけ、この鍵すら掛かっていない部屋から出ようとしたことがある。エレベーターに乗り込み、地上に足をつける手前、私は五条さんと鉢合わせた。彼は怒りも驚きもせず、ただ目隠し越しでも分かる笑みを浮かべ、僅かに腰を曲げて私に顔を寄せ。


「出たい?いいよ、必ず見つけるから」


ふとあの時と同じことを真正面から言われ、やっぱり納得がいかないと眉を寄せる。外に出るのは許すくせに何故働くのはダメなのか。


「ね、なまえ。僕のこと一番好き?」

「……比べる対象がいないんだけど」


五条さんはにっこり笑った。


2020/12/28