空中楼閣



俺はどうやら記憶を失ったらしい。
らしいというのは俺にもいまいち今の状況が理解できていないからだ。

朝目覚めて最初に思ったのは『此処は何処だろう』ということ。
次に思ったのは『俺は誰なんだろう』ということ。
だけど唯一あった記憶。

それは両の手の人差し指に填められている銀の指輪についてだった。
その記憶は明確なものじゃなく『誰かに貰ったもの』だという認識が出来る程度のものだった。
それでも俺にとっては救いだった。

『きっとこれは自分にとってとても大切なものなんだ。』

『だから自分のことが分からなくても、指輪のことだけは分かったんだ。』

何をしたらいいのか分からずベッドの上に座り込んだままそうやって考えていると不意に部屋へと誰かが入ってきた。
今の俺にとっては自分以外は全て敵に思える。

入ってきたのは女の人で「いつまで寝てる気なの?」と不機嫌そうに尋ねられた。
多分この人は俺の知り合いなんだろうけど俺には分からなくて、寝てたわけじゃないし見ず知らずの人だから「誰?」と聞いたらひどく驚いた顔をして「冗談言わないで。」と言われた。

冗談じゃないのにな、なんて思いながらやっぱり思い出せないから黙っていたら「…本気で言ってるの」なんてまだ半信半疑ですって顔で尋ねるもんだから申し訳ないと思いつつ俺はこくりと頷いた。

そしたら女の人は小さな悲鳴をあげた、気がした。
そのあとで「嘘でしょ…」と小さく俺に聞こえないように呟いたんだった。


『…折原さんが、ですか?』
「…はい、そういう訳で今日の取引は…。」

此処は俺の事務所兼自宅だったらしい。
なんの事務所なの?って矢霧波江っていうらしい女の人に聞けば「何でもする情報屋よ」なんて答えられた。
「何でも」する「情報屋」ってどういうことなんだろう、と思いつつ波江さんは何処かへと電話をかけ始めて今に至る。
どうやら取引先?に今の俺の状態を説明してるらしい。
でも『記憶喪失』だなんて話、誰が信じるんだろう。
自分だって驚いているのに。

『…そういう訳にはいきませんねぇ…こちらにも予定というものがある。』

電話越しに話す相手の不穏な空気を感じて身体に悪寒が走った。
電話の相手をしてる波江さんはさっきからずっと不機嫌そうな顔のままだ。
もしかしたら困ってる時の表情、なのかもしれない。

「ですが…!」

取引先はどうしても俺に会いたいらしい。
ん?会いたい…じゃないのかな。
分かんないけど。

『それに、本当に記憶を失ったと?私にはどうも信じられませんね。』
「…でしたら、実際に眼にすればいいわ!」

あ、波江さん、怒っちゃった。

『分かりました、其方へ向かわせて頂きましょう。
10分もすれば着きます。』

切られた電話。
溜め息を吐く波江さん。

「えと…波江…さん?」
「なに。」
「ごめんね?」
「…謝らないで、気味が悪い。」

本当に気味が悪いのか嫌そうに顔を歪めて謝った俺を見た。
それでも俺の気は済まなくて、もう一度、謝ったんだ。

「うん…でも、ごめんね…。」

俺が記憶なんか失ったばかりに面倒なことになっちゃって。
ごめんなさい。


10分ぐらいしてやってきたのはすっごく怖そうな人たち。
白のスーツを身に纏った人は俺の顔を見るなり顔を顰めた。
そしてリビング…?のソファに座るとじっと俺を見つめたまま暫く黙っていた。

俺はその視線に耐えれなくて、コーヒーを持ってきた波江さんの後ろへと隠れたのだった。

「…折原さん、ですか?本当に?」
「…っ」
「…ちょっと、後ろに隠れないで頂戴。」
「これは…冗談、とは思えませんね…。」
「だから言ったでしょう。」

波江さんの後ろに隠れたら波江さんは嫌そうに距離をとって離れた。
あ、どうしよう、どうしよう、怖い。

ようやく俺が本当に記憶を失っていると信じた男は顎に手を当てて考えるように呟いた。


「おい、先生に電話しろ。」
「はっ」

そうして部下の人に何やら指示を出して俺とまた向き合った。

「矢霧波江…さんだったかな?
暫く折原さんを預からせてもらう。」
「…仕事は?」

俺を見たまま波江さんに話しかける男の人。
なんでこんなに見られてるんだろう、俺。
この人になにかしちゃったのかな。

「記憶喪失だと明確な診断が出たら改めて折原さんの世話を頼みますよ。」
「そうじゃなくて…!」
「情報屋の仕事としてなら此方でなんとかしましょう。
それでよろしいですね?」
「…信用できないわ。」
「してもらわなくても結構。
…折原さん、行きましょうか。」

有無を言わさぬまま、座っていた俺の腕を掴んで立ちあがらせると男の人は俺を肩へと担いで歩きだした。
え、え、なにこれ、どういうこと!?
ていうか、重くないのかな…?


***


「えと、“折原”って…俺の名前、なんだよね…?」
「ええ、折原臨也 それが貴方の名前ですよ。」
「…貴方は…?」
「私ですか?そうですね…貴方は私のことを“四木さん”と呼んでらした。」
「…四木、さん…。」

マンションのエレベーターに男に担がれたまま乗った俺はさっきからずっと思っていたことを尋ねようと思った。
波江さんは俺の名前を呼ばなかったし、俺も聞かなかった。

でも、正直言うと俺は自分の名前が分かってなかったから、聞いたんだ。

多分“折原”というのが自分の名前なんだろうけど、はっきりと分かったわけじゃないから自分で呟きながら尋ねてみた。
やっぱりピンと来なかったけど、この人に呼ばれたらなんだか、しっくりくるようなこないような気がした。

“折原臨也”それが俺の名前。
この人には“折原さん”と呼ばれるよりも“臨也”と呼ばれる方が何だかしっくりくるような気がした。


そしてこの人の名前。
“四木さん”
なんだろう、この人の名前を聞いて、呟いて、酷く胸が痛んだ。
俺はこの人を知ってる。
きっと、波江さんよりもずっと、大切な存在の人だったんだと、俺は思う。

「ねえ、四木、さん…俺のことずっと“折原さん”って呼んでるの?」

そう尋ねれば僅かに俺の腰を掴む四木さんの手が震えた気がした。

「…それは仕事中の時だけだ。
普段は臨也と呼んでいる。」

ああ、やっぱり。

「何か思い出したのか。」
「ううん、違う…けど、“折原さん”って呼ばれるのが、何だか、変な気がした、から…。
上手く言えないけど、多分“俺”は“臨也”って“四木さん”に呼ばれるのが好きだったんだ思う。」

多分、どころの話じゃないと思う。
これは確実にだ。

俺はこの人に名前で呼んでもらえるだけで嬉しかったんだと思う。

ああ、もしかしたら、いや…多分…この人差し指の指輪はこの人から貰ったものなんじゃないかな。
だから大切に、ずっと付けてあるんだと思うんだ。


マンションから出たら黒い車に乗せられた。
どこに向かうんだろう。
さっき診断とか言ってたから病院かな?俺は別に病気でもないのに。
ただ、ちょっと、記憶を失くしちゃっただけなのに。

「ねえ、四木さん、何処行くの?」
「…医者の所だ。念のために見てもらう。」
「俺は、病気じゃないのに?」
「…お前が、嘘を吐いてる可能性もあるからな。」
「嘘?どうして、そんな?」
「…お前がそういう人間だからだよ。」

そういう人間ってどういうことだろう。
良く分からないけど、これ以上聞いちゃいけないのかな。
なんとなくそんな気がしたから少し黙ることにした。

そしたらいつの間にか車は発車してて、見知らぬ街を、道を、走り抜けていった。


暫くしてお医者さんのところについたらしい。
俺は四木さんに連れられてマンションに入った。

そこで出会った医者は俺の姿を見るなり驚いて「どうしたんだい、臨也!?」と言ったけど、俺には分からなくてまた「誰?」と聞くしかなかった。
そんな俺の状態に医者は四木さんに説明を求めた。

四木さんは簡単に「折原さんが本当に『記憶喪失』なのか診てもらいたい。」と言ったのだった。
その言葉に医者は顔色を変えて「記憶喪失?臨也が?まさかそんな…いや、でも…」と何やら呟き始めたが、好奇心と心配どちらの感情ににかられたのか俺をソファに座らせて診断を始めたのだった。

その間、四木さんは立ったまま俺をずっと見つめ続けていた。


***
四木さん、冷静なように見えて内心焦ってます。心底焦ってます。
だから普段しないような行動=臨也を担ぐ なんてこともして下さりました。
取りあえず臨也が四木さんに拾われた理由です。


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