「黒尾さんと過ごす予定ができて嬉しいです」
心底面倒臭そうにため息を吐いた研磨が言った。
「良い機会じゃん、なにがだめなの」
「逆にどの辺が良いとお前は思うのよ」
幼馴染である研磨は、社会的に見れば大成功を収めている超がつくほどの有名人である。しかし根本的な性格は、ある意味で尊敬するほどに、幼少期から現在に至るまで全くと言っていいほど変わっていない。今も俺の質問に対しダルそうな表情を少しも隠そうとはせず、研磨は「俺に聞かないでよ」と嫌そうに眉を顰めた。
「クロが相手のどこがだめだと思ってるかっていうのを俺が聞いてる」
じとりとした視線を向けられる。心底呆れているというように放たれた、上手い反論の仕方が見つからないその言葉は、今の俺にとってはキツイものがある。
「そもそも、あいつはよくできる俺の大事な部下だろ。一回もそんな目で見たことねえよ。年齢だってひと周り違うんだぞ」
「ひと周り違うって言ったって、相手ももう二十代半ばだし。そのくらいの年の差なら世の中結構いるんじゃない。そんなに気にすること?」
「じゃあ研磨クンは歳の離れたピチピチ女子に好きだって迫られたら嬉々として簡単に受け入れるんですか!?」
「なにそれ。その言い方どうなの。なんかおじさん味ありすぎてきもちわるいし……」
「たしかに今のは俺が圧倒的に悪かった。そんなに引くなって、頼むから」
「こっちこないで」
「悪かったって!!」
軽蔑的な視線を向けてくる研磨は、そのままずりずりと後ずさるようにして俺から距離をとった。そんなあからさまに引かないでくれ。俺の発言が冗談じゃなくガチっぽくなっちゃうでしょうが。ああいうことを冗談として軽く発言してしまった俺が何より悪いんだけど。
「さっきから黙って聞いてれば、受け入れられない原因って、主にクロから見たその人の外側の立場的な問題だけじゃん。性格とか、価値観とか、そういう相手の中身がだめな理由にはなってないなら、それだけで簡単に突っぱねるのは真剣になってくれてる相手に失礼なんじゃない」
「だからってよ……。中身がいくら良くても年齢にでかい差があれば受け入れ難いのは当たり前だろ」
「それは相手が子供の場合でしょ。子供じゃなくても娘くらい離れてたりしたら俺も止めるかもしれないけど」
「それはかもしれないじゃなく本気で止めてくれ」
その時はね、と言って、研磨は手元の麦茶に口をつける。
「というかまず第一に、何回も言うけど、俺は苗字のことを一度もそういう目で見たことがないわけ。好きではないんだっての」
「きらいなわけじゃないなら、まだそうやって意識したことないってだけでこれから好きになるかもじゃん。……もしかしてその歳でまだ学生みたいなピュアな始まり方とか夢見てる?」
研磨は顔を顰め、ゲッとでも言いたげな表情をする。
「……さっきから研磨クンは俺になにか恨みでもあるんですか?」
「べつに」
「にしても珍しく話聞いてくれるし意見してくれんのな」
「くっつけさえすれば、もうこの件でここには来ないでしょ。俺にこの手の相談はしないでって遠回しに言ってるだけ。困るんだよ。アドバイスとかそういうの、何にもできないし」
クロはいちいち考えすぎ。もっとフラットに自分の気持ちに従ってみてもいいんじゃない。研磨はそれだけ言って、今から動画の編集するからと部屋を出て行った。しんと静まり返った空間に俺のため息だけが響く。
窓の外では、風鈴が歌うように爽やかな音色を奏でていた。軽やかで涼しげ。その音を響かせるために吹いている風は、茹だるように暑くジメジメと重いのだろう。冷房の効いた部屋の中でもわずかに汗が伝う。氷の溶けかけた飲みかけの麦茶がカランと音を立てた。どこからか飛んできたのであろう蝉の鳴き声は、窓越しでも煩わしくて随分と耳障りだ。すぐ近くの景色の輪郭でさえもうまく捉えられなくなる。蜃気楼に飲み込めれたみたいに、うまく頭が働かない。
勢いよく突っ込んで行かなきゃならないシーン、そうしてはならないシーン。諦めるとは違う、判断が必要になる場面。どんな競技の試合中にもそれは存在するだろう。受け入れたくないのではなく、受け入れてはいけないのだ。
苗字に告白されたあの日から一ヶ月。この間、苗字は仕事中は今まで通りの態度のままだった。しかし仕事終わりには隙があれば接触を試みてくる。
あからさまな態度を向けられることにはそこまで悪い気はしない。なんだかんだ俺も男である。だが普通なら多少うざったくも思うだろう。そうは思わないのは、積極的に絡んでくるくせに、苗字らしく距離感はしっかりと測っているのがわかるからだ。ギリギリを攻めながらうまく引いて、けれどたまに何の遠慮もなく突っ込んでくる。
入社してからの年数がもっと長いやつなんて他にもいる。それでも苗字の働きぶりには目を見張るものがある。信頼の置ける一番の人材といっても良いほどだ。もしも、失ってしまったら。自分の立場は。苗字の立場は?
今までずっと仕事ばかりに打ち込んできた。その間にできた彼女たちは、悲しくも愛想を尽かし離れていった。苗字は?もし苗字ともそうなってしまった時、俺と彼女の仕事上での関係は一体どうなってしまうのだろう。
もう一度、肺の底から空気を這いずり出すような重苦しいため息を吐いた。苗字の人間性に、ダメなところなんて見当たんねえんだよ。
休日だからといって特にやることもない。しかしこのまま家に籠っているのもなぁ、と外に出てフラフラとしてみたはいいけれど、あまりの暑さに早くも後悔をし始めた時、風鈴のような軽やかな声が俺を引き止めた。
「黒尾さん!偶然ですね」
「ですね」
「何でいんのって顔してますね」
「バレた?」
「私の家あっちなので」
確かに苗字の家に向かって駅から歩けばここを通るはずだ。ニコニコと嬉しそうにしている苗字は、職場で見るのとは少し違う雰囲気を漂わせていた。いつもは履いていないこのスカートのせいだろうか。ピシッとしたスーツか、カジュアルな格好をしている姿しか見たことがない。
「このあとは何か予定とかありますか」
そう問われてしまえば、素直に無いと答える他なかった。ここであると言い存在しない予定を口にしても、変に言い訳を作って断っても、苗字はきっと全てお見通しなのだろう。
駅からこっちに向かって歩いてきたのだから、苗字ももう今日は予定はないはずだ。店のある駅付近まで歩き出しながら、わかっていてあえて「そっちはこの後予定どうなの」と聞いてみれば、「黒尾さんと過ごす予定ができて嬉しいです」だなんてはにかんで笑ってみせるから、なんだかまた一本取られたような気持ちになる。
苗字はこうして、包み隠すことなく素直に好意を伝えてくる。これまでは俺も周りも少しも気付かないくらいに、その想いを潜めていたというのに。その反動なのだろうか。
「……苗字はさ、俺のどこがそんなに好きなわけ」
自分でも引くほどにめんどくせー質問。けれど俺のどこがそんなにも苗字に刺さっているのか、とても気になってしまう。この質問をされているのがもしも研磨だったなら、この世の終わりみたいな目を相手に向けるのだろう。
もちろん今までどんな相手にもこんな質問はしたことがなかった。けれど苗字からは、明確な言葉としてきちんと聞いておきたいと思う。こんな感じなのだろうという勝手な思い込みではなく、なにも聞かないまま曖昧にするのではなく、しっかりと彼女の口から聞いておきたい。
そう思ってしまうのは、形のないあやふやなだけの直感じゃ行動できないという、歳を取るごとに失われていく勢いと、歳を重ねるほどに増していく慎重さのせいだろうか。
「好きなところはたくさんありますが」
苗字がこちらを見上げ微笑む。
「お互いの立場とか、今後のこととか、年齢だったりとか、いろんなことをちゃんと考えて、安易に私を受け入れないところです」
吹く度に、涼しいと感じさせるどころか体の熱を上げていく真夏の風が、彼女の長いスカートの裾をふんわりと揺らした。
背中ににじむ汗が鬱陶しい。なのに不思議と灼熱のアスファルトの続くこの道を、いつもの倍の時間をかけ、自分よりも歩幅のうんと小さな彼女に合わせながら歩くことは、鬱陶しいとは思わなかった。
彼女は弾けるような満面の笑みを浮かべていた。冷蔵庫から取り出した炭酸がしゅわしゅわと泡を沸き上がらせるように、腹の底から何かが昇りつめてくるような刺激を感じた。