「黒尾さんにしか言わないです」


バレーボールという競技に全てを捧げた青春時代だった。

大学を卒業し、この仕事を始めてからもそれは変わらない。これまでの人生を振り返っても、いつだってずっと一つのボールだけをただ追いかけている。コートの中からでも外からでも。

己の心を惹きつけてやまなかったスポーツ。一体どれだけ多くの他人を巻き込み、一人でも多くその魅力に気が付かせることができるのか。自分なりに真剣に考えて、試して、常に挑戦し続けた。そして気がつけば、俺はいつの間にかこんなにも歳を重ねていたってわけだ。

生きるために必要不可欠である呼吸。それさえ億劫に思わせるほどの暑苦しさを緩和させる、爽やかで涼しげな風鈴の音色。それに似た声が響いた。

振り返ったその先には、先ほどまで他部署のやつらと楽しそうに飲んでいた見慣れた姿がある。


「家こっちだったっけ?」

「実はそうなんです。最近引っ越して」


相手はふふ、と短く笑った後、けろっとした顔で続けた。


「だから、送ってもらおうと思って」


やけに落ち着いている性格だと思う。やっと幼さが抜け、今が盛りだというような若々しさを放つ顔立ちをしている。そんな目の前の女性――苗字は、仕事上俺の部下にあたる、真面目でしっかりとした信頼できる人間だ。


「そういうのって自ら言い出すもんですかね。あと、なんでこんな今更」

「だって、ここまで来ないと会社の人に会っちゃう可能性あるじゃないですか。黒尾さんそういうの避けたがるし。でも一緒に帰りたかったから」


シュンと犬が耳を垂れるみたいに俯き、拗ねるように口を尖らせる。苗字に抱いていた大人びていて真面目でしっかりしているというイメージ。それを一瞬で覆すような、駄々をこねる子供らしい仕草に思わず目を逸らしてしまった。


「んな学生みたいなこと言われましても」


ため息まじりに放った俺の言葉に怯む気配はない。


「困りますか?」


それどころか、苗字はまるで俺の心を読もうとするような、純粋でいて鋭い瞳をこちらへ向け続ける。


「困らせてるんです」


だって、その方が黒尾さん、私のこと考えてくれるでしょ?

苗字は、親に構って欲しい子供のような計算高い無邪気な笑顔を、遠慮なしに俺へと向けた。

草木の燻んだ香りの漂う熱帯夜一歩手前の蒸し暑い夜。繁華街の煌びやかなネオンも、人々の喧騒も、会社のある都心からは随分と離れたここには一切届かない。じんわりと浮かび上がった汗が薄手のシャツをゆっくり染めていく。

良い機会じゃん、なにがだめなの。この間の研磨の言葉が脳裏をよぎる。駄目なところなんて、ない。しかし、立場というものがある。


「送ってってやるから、そういうことは簡単に言うな」


これは上司としてではなく、一人の男としてのいち意見だ。こんな夜中に、酒の入った男女が二人きりで、家まで送って欲しいなんて。


「黒尾さんにしか言わないです」


だから、そういうことを簡単に言うなっての。





あれは約二ヶ月前。大学の友人の結婚式に出席した日のことだ。

この年齢にもなるとどんどん周りは身を固め始める。それに関して特別な焦りも何もなかったけれど、久しぶりに顔を合わせた先輩の言葉は今も記憶に残っている。


「黒尾ってさ、大学生の時も就職してからも結構モテてたのに、全然そういうの興味なさそうだったよね」

「普通にありまくりでしたけど?」

「ないよー、ないない。だって黒尾の話聞いてると、あんたの将来像に私は入り込めなさそーってつい思っちゃうもの」


アハハハと高らかに笑いながら先輩は言った。

俺の、将来。今更大きな夢を掲げようってそんな野心はないけれど、やりたいことなら今もごまんとある。

もっとバレーの、スポーツのネットを下げるにはどうすれば良いか。これからもずっとその問題と向き合いながら生きていくのだろう。こんな言い方をするのは少し恥ずかしい気もするが、これが俺の使命だとも勝手に思っている。昔から。


「彼女作ろうとかさ、こうやっていつか結婚ーとか、考えたことある?」

「そりゃあまぁ、一応この歳なんでありますよ」

「でもちっとも本気じゃないでしょ」

僅かに眉を顰めた先輩は、「黒尾と付き合ったらすごく大事にしてくれそうって何回も考えたし、実はちょっといいなって思ってた時期もあったんだよ」と、初めて聞く事実を突きつけてくる。


「でも黒尾って基本何でもできるし、見据えた目標に突き進む力が強すぎて、多分いつかこっちが萎縮しちゃうだろうなぁとも思った。あと彼女は大事にしつつも執着とかはしなさそうだし、何より女の子よりもバレーに興味示してたじゃん?」

「執着しますし、女の子には興味ありありでした!」

「嘘だー。あの三つ後輩の彼女と別れた時、ショックとか言いながら割とケロッとしてたじゃん」

「あれは、まぁ……別れた理由がアレなんで」


大学四年の春から三年間付き合った彼女がいた。けれど最後は浮気されて終わり。仕事に精を出しつつ彼女のことは目一杯大切にしたつもりだが、どうやら足りなかったらしい。

一生懸命な鉄朗は好きだけど、私の事ももっと見てほしかったと言われてしまった事は、今までの人生の中でもかなり上位にショッキングな出来事として今でも記憶に残っている。

しかし、それを反動にすることでさらに仕事に精を出すことができた。だからと言って良かったなんてことは言えないけれど、まぁ全てが悪くもなかったかもしれない。


「黒尾もさ、仕事ばっかりに目向けてないで、そろそろ一旦自分のこともちゃんと考えてみたほうがいいよ。考えた上でそう生きてるなら何にも思わないんだけど、周りのことばっかで自分のことはいっつも後に後にしがちだから。余計なお世話かもしれないけど、たまにすごく心配になんのよね」


先輩と出会った大学入学当初。それからもう軽く十数年の月日が経っている。お互いこんな年齢になったにもかかわらず、先輩というものはいつまでも先輩のままで、後輩はいつまでも後輩のままだ。

先輩にとっては何気なく交わした何でもない会話でしかないだろうが、俺は今もこのやりとりが頭から離れない。

仕事のこと。競技のこと。業界のこと。日々頭を悩ませられる出来事があって、それを少しでも良くするためにがむしゃらに突っ走っている。その事になんの疑問も不安も抱いていない。何よりも楽しいと思える。やりがいも、生きる意味すら感じている。

これ以外の人生のことなんて、考える暇もなかったくらい。


- ナノ -