38
瞳を大きく見開き、これでもかというほどに頬を緩ませたナマエが「おいしー」と蕩けそうな声を出した。
なかなか外国では日本食にありつくことが難しい。あるにはあるが、値段も張るし、求めている味に巡り合えるとは限らない。こっちにいるうちに食べたいものは食べておく。そう決めた食べたいものの一つにこのおにぎり宮のおにぎりがあった。
「治くんのおにぎり、試合で何回か食べたことはあるけどお店で食べるとまた全然違うね」
「どんな時でもうまいって言えるようにしとるけど、あつあつの握りたてが一番の売りや」
光り輝くほかほかの白米を、我が子に触れるように柔らかに丁寧に握り海苔で包んだ大きなおにぎり。二人の高校時代の同級生であり、そして角名の元チームメイトである宮治は、現在関西でおにぎり屋を営んでいる。
「ねぇ、倫太郎のも食べてみたい」
「これすげぇうまいよ」
「角名はいっつもこれ頼むよな」
少し身を乗り出し、角名の方へと寄る。それに合わせて「はい」と言いながら角名がナマエの口元へとおにぎりを移動させてくれ、勢いよく食いついた。
「うちの店であーんなんてたまにくる学生ぐらいしかせえへんよ」
「だって。まだまだ若いね俺たち」
「倫太郎は外ではこういうことしてくれないから今日は珍しいよ」
「どうでもええけど、お前ら相変わらず仲良えな」
「まぁね」
久しぶりに二人で訪れたこの土地になんだか安心感を覚える。とはいえ二人が過ごした稲荷崎高校はここから少し離れているが。それでも初心に返るにはもってこいの場所だった。二人が出会った土地。始まりの三年間を過ごした場所だ。
治の店を出て、駅に向かって歩いた。電車に乗り数駅程揺られれば、栄えた大きな駅に出る。この時間でもこの人通りの多さはさすがといったところだろうか。ホテルは駅のすぐ目の前だが、しばらく周辺を二人で歩いた。
当時一世を風靡し、どこの街でも流れていたKーPOPアイドルグループは現在は活動を休止してしまっている。あの頃は流れる曲全てを口ずさめるくらいたくさんの曲を聴いていたというのに、今この街に静かに流れる話題曲は、サブスクが一般的になりあの頃よりも確実に手軽に聴けるようになったにもかかわらず、前にCMで少しサビを聴いた覚えがある気がする程度にしかわからなかった。
「知らないビルが建ってる」
「ほんとだー。なんか店とかもずいぶん変わったよね」
「高校卒業してからもう何年も経ってるし」
この場所で想いを打ち明け付き合い始めた。そこにこうして二人でまた訪れている。月日が経った今でも、二人揃って立つのは少し気恥ずかしい。ここに行こうなんて事前には言ってなかったのに、たまたま取ったホテルの最寄り駅がここだったからといって、二人して向かってしまったこの事実にも気恥ずかしさを感じる。
久しぶりに同じタイミングで連休が取れたからどこか行こうかという話になり、決まった行き先が関西だった。今更特別観光するものもない。歩き慣れた土地。それでもここに来た。来なければならないとも思った。
「なんだか不思議だよね」
ホテルへと戻り、遅めのチェックインを済ませて窓の外に広がる景色を眺める。学生時代は自分たちの暮らしている住み慣れたただの街が、こうしてこのホテルからは綺麗な夜景として別世界のように映ることなど知りはしなかった。
「そこ、寒くない?」
「そんなことないよ」
振り返ったナマエのすぐ後ろに角名はいた。まさかこんなにも近くにいるとは思わなかったのだろうナマエが「びっくりしたぁ」と笑いながら、そのまま角名に抱きつくように背中へと腕を回す。
角名は高校生の時よりも背が伸びて、体格もさらに良くなった。ナマエの身長はあの頃から数ミリ程度しか変わりはない。が、まだ少女の部類にあったはずの顔立ちは、立派に大人の女性へと変化を遂げたはずだ。
二人向かい合い、くっついた体勢のまま器用に移動する。倒れ込むように角名が後ろ向きにベッドへと沈んだことで、ナマエも乗り上がるようにして後に続いた。
角名がハラハラと落ちてくるナマエの横の髪を押さえながら頬に手のひらを這わせる。ナマエも輪郭を確かめるようなゆったりとした動きで、同じように角名を包み込んだ。どちらからともなく唇を合わせて、絶え間なくキスをする。
無駄な言葉は交わすことなく、無駄ではない言葉も発することなく。毎日騒がしく過ごしていた学生時代は知ることもなかった、うるさいまでの静寂が広がる夜のこの土地に、リップ音のみが響き渡っている。
「倫太郎」
「……ん?」
キスの合間を狙ってナマエが小さく角名の名前を呼んだ。それにすかさず反応を示す。
「なに、どうしたの」
「……なんでもない」
ころんと倒れるようにベッドへ横たわったナマエを、角名がしっかりと抱え込んだ。力なく抱きしめあって、他の何者をも入り込む隙間を失くさせる。角名の大きな体にすっぽりと収まったナマエは、そのままゆっくり目を閉じた。髪の毛の表面を優しさで溶かすように角名がナマエの頭を撫でる。
「あと二週間か」
「帰ったらさすがにそろそろ荷物まとめなきゃだなあ」
「間に合う?もう発送来週とかでしょ」
「なんとか間に合うと思う。もともと私そこまで荷物多い方じゃないし、家具とかはほとんど倫太郎のもの借りてたから」
「貸してるつもりはないんだけど。一緒に使ってるだけじゃん。俺たちの家でしょ」
「ごめん、そうだね」
荷物を詰め込むだけならば、三日ほどあればすぐに終わってしまうだろう。向こうでは家具が備え付けられている部屋を貸して貰えるとのことだった。なのでベッド等の大掛かりなものを移すわけではない。特別家具にこだわりのないナマエとしてはありがたい話だった。
「何をそんなに心配してんの」
「言葉とか?」
「あー……俺もそれはダメだ」
「でも倫太郎も海外遠征の時とかちょっとくらい話すでしょ?」
「全然話さないよ。大体みんな通訳か言葉のわかるチームメイトに頼るか。思ってるより全然話せない。移籍してるわけじゃないからそこまで必要もないし」
「そんなものなんだ」
「それに英語とかは多少わかってもフランス語とかスペイン語とかイタリア語とかさ、全く違うじゃん」
「確かに。いろんな国に行っていろんな国の人と試合するもんね」
体温の心地良さに目を細める。出来ることならこのまま他愛のない話を夜通ししたい。静かに更けていく夜に身を投げながら体を寄せ合った。
「ナマエは何も心配することないよ」
優しく響く角名の声にやわらかく眉を下げた。おやすみとどちらからともなく言い合って目を瞑る。睡魔なんてこれっぽっちもやってきそうにもないのに。