ふたりぼっち


この状況の中、お互いの存在を無いものとして過ごすことは到底できやしない。普段通りに会話は行うものの、当然よそよそしさを感じる。

気まずいとも違う、言葉にできない絶妙な緊張感が流れ続けている。喧嘩ではないから仲直りというわけにもいかない。謝るような出来事でもないために、この空気の修正の仕方がお互いにうまくわからなかった。

そんなこんなでどうにか乗り越えた今日。窓の外に月はなく、普段よりもうんと空が暗い。星が綺麗に瞬く中、もうそろそろ寝ようという時間に由佳が静かに切り出した。


「角名くん」

「なに?」

「何度も何度もうるさいって思われるかもしれないけど……」


グッと膝の上に置いていた拳を強く握りしめる。どこか覚悟を決めたような由佳を見て、角名も丸めていた背を伸ばした。


「何回も何回も考えたけど、私の気持ちは変わらない。おばあちゃんの言葉とか、この状況に流されてるんじゃなくて、ちゃんと角名くんのことが好き」


緊張からか、いつもより若干上擦った声を張り上げ、宣言するかのように由佳は言った。


「私は角名くんのことが好きだけど、角名くんが私のことをそういう風に思えなくても全然いいの。だから遠慮なく断ってくれて構わない。角名くんの気持ちは角名くんのものだからどう思われてても別にいいの。でもあと二週間、このままずっと気まずいのは嫌だ。前みたいに接したい。角名くんはもしかしたら困るかもしれないけど、もしできればそうして欲しい」


一息で捲し立てるようにそう言った由佳は、角名の視線を逃さぬようにしっかりと見つめ、もう一度息を吸った。


「全部私のわがままでごめんね」


おやすみ、と小さく付け加え、由佳はそそくさと腰を上げた。角名は待ってと声をかけようとしたが、この発言をするために勇気を振り絞り、緊張と恐怖を乗り越えただろう由佳の僅かに揺れる肩を目にしたら、何も言葉が出てこなかった。

ずるいだろ、言い逃げなんて。そう思うけれど、そうさせているのは紛れもない自分だ。

守月さんはいつも自分の言うべきことをしっかりと口に出してくれる。言葉を選びながら。危機感や警戒心が薄いためにその辺りの考えは浅いことが多々あれど、相手を刺すような言葉や言い回しは決してしない思考能力を持っている。もしかしたら無意識なのかもしれないが、これを無意識にでも意識的にでも行えるところが彼女の尊敬できるところだ。

この間の喧嘩だって、抱え込んでいたものをうまく消化できず、素直に口に出すことも出来なかった自分が悪かった。相手側に一歩踏み込む真っ直ぐさと素直さがいつも足りずに後れを取る。この手のことは、いつも守月さんに頼ってばかりだった。

かっこわる。そう小さく呟いた角名の声は、誰に届くこともなく静かに部屋の壁に吸収されていった。はぁーと息を長く吐いて、ゆっくりと酸素を吸い込むと、途端に頭の中がクリアになる。

逃げているのはいつも自分じゃないか。この状況下でいつまでも覚悟を決められずにいるのは俺だけだ。テーブルの上に置いていたスマホを手に取って腰を上げた。服の布の擦れる音さえもよく響く静かな夜に、場違いな大きな音を鳴らしているのは己の左胸だけだ。

静寂を遮らないようなるべく音を立てずに階段を登り、とある部屋の前に立つ。まだ由佳も眠りについてはいないようで、扉の向こうからは僅かな物音が聞こえてくる。


「守月さん」

「っわ、え、角名くん!?」


ノックと同時に扉を開いた角名に、由佳はひどく動揺してみせた。


「…………」

「…………」

「……角名くん?」


続く沈黙に耐えきれず、由佳は黙ったままの角名を見つめながらもう一度名前を呼ぶ。少し俯き加減の角名の表情からは何の意図も読みとれない。これから何を言われるのか、このタイミングで何を自分に伝えにきたのかが由佳には想像つかなかった。

どうしても由佳の思考回路はネガティブな方へと傾いてしまう。先ほどは断るなら断ってほしいと自ら言ってしまったが、自身の気持ちを信じてもらえず否定された時の虚しさには襲われないというだけで、もちろん悲しいことに変わりはない。

それとも、あと二週間を残したこのタイミングで、後先考えずに気持ちを伝えてしまったことに対して彼は怒ったりしているのだろうか。告白をする前のギクシャクしない関係性に戻ることなど無理があると、呆れられているのだろうか。

ドキドキ、バクバクなんてそんな効果音では表せないほどに轟音を轟かせる心臓にもはや痛みすら感じた。もちろんその音に恋愛のあたたかな感覚など微塵もなかった。背筋が寒くなる緊急警報のようなけたたましい音だった。

角名が由佳の部屋の内側へと一歩踏み出し、ゆっくりと口を開く。上手く角名の顔を見ることができず、由佳は視線を彷徨わせ、最終的に床の木目を視界に入れた。


「俺も、守月さんのこと好きなのかもって、思う」


え、という由佳の驚きに満ちた小さな声が、何にも邪魔されることなく角名の耳にも届く。


「かもとか言って曖昧だって思われるかもしれないけど、やっぱりこの状況の中じゃ冷静な判断とかできてない場合も考えられなくはないし、今はこれ以上は何も言えない」


だから、と、そのまま角名は言葉を続ける。


「一旦好きとかは置いておいて、この状況から抜け出すまでは前までと変わらずに接してよ。俺もそうする」

「うん」


安心したように笑みを浮かべた由佳を見て、角名も表情を和らげた。


「でも俺に好かれてるかもしれないって自覚はちゃんと常に持って」

「……え」

「そんなことはしないって誓うけど、俺が変な気起こしたくなるような言動は控えてってこと」

「……?」

「わかってねえな」

「控える。けど、たとえばどんなこと?」

「……良いよ。守月さんはいつも通りいろってこと。でも、もう一回ここに来た日みたいにはっきり言っておくけど、俺は男で守月さんは女だから。そこは忘れないで」

「うん」

「守月さんが俺のこと好きだって言ってくれてても、わかってても、でもやっぱりここにいるからには、最初に言ったことは絶対に守るから。俺を信じ続けてくれてる守月さんのこと、最後まで裏切りたくない」


『口ではどうとでも言えるから意味ないかもしれないけど、守月さんに乱暴なことはしない。それだけは誓うよ。でもこう言って油断させて騙す奴もいるわけだから、俺を信じるかどうかの最終決定は守月さん自身がして』

そう言って角名はこの家へと足を踏み入れた。踏み入れてしまった以上は、どんな状況になったとしても最後までそれは貫き通す。好きになってもらえたからといって、あの約束を撤回して近付こうだなんて考えは角名の中にはないのだ。由佳も初めて会った日のその言葉をもう一度思い出して、角名の決意と共に心に刻み直した。

由佳が口を開く前に、角名は「それだけ」と言って後ろを向いた。せっかくなのだからもう少しゆっくり話し込んでも良いのではないか、と思うかもしれないが、まだ二人きりの時間は二週間も続く。

言い換えればもう二週間しかない。けれど、この期間が終わっても二人で居られる可能性がわずかに高まった。由佳は大きな背中に微笑んで見せた。


「あと明日、前に約束した通り晴れてたらまた行くんでしょ?」

「うん!」

「寝不足で怪我とかすんなよ」


若干揶揄うようにそう言った角名に、由佳は明るく嬉しそうに返事を返す。その声を背に「おやすみ」と言った角名が部屋を出ていった。

新月の今日は、空に浮かぶ月の姿を肉眼では捉えられない。角名と由佳の新たな最後の二週間が幕を開ける。この次に顔を出す月が一番大きく煌々と輝く時、それが、この二人きりの世界の終わりを告げる合図となる。




 

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