あとはただ沈むだけ


なぁ俺の家にある伊吹さん家の鍵知りません?そう聞かれたのは、あの夜から三日が経った日のことだった。


「ごめん、あの日職場に鍵忘れちゃったから私が持って帰っちゃってる」

「なら良かった。なくしたかと思って焦ったわー」

「言うの遅くなってごめんね」


定休日以外の休日は二人で合わせて取ったり、そうじゃなかったり、その時々で違う。私は他の人とシフトを調節すれば比較的融通が効くけど、彼はなかなかそうもいかない。明日は私は休みだけど彼は出勤で、明後日は私は出勤だけど彼は休みだ。


「今日そっち行って良いですか?」

「あー……明日朝早くから友達と用事があるから、今日はちょっと厳しいかな、ごめんね」

「わかった。楽しんでな」


ズキズキと心が痛む。友達と予定があるのは本当。朝早いのは嘘。少しゆっくりめのランチをしようという予定だから時間にはとても余裕はある。罪悪感を抱えながら、優しい言葉をかけてくれる彼に「ありがとう」と返事をした。


「で?何よ話したいことって」

「それが自分でもなんて言ったら良いのかわからなくて」

「はぁ?」


眉を顰めてこっちを見たよっちは、私も忙しくないわけじゃないんだからねと言って取り分けたご飯にかぶりつく娘に「手で食べないよー」と優しく注意をした。この間まで二歳だったその子はいつの間にか三歳になったようだ。

小さな怪物のように元気なその子に手を焼きながらも笑っている彼女は、昔は結婚とか出産とかどうでもいい、私には私の人生があると事あるごとに豪語していた。結婚や出産をしても自分の人生は自分の人生だろう、そう誰に諭されたって「お金も時間も興味も、自分以外の誰かに裂かなきゃならない生き方なんて考えられない」とまで言っていたのに、彼女は今やその両方を成し遂げ、且つしっかりと自分の道を歩んでいる。

考え方なんてきっと少しのきっかけで大きく変わるし、大きく変えなくたって見方は変わったりする。彼女は自分の理想を叶えるための計画をしっかりと練っていて、そしてそれを実行するには結婚や出産は必要ないものであるとずっと考えていたようだけど、現在旦那である彼に出会ってその考え方が少し変わったと言っていた。

人の数だけ考え方があって、人の数だけ生き方がある。彼女が昔言っていたことも、今の考え方も、私の考え方も、正解も間違いも多分ない。その考え方を貫き通して今も彼女が結婚も出産もせずにいたってそれは間違いでもなんでもないはずだから。この前の飲み会に参加していた私と同じように未婚のちーちゃんは、このまま生涯独身でいるのだと決めているらしかった。その考えも、間違いなく一つの正解だ。

そして結くんの考えも。早く結婚がしたいと願う私の考え方も。どれが正しいとか間違いとかじゃないから誰も責められない。


「で、あんたは彼氏と別れるか別れないかで悩んでるってわけね」

「まぁ、はい。そうです」

「悩むくらいならさっさと別れなよ」


バッサリ。そう言い切った彼女はもう話は終わりだとでも言うように残りのパスタを一気に平らげた。私はその様子を何も言わずに見守る。彼女は最後の一口をごくりと喉を鳴らして飲み込んだ後、眉を顰めて言葉を続けた。


「別れるか別れないかどうしようって迷いが出てる時点でもう先はないでしょ」


好きだからって価値観や考え方が合わなかったら、二人で頑張って合わせていくしかないし、無理ならもうやっていけないじゃん。呆れたような顔をしてそう吐き捨てるように言ったよっちは、すぐに優しい表情に切り替えうとうとし始めた子供に声をかけ抱き抱える。その切り替えの早さと潔さが彼女の良いところなんだけれど、それでも私はぽかんと口を半開きにするだけでうまい返事ができなかった。


「大体ね、こうして誰かに相談みたいに話持ちかけて慰めてもらおうってのがダメなのよ。わかってる?あんたは大人しいフリして、たまにかなり自分のことしか考えてないことあるからね」


ピシャリと言い放ったよっちは、完全に眠りについた娘の背中を一定のリズムで叩き続けていた。

なんでかクタクタになった。もう夜ご飯は食べなくていいや。なるべくすぐに寝たい。重い体を動かしてサッと軽くシャワーをする。髪を乾かしたりなんなりをして、七時。まだまだ寝るには早すぎる時間だけど、それでももうやることも、何かをする気力も残ってない。

悩むくらいならさっさと別れなよ。そう言った彼女の言葉がのしかかっていた。苦しい。その言葉も、それにうまく反論できなかった自分も、迷いが出る時点でもう先はないのよという更なる彼女の言葉に心のどこかで少し納得しかけてしまったことも。

全部全部忘れて寝たい。睡魔はまだまだ私のことを襲う気はないらしいけど、無理矢理目を閉じた。思考回路にも全て蓋して。

目覚ましをかけずに寝れるだけ寝てしまったことに冷や汗をかきながら飛び起きた。寝過ぎて体がだるいなんて、休日ならまだしも今日は出勤日だ。慌ててスマホを確認すると充電をしないまま寝てしまったから電源が落ちてしまっていた。バクバクと鳴る心臓を押さえながら部屋の時計に視線を移す。視界に入ったそれが指し示す時刻は午前六時。ここから職場までは徒歩で行けるから、私はいつも七時に起きる。なんだ、まだまだ大丈夫じゃん。焦って損した。

昨日の記憶はしっかり夜の七時から閉ざされていた。十一時間も寝てしまったのか。悩みが多いと眠れなくなるんじゃないのか。意外と呑気な自分の脳みそに笑った。虚しい笑い声が朝日に紛れる。寝過ぎたのと昨日の夜何も食べていないのとで随分とお腹が空いた。いつもよりゆっくりと丁寧に支度をする。

今日は結くんは休みか。つまり職場で会うことはない。それに安心感を抱いてしまった自分にまた少し落ち込んでしまった。


「……結、くん?」

「お疲れさん」


いつも通りの時間に職場を出ると、信号を渡ってすぐのところにあるガードレールに腰掛けながらスマホをいじる結くんの姿があった。顔を上げた彼は薄く微笑んで「近年稀に見るアホ面や。珍しいもん見た」なんて揶揄うように言いながら私の隣に並ぶ。どうしてここにいるの、と疑問を抱く私の心を読んだように「昨日の夜からずっと連絡取れんし、なんかあったんかなぁって思って顔見にきました」なんて言って、「元気そうなら良えけど」と私の顔を覗き込む。

家を出るまでに充電しようと思っていたスマホは、差し込み口がうまく接続されていなかったようで全く充電できていなかった。それに気がついたのは家を出る時で、朝からついていないと落ち込んだものだ。職場で充電してきたけど、今日はカバンにしまい込んだまま一切取り出していない。職場じゃ常にマナーモードだから、避けていたわけではなく本当に気がついていなかった。


「ごめん、全然スマホみてなくて」

「そんなんは全然ええよ」

「心配してくれてありがとう」


笑ってみせた私に返すように結くんもニッと笑う。けれど次の瞬間、彼の口から飛び出した言葉に私は目を見開くことしかできなかった。


「この前、俺が酔っ払って帰ってきた時伊吹さん俺の部屋に居ったんやろ?」


その確信めいた言い方に、違うよなんて言葉は返せなくて黙り込む。視線を彷徨わせた私に「伊吹さんは考えとることわかりやすいし、嘘が下手。俺もやけど」と言いながら、私の左手を掴んだ。


「最近ずいぶんよそよそしい態度取るなって、思ってました」

「そんなことないよ」

「なんで帰ったんですか?」

「鍵、本当に職場に忘れてて、結くんのとこに取りに行ったの。だから帰ったんだよ」

「……日付変わっても俺の部屋居ったのに?ほんまに鍵取りにきただけ?」


彼の真っ直ぐすぎるくらいに真っ直ぐな刃のように鋭い視線が私に向けられる。喉元にそれを突き当てられたみたいに声が出せない。ピリついた空気に掴まれた手が震えた。


「すみません、責めたいわけではなくて」

「…………」

「このままここで話すのもアレやし、とりあえず伊吹さん家行っても良えですか?それとも俺の家にします?」

「……私の家、で、いいよ」


ん。と小さく頷いた彼に手を引かれて歩く。いつだって昼間の太陽の熱を吸い取ったみたいに彼の手のひらはあったかくて、こんな夜でも変わらずポカポカとしている。じんわりと温まっていく触れ合ったそことは反対に、体の芯は冷えていった。

あの三人のうちの誰かに私があの時居たことを聞いたんだろう。きっと遅かれ早かれバレていたことだ。こんなにも早いなんて思ってはいなかったけど。

心の中を整理して、近いうちにしっかりと話し合わなきゃって、ちゃんと思ってた。私たちのこと。これからのこと。




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