Secretsomething going on between us

どうも気分が晴れない。駆け込んだトイレの個室の壁に背中を預けながらため息をついた。吐き出した空気と一緒にもやもやとした気分も体から抜けていって欲しいのに、なぜか余計に疲れた気になるから、ため息を吐くと幸せが逃げるというのは間違ってはいないと思う。

なんでこんなにもイライラとするのか。その原因はもうわかっている。

最近隣の部署の先輩がやけにこっちに顔を出す。と、言っても用が全くない訳ではなく、理由はちゃんとあるにはあるのだけど。けれどあからさまなのだ。態度が。それに、それは自分で解決できるんじゃない?という些細なことまでわざわざ全部聞きにくる。私が勝手にピリピリしてるからそう思ってしまうだけかもしれないが。

もう一度、個室内に響き渡るくらいの大きな息を吐いた。ああ、疲れる。精神が特に。もう動きたくもないけれど、こうして仕事を抜け出すみたいにここに来てしまったことに罪悪感が湧いてきて、億劫になりながらも再び体を動かした。

あの人はもういなくなったかな。定時まではあとたったの三十分。今日はこの調子じゃ残業にはならないだろうから、もう少しの辛抱だ。


「あっ、苗字さんきたきたー!」


ふわっと長い髪の毛を揺らし振り向いたその女性は、私には到底出せないような可愛らしい声で私のことを呼んだ。げ、という感情が表情に出ないように必死に取り繕う。何ですか?と至って普段通りに返事をして、そそくさとデスク前に戻った。


「近々ご飯に行こうって話してたんですよ!苗字さんもどうですか?」

「……すみません、私そういうのはあんまり」

「大丈夫ですよ、黒尾さんもいるし。こっちからも何人か参加予定ですけどみんな優しい人たちだし」


大丈夫かどうかはこっちが決めることで、そっちが決めることじゃないでしょう。そうは思っても口には出せず、考えておきますとだけ言って無理やり笑顔を作った。

わかりました、一応参加の方向で人数調整させていただきますね。この後私が断り辛くなるようにそう言って、また彼女は可愛らしく首を曲げ微笑む。ふんわりとセンスの良い柔らかな香りが舞った。


「……また来てたんですかあの人」


入れ違いで戻ってきた後輩が、彼女が消えていった扉の向こうを嫌そうに睨んだ。綺麗な顔が台無しだ。敵意を隠そうともせず、「どうせまたくだらないことで来たんでしょ」と呆れたような声を出した。


「今回は何だったんですか」

「企画の資料関係だから、特にくだらなくはないんだけど」

「私と黒尾さんに、ご飯に行きましょうってお誘い付き」

「ハァ!?私誘われてないんですけど!」

「いなかったからでしょ」

「いないタイミング狙われたんですよ!!」


悔しそうにする彼女に「そっちの方がいいじゃん」とため息混じりに言って、まだ少し残っていた仕事を再開する。ドカッと音を立てながら隣の席についた彼女は、「何で苗字先輩が誘われて私が誘われなかったのか、簡っ単に検討つくんですよ」と苦虫を噛み潰したような顔をした。


「先輩には彼氏がいて、私にはいないからでしょ。あいつきっと連れてくる女全員彼氏持ち選んで来ますよ。そうすれば自分以外はほぼ狙えない状況作り出せますもん」

「そんな……合コンでもないんだし」

「飲み会なんて無条件で出会いの場でしょう!」

「コエー」

「何呑気に怖がってるんですか!今狙われてるの黒尾さんですからね!?」

「……ですよねー」


疲れたような顔をしながら頭を掻いた彼が、参ったねと小さく言って息を吐く。そのままそこでその会話は終了して、各々残りの仕事を片付けることに徹した。心の奥底に仕舞い込んできたはずの感情を少しずつ抑えられなくなってきている事に気が付かないようにするためには、他の何かに集中するしかない。


――――――――――


ダンッと激しい音が鳴り響いた。私が強くロッカーを閉めた音だ。物に当たるなんて情けない。あのトイレに逃げ込んだ日から四日が経った。金曜日。本来ならば明日は休みだと喜ぶべき日だろう。いつもならこのまま鉄朗の家へと向かうけど、今日は自分の家に帰ることにした。

気分が乗らない。それに、今の心境で行っても何事もなく平和に休日を終えることは出来なさそうだと思ったからだ。

あの人はこの四日間もしっかりきっちり顔を出した。何度も何度も。鉄朗も鉄朗だ。相手の考えを悟っているのに突き放さない。仮にも今現在共同で仕事をしているから突き放すまでは出来ないにしても、もう少しくらいは離れてくれてもいいんじゃないか。……いや、彼は彼でしっかりと適切な距離も取っているし、あからさまな態度を取られると困ったように言葉も濁してくれている。

彼を責めるのは違う。鉄朗は悪くは無いのだ。彼が言い寄られているのを私がただ不快に思っているだけ。だけど拭えない。そんな曖昧な態度じゃ彼女も控えたりはしない。鉄朗が相手にしていないことはわかっていても、どうしたってもやもやする。

こんなこと、本当は考えたくない。けれど思ってしまう。鉄朗から離れて。その人は私のなのだ、と。

いつもは寄らない最寄駅にある百貨店の地下で、何か美味しいものでも買おうとフラフラしてみた。しかし、いいなぁと思うものは多々あれど購入に踏み切るまでのものにはなかなか出会えず、手ぶらのまま店内を後にすることとなる。結局こうなるならもっと早く帰るんだった。こんなことにさえ気分が落ちてしまう。やることなすこと全て上手くいかない。


「ただいま」

「……おかえりー?」


誰もいないとわかっていてもただいまと言ってしまうのはもう癖で、返事は返ってこないはずだ。なのにしっかりと声が飛んできた。慌てて顔をあげると、真っ暗な部屋の中で鉄朗が座り込んでこっちを見ていた。


「……え、何で」


ここにいるの。何で電気つけてないの。こんな時間までずっとそこにいたの。言いたいことはたくさんある。手元のリモコンでやっと電気をつけた彼は、そのまま立ち上がって私の目の前に来た。


「今日はこっちに帰っかなーって思って、先回り。でも部屋明るかったら入ってこない可能性あんじゃん?」

「……何それ」


お互いに部屋の合鍵を持っているから、ここにこうして鉄朗がいることは別にいいのだけど、でも今はまた別の問題がある。鉄朗から離れたかったからあっちに行かなかったのに、彼がこっちにきたんじゃ何も意味がないじゃないか。私のその考えも全部わかってる様子で鉄朗はそのことについてはあえて触れようとせずにいつも通り行動しだす。私の部屋に置いてある彼の服に着替えて、脱いだスーツを余っていたハンガーにかけた。

動揺しながらも、私もいつも通りを意識する。いつものように二人でご飯を食べて、いつものように交互にお風呂に入る。会話も、態度も、変にならないように。

一通りのことを終えて、二人並んでゆっくりと一日の終わりを楽しんだ。テレビでは人気の女優が芸人にいじられながら面白おかしくトークを繰り広げていて、鉄朗はそれを見て楽しそうに笑っている。私は内容がうまく頭に入ってこなくて、ぼーっとする頭でただひたすら画面を見つめていた。

どうしても集中しきれない。ここ最近の私を蝕む醜い嫉妬心。茶化すように流すことも出来ず、可愛く拗ねること出来ず、鉄朗に直接嫌だと言い出すことも出来ない。溜めに溜めた黒い感情がドロッと流れ出てくる。とても不快だ。拭っても拭っても消えていかない。

ぽんと頭の上に置かれた手のひらに肩が跳ねた。驚いて横を向いた私に鉄朗が「ビビりすぎ」と笑って、ゆっくりと覆い被さるように影を作る。

彼のこの優しい声も、少し甘えるような態度も、それでいて甘えさせるような手つきも、流れも、全ていつも通りだ。

いつも通りだけど、普段はしない心のざわめきが体の中心から溢れ出てきて渦を巻く。頭の上の手のひらがあたたかければあたたかいほど、私の中の感情はさらに深く濃い黒へと姿を変えていく気がした。唇と唇が触れ合う寸前、少しでも動けばすぐにでも重なるほどの至近距離に差し迫った時、思わずいつもはしない行動に出た。


「……ごめん、今日はそういう気分じゃない」


彼の胸を押した。私なんかの力じゃびくともしないはずなのに、素直に彼は遠退いていく。俯いた私に彼は何も言わずにまた頭の上に手を置いて、そしてゆっくりと立ち上がった。テレビからは未だに女優と芸人のトークと笑い声が響いていた。

きみが好きだから息をしている

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