Secretsomething going on between us

平均そこそこの女が、大男をズリズリ引きずって歩く大変さをどうか解ってほしい。

おかわりいれてくるね。私は先程マグカップを手に取り、後ろから抱え込むように抱きつき私の肩に顎を乗せ、同じようにテレビを見ていた鉄朗に声をかけた。

鉄朗は「ん」と短く言ってお願い通りに腕の力を緩め解放してくれる。と、思いきや、私と同時に立ち上がって再び覆い被さり「やっぱ俺もいく」なんて言って歩き出したのである。


「重いから。すぐ戻ってくるし待っててよ」

「んー。やだ」

「子供みたいなこと言わないで」

「子供でも何でもいーです」


大きな大きな、デカすぎる子供に眉を顰めてわざとらしいため息を吐いた。それでも怯まない鉄朗は、私が嫌がるのをわかっていてこうしているんだろう。全くもってタチが悪い。

彼は他人を甘えさせるのがとても得意だ。この人になら頼ってみてもいいのかも、なんてついつい思わされるところがある。実際に彼も甘えられるのは好きなタイプだ。その性格故に男女や立場を問わず彼は好かれているのだろう。

さらに甘えるのも妙に得意なのだ。甘えられるだけ甘えられて終わりではないのが彼の賢い部分であり、そしてとても狡いところである。ただ、彼は甘える相手をとても選んでいる。そんな気がしている。本当に心を許せる一部の人間。少しワガママな彼が垣間見える時、私は「あぁ、許されているんだ」と嬉しく感じることがある。

つまり、付き合う前の私がまだ鉄朗にとってのその一部の人間にはなりきれていなかった頃は、彼が実はこんな感じだなんて全く思っていなかったのだ。

私にとって憧れの、仕事が出来て頼りがいのある素敵な上司。もちろん今でもオフィス内ではその姿も印象も変わらないけど、彼は、家の中では想像以上の甘えたがりな彼氏となった。


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「珍しいですね、先輩」

「うーん。ほんと、何やってんだろ」


朝から小さなミスが続いていた。昨日も定時間際に書類に不備が見つかってヒィヒィ言いながら残って修正したし、ここ数日不調続きなのだ。新人期間はとっくのとうに終えているのに、こうも些細なミスが続いていては後輩に示しもつかないし、私を信頼して色々仕事を振ってくれている先輩方にも迷惑をかけてしまう。

顔を手のひらで覆うようにして大きなため息を吐いた。落ち込んでいても何も解決にならないし、どんよりしているとそれがまた更なるミスに繋がってしまうこともわかっている。

なんとか気分を切り替えて、午後からはもっとしっかりしなくては。気合いを入れるようにフゥともう一度短く息を吐いた。と、同時にちょんちょんと肩を叩かれ、その方向へと顔を向ける。


「久しぶりにランチデートしよーよ、苗字さん」


俺奢ってあげるし。そう言ってゆっくりと歩きだした後ろ姿を見つめていると、チラッとこちらを振り返って「あぁ、彼氏持ちにデートって言って誘っちゃダメだったか」と少しだけ困ったようにその人は笑った。


「元気だしなよ」


注文を終えた彼は頬杖をつきながら私のことを見る。俯き加減に目を合わせない私にニッと口角をあげて、そして彼はなぜかケラケラと面白そうに笑い出した。


「慰めてくれるんじゃないんですか」

「なになに、苗字さんは慰めて欲しいの?」


細められた瞳がゆったりとした弧を描く。その何処か楽しんでいるような様子に私はまた口を閉ざして、膝の上に置いた手のひらをぎゅっと握りしめた。


「……そんなんじゃないですけど」

「ソレ、言うと思った」


ニンマリと笑みを深めた彼は、すぐに届いた定食に「いただきます」と手をつけ始める。早くしないと冷めちゃうよなんて言いながら器用に鯖をほぐす彼につられ、私も慌てて箸を取った。


「苗字さんが入社してすぐの時もさ、こうやってたまに一緒に飯食ってただろ」

「はい」

「いーっつも素直じゃないの。先輩らしく慰めてあげよって思ってんのに頑固に意地張ってさ。そんなんじゃないですって」

「……よく覚えてますね」

「あれ?苗字さんは忘れちゃった?」

「覚えてますよ。……毎回すごく助かってたので」


満足そうに頷きながら彼はぱくぱくと食事を進める。当時を思い出すと今でも少し恥ずかしい。

いつだったか。あれは確か入社して半年ちょっとの時だ。今となっては新人時代にやらかしたミスとして笑い話に出来るけれど、あの頃の私にとっては全く笑えなかった出来事があった。

その日も彼はこうして昼休みに私をランチへと誘ってくれた。そして私に他愛もない話をした。よくある「俺も新人の時そういうことやったよ」だとか「これも経験の一つとして今後に繋げられるようにしよう」とかいう話ではなく、「昨日のあの番組見た?えっ苗字さん見てないの?すげー面白かったのに。今流行ってるあの芸人がさぁ」なんて、学生の昼休みのようなノリで、全く仕事とは関係のない話をし始めたのだ。

直接言葉で言われるよりも、「気にしなくていいからな」と言ってくれているのが伝わってきた。私を必死に励まして無理やり前を向かせるのではなく、ただその程度のミスなんてこっちでどうにでも出来るから気にせずに行けと、言葉はなくともしっかりと訴えかけてくるのだ。

頼りがいのある上司を演じることなく、頼りがいのある様を見せつけてくれる。この人の元にいれば大丈夫なんだと思わせてくれる心強さと、この人もいるんだからこんなところで挫けていたらいけないという前向きさを私はそこでしっかりと得られた。

大して興味もない昨夜放送されていたらしいバラエティ番組の、よくわからない芸人の面白かったらしい話を聞きながら静かに涙を流した。時々我慢できずに声が漏れることを気にすることもなく、不意に求められる相槌の声がどんなに湿っていても揶揄うこともなく、彼は話を止めずに笑いかけてきた。

通い慣れているんだと言って連れてきてくれた、会社の近くにあるのに穴場と呼べる小さな定食屋の、他の席からは位置的に見えづらい、少し奥まった一番端の席。今いるこの席で。


「もうあの時みたいに苗字さんはぼろぼろ泣かなくなっちまったけど、こうやって二人で飯食うのは懐かしくてなんか良いな」

「部下がミスして落ち込んでるのを良いなって思わないでください」

「それもそうか。すまんすまん」


ごちそうさま。そう言って手を合わせた彼は、私の方を見て「あんま気負いすぎんなよ」と小さくこぼすように言った。私はその言葉を掬い取るように、お皿に残った鯖をかき集めて口へと放り込んだ。

日替わりの定食は毎回内容が変わるけど、確かあの時も鯖味噌だった覚えがある。口に入れると少ししょっぱくて、クセの強すぎない優しい味。舌でほぐれる柔らかいそれは飲み込むと同時にじんわりと体内に広がっていく。


「黒尾さん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「どーも」


誰がどこで見ているか分からないから、会社の近くでは外でもお互いを苗字で呼びあう。二人きりでご飯を食べているのに敬語なのがどこか違和感があった。私が目を真っ赤にしながら番組の話を聞いていたあの頃はこれが普通で、違和感なんて少しも感じなかったというのに。

当時とは関係が変わった私たち。それでも変わらないものがある。私は彼にとってはまだまだ手のかかる部下で、私にとって彼はいつまでも頼り甲斐のある優しい上司なのだ。

いつも飄々としていて、どこか不思議なオーラが漂っていて、軽快な口調で言葉巧みに交渉を進める。誰に対しても分け隔てなく接し、その場の空気を読み、上司も部下も彼のことを気に入っている。

この鯖味噌定食は、家ではベタベタとくっついてくる甘えたがりの彼氏だけれど、会社では人一倍周りを気にかけながらそれぞれの距離で声をかける、憧れの上司である鉄朗と一緒に食べるからこそ、いつもよりうんと美味しく感じることが出来るのだ。

泣きたくなったら僕を呼んで

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