発言者である後輩の視線の先には、シンプルなシルバーのリングがあった。キラキラとした瞳でそれを見つめる彼女に、悟られない程度に居心地の悪い顔を向ける。
これは今日付け始めたものではなく、二週間ほど前からずっと付けているものだ。きっと彼女はもっと早くから気がついていたのだろう。その目はやっと聞くことが出来たと満足げに弧を描いている。
いつか来ると予想はしていたけれど、いざこの質問が投げかけられると対応に困るものだ。しかし見える部分にこうして自らつけている以上、誰かに聞かれてはまずいというものでもないので、焦っているわけでも、もちろん怒っているわけでもない。
私はあまり職場で自身の恋愛話をすることはなかった。話を振られれば、気兼ねない同性同士の飲み会や、同僚とのランチタイムに多少は話す。それでも付き合っている相手のことをペラペラと喋ることはしない。
「え、あ、うん。そうだよ」
自身の右手薬指に付けられたそれをそっと隠すように触れた。オフィス内でも外さなくて良いようにと彼氏が買ってくれた、シルバーのシンプルなリング。
私の若干上擦った声での受け答えを気にすることもなく、後輩は控えめに薬指を彩るそれを見つめながら「私もそういうの欲しいなぁー」と口を尖らせ呟いた。
「苗字さんの彼氏さんは見たことないけど、話聞いてる限りすごく優しそうじゃないですか」
「……うん。まぁ」
「何ですか?今の間。実は優しくないんですか?」
「いや、優しいよすごく。本当に」
定時を過ぎたとはいえ、ここはまだオフィス内だ。私たちの仕事は終わっているが、まだ仕事中の人たちもいる。もうこの話は今は良いでしょ。わかりやすくそんな態度を取ってみせるも、後輩は臆せずガンガン話を進めてくる。
気まずい感情をなるべく表には出さないように努めながら、後輩から投げかけられる数々の質問に当たり障りの無いように答え、デスクの上に散らばったままの資料を整理した。
後は外に出てからにしようと声をかけようとしたちょうどその時、先に帰り支度が終わったらしい後輩が、私の奥の席を見るように立ち上がった。
「苗字さんって、なんだかいつも幸せそうで羨ましいと思いません?」
急に話を振られた相手は、視線を書類からこちらへと向け、「なになに、苗字さん幸せなの?」なんて少し嫌味ったらしくニヤけた顔で聞いてくる。後輩がそれに対して「あのリング彼氏からもらったんですって」と私の代わりに丁寧に説明していた。
「へー、良いじゃん」
「ですよね」
「それ選んだ彼氏センスあんね」
「羨ましいですよね!ね、黒尾さん」
うんうんと同意し合いながら会話を続けている二人を横目にさっさと支度を終わらせ、失礼しますとそそくさと席を立った。それと同時に後輩が駆け足で後ろを追いかけてくる。
お疲れ〜と気の抜けるような声を出し、ヒラヒラと手を振った上司にペコリと一礼して足早にオフィスを後にした。視線を落とした右手の薬指の付け根には、今もしっかりと銀色に輝くリングが控えめに華を添えている。
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「たーだいま」
「おかえり」
私よりもだいぶ遅く帰宅した鉄朗は、はぁーと小さなため息を吐き、首をほぐすようにゆっくりと左右に揺らした。
どうだった?という私の質問に、どうもこうも付き合い酒はこれっぽっちも楽しくねーよ。と疲れたように答えた彼のジャケットを受け取り、シワにならないようにハンガーにかける。
「あっつ」
「とりあえず着替えれば?はい水」
「サンキュ」
アルコールが入って熱った頬を手のひらで扇ぐようにして、彼がソファにドカッと勢いよく座る。受け取ったコップを傾けながら、コクコクと音を響かせ喉仏を上下させた。
「っちー、もう夏じゃん」
「今日そんなに言うほど暑くないけどね。珍しく飲み過ぎ?」
「そーかも。新人くんがガバガバ注がれててさ、さすがにヤバそうだったからちょっと頑張っちゃった」
「良い上司としてまた株上げたね」
「やっぱ?ボクもそう思います」
だるそうにしながら片手でワイシャツのボタンを外していく。三つほど外したところでパタパタと襟元を仰いだ。はだけたそこからチラリと覗く鎖骨に沿って垂れるチェーンの先には、控えめに存在を主張するシルバーのシンプルなリングがあった。
「何見てんの」
「別に」
「見てただろ」
「見てただけだよ」
「えっちーの」
笑いながら私のことを引っ張って、覆いかぶさるようにして抱きかかえた。いつもより高い体温の、いつもより早い心臓の音がダイレクトに伝わってくる。アルコールの匂いがほのかに私の元へ届いた。
「……苗字さんって、なんだかいつも幸せそうで羨ましいと思いません?」
わざとらしく耳たぶを甘く噛みながら、低い声で囁いてくる。瞬時にゾワリと粟立つ私の肌をツゥーっとなぞるように人差し指で柔く触れた。
「どうなんですか、苗字さん」
直接顔を見なくてもわかるくらいにニヤニヤとした、愉しそうな声を出した鉄朗が、チュッとわざとらしいリップ音を立てながら頬に唇を押しつけそう聞いてきた。
「幸せそうに見える?」
「どーだか」
「鉄朗にはそう見えないのかな」
「いや?幸せそうだなぁと思いますよ」
「ほんと?」
「当たり前。だって俺が名前といて幸せだし」
「なにそれ、鉄朗が幸せなら私も幸せなの?」
「笑うなって、言ったこっちが恥ずかしくなんだろ」
今更?なんて言いながら体を回して向かい合った。覗いた彼の鎖骨に手のひらを添える。カチッと音が鳴って、そこにあるシルバーのそれと私の右手薬指に鎮座するそれが重なり合った。
「ずっとそう思っててくれて良いよ」
愉快そうに口角を上げた鉄朗が満足そうに微笑んだ。首を伸ばし、軽く一度口づける。唇同士が離れたその瞬間、今度は鉄朗が首を曲げ、もう少ししっかりとしたキスを落とされる。
後輩が指摘してきたこれは、実は毎日彼のシャツの下にもサイズ違いの同じものが存在しているのだ。でも誰もそのことを知らない。私と鉄朗の二人以外は。
「んあー、もう動きたくねー」
「シャワーだけでもしてきなよ。汗が落ちれば少しは涼しくなると思う」
「名前と一緒に入るか」
「え、いいよ私は後で入って湯船洗うし」
「やーだ。名前いないともう今日は動けないから一緒にきて」
逃さないとでもいうようにギュウギュウと太く長い腕で締め付けてくる。どう足掻いても私の力では抜け出せない強すぎる抱擁に、呆れた顔をしながら短く息を吐いて、「甘えんぼ」と笑ってやった。
「ちがうちがう、酔ってるだけ」
珍しくふにゃりと力の抜けた笑い方をした。彼の目尻が緩く下がる。顔を埋めた首元からは、ほんのりとしたアルコールに混じってわずかな汗の香りがした。
彼は、会社では私の尊敬する、誰からも人気の頼れる上司である。そして家では、少しズルくてだいぶ甘えたな、私の大好きな彼氏である。