2021年8月9日
「飛ばすからしっかり捕まってろよ」
「安全運転でお願いします」
学生の頃から変わらないノリで接してくれる二人に、来てくれてありがとうとお礼を告げれば、二人とも笑いながら「高杉が日本で頼るのは俺たちだってこと見せつけに行ってやんないとな」なんて揶揄うように返された。
窓の外に流れるこの街の、この国の景色を目に焼き付けるように眺める。もう一生ここには来ないなんてそんなことは決してない。それでもやっぱり寂しいものは寂しかった。生まれてから今までずっと暮らしてきた国を出て、文化も言語も何もかもが違う場所に拠点を移す。向こうに行くことに抵抗も後悔もない。でもとても勇気と覚悟のいる行為だ。
私には徹がそこにいるという一つの安心要素があるけれど、徹は十代で、単独でこの決断をしたんだと思うと改めてその決意の強さを実感できる。
「というか高杉さん荷物それだけ?」
「うん。必要なものは全部事前に送っちゃった」
「はー……その身一つでほんとに及川んとこ飛び込んで行っちゃうのね」
「今荷物ないだけであっちにいけばちゃんとあるけどね?」
夏休みで人も多く、ざわつく空港の中を三人並んで歩いていると後ろから不意に名前を呼ばれた。振り返ればそこにはお父さんとお母さんがいて、二人はなぜか私よりも浮ついた表情で徹くんどこ!?と挨拶もそこそこに彼の居場所を尋ねてくる。
「チームの人たちと来てるはずだからまだ合流できてないけど」
「早く会いたいわぁ」
「メダル見たいメダル」
「こんなところで無理に決まってるじゃん何言ってんの」
娘の旅立ちだというのに、そんなことよりも徹に会いたいとミーハーな反応を示す二人に松川くん達は笑っていた。そのタイミングでスマホが鳴る。表示された名前に私よりも素早く気がついたお母さんが、「早く出て!」と急かしてくるのを少しだけ鬱陶しく思いながら受話器マークをタップすると、そこから聞こえてきた「あ」という声と全く同じそれよりもクリアな声が反対側の耳からも聞こえた。
「いたいた!お久しぶりです」
「久しぶり〜!ずっと見てたわよ!!すごかったねバレー」
私たちの元へとたどり着く前に両親に捕まった徹が、その勢いに驚きながらも対応している様子を少し離れた場所から三人で見ていた。高杉の親凄ぇわと笑った花巻くんに、でもあのくらいじゃないと娘もこうやって育たないでしょ、なんて言って松川くんはニヤリとしながら顔を覗き込んでくる。私はあそこまで図太くはないよと呆れながら言い返せば、二人は「なんか言ってら」と私の方を見て可笑しそうに笑った。
「マッキーとまっつんも、来てくれてありがとね」
スッと現れた徹に肩を引かれ、彼の横へと移動した。「そうやってこれみよがしに見せつけんのやめてくださーい」と顔を顰めた花巻くんを、「最後の最後まで心狭いから」と松川くんが宥める。それを聞いていた徹が「こんな時までそういうこと言って!!」と二人に突っかかっていくのを見て、いつまでも変わらない三人に私も自然と笑顔になった。
「高杉、いつでも帰ってきていいからな」
「及川に飽きたらいつでも呼んでね。すぐ行くから」
「帰さないし、飽きさせないよ!」
「じゃあ二人とももし私が飽きられたら面倒見てね」
「「任せろ」」
「ちょっと何言ってんの!?飽きもしないってば!」
刻一刻と搭乗時間が迫る中、こうして寂しい気持ちも忘れてしまうくらいに笑わせてくれる二人は、徹だけじゃなく私にとっても大切な友達だ。
お母さんとお父さんも、元気でやりなさいよと最後まで明るく送り出してくれた。きっと定期的にこっちにも顔を見せに帰ってはくるけど、それでも頻度はガクンと落ちてしまうし、そんなに滅多には来られないはずだ。なるべくたくさん連絡するね、父さんとお母さんも遊びにきてねと手を振って、最後の挨拶を交わした。
今から、私はこの日本を出てアルゼンチンへと向かう。出国ゲートの姿が見えなくなるギリギリまで手を振ってくれるみんなに、私も精一杯大きく手を振った。隣ではそんな私を笑って見守る彼がいる。私のものとは色の違うパスポートを持って。
「まだ搭乗までは少し時間あるけど、どうする?」
「どうしようか」
出国審査を済ませた途端に、何だか急に寂しくなった。両親も花巻くんたちももういない。まだここは日本だけど、出国の手続きをしてしまったから日本ではもうない。
怖さは無いのに何故か心細くなる。そんな私の心境を察してか、徹は優しく手の平をあわせて私の方をゆっくりと見た。人がまばらな空港の端。大きな窓の外には飛行機が何台も連なっていた。
背の高い徹の顔を見上げると、眉を下げゆっくりと口角が持ち上げられる。その優しすぎる表情に私はまた泣きそうになってしまった。僅かに心の中に生まれてしまった心細さが一瞬にして全て拭われたから。
「心」
真剣な表情。しかしとても柔らかい。この人にならついていける。ついていかせて欲しい。そう思えるあたたかな存在。
「これまでずっと耐えてくれてありがとう」
「……徹も、本当にずっとありがとう」
「来たよ。日本に。約束通り」
全員倒して、そんで心を連れて帰る。一年前の彼の言葉を思い出す。その宣言通り彼はこの国に再びやって来た。大舞台に立って、こんなにも素晴らしい活躍を見せてくれた。
「もう本気で帰す気ないけど、覚悟できてる?」
「当然。帰る気もないよ」
「うん。じゃあ、行こう」
重ねられていた手をしっかりと握り直す。繋がれた指先に力が込められた。離す気も、離される気もない。これから先何があったって、私は彼の隣で彼のことを見続けるのだ。
「っわ……っ!!」
「ほら早く!!」
バタバタと空港内を駆け抜ける。こんなところで走ったら危ないよと口に出す余裕もない。楽しそうに前を行く徹は少年のような笑顔で、私が彼のことを初めて見た時と何も変わらない顔つきだった。
「徹……!」
「言ったでしょ!連れ去るって!」
「迎えに行くとは言われたけど連れ去るなんて言われてないよ!?」
「あれ?そうだっけ?まぁいいじゃん!俺はずっとそういうつもりだったし!」
悪戯に笑いながら駆ける徹を止めようと、自分に出せる全力の速度で近づいて背中に飛びついた。驚いた徹が「わっ」と声をあげバランスを保つように足を止めた。
「こんなことして搭乗禁止くらったら笑えないよ」
「それは大変だ」
スッと大人しくなった徹の背中にしがみついたまま息を整える。後ろを向こうとした徹に待ったをかけて、こっちは見ないようにと指示をした。
「徹」
「ん?」
「……これからはずっと一緒にいれるんだよね」
「うん」
小さくこぼした私の声をしっかりと聞き取って返事をした徹は、こっちは見ないでと言ったのに、私の腕を振り解き後ろに体を向けた。眉を顰める私にブハッと吹き出すように笑って、私の顔を隠すように抱き寄せる。
涙を我慢して顔を真っ赤にする私の耳元に唇を寄せて、ははっともう一度息を漏らすように笑った徹が、「これからはどこに行ったってずっと二人でいよう」と小さな小さな声で私だけに聞かせるように囁いた。
「そろそろほんとに行こっか。搭乗禁止じゃなくても間に合わなくて乗れなかったら恥ずかしいからね」
「その前に及川徹様〜どこにいますか〜ってアナウンスかかるよ。徹の名前わかる人、この空港内にもういっぱいいるんじゃない」
「それは本気で恥ずかしいやつ!チームメイトも監督も同じ便にいるんだけど!絶対笑われる!」
「ははっ」
「笑ってないで急ぎ足で行くよ!!」
せかせかと歩き出す徹の手のひらをもう一度握りしめた。それに気がついた彼が同じように握り返してくれる。
すたすたと進む徹の横に同じ速度で並ぶためには、私はほとんど走ったような状態になってしまう。でもそうしないと彼にはついていけないのだ。私はいつだって彼のためになら走っていられる。徹の足を私が止めることは許されないからだ。
アメリカで一度乗り換えて、ブエノスアイレスからさらに乗り換えが必要となる。今から三十時間以上もかかる。こことの時差は十二時間。昼と夜とが真逆な世界。さらに季節も真逆だからあっちについたら寒いんだろう。言語も環境も何もかもが違う場所に行く。生まれ育ったこの国を出て。
『いつかあったかい所に引っ越したいなぁ』
『どこそれ』
『……南の方?』
『雑なんだけど』
高校生の時になんとなくした会話が全部繋がるだなんて想像もしていなかった。その時思い描いていた場所がどこだったかは忘れたけど、アルゼンチンではなかったことだけは確かだ。きっと沖縄だとか、海外だとしてもハワイとかその辺りだっただろう。
でも、世界中のどこだとしたって、例え凍えてしまうほどに寒い寒い場所だったって、私はきっと徹がいるならついて行っただろう。
「あっ!せっかくの免税なのに色々買い込むの忘れてた!」
「何買うの!?もう時間ないよ!?」
「え〜新しいファンデ欲しかった〜」
「そのくらいあっちで買ってあげるから!!」
「アメリカでのトランジットがあるからそこで買えばいいのか」
「そうじゃん」
「欲しいものとブランドちゃんと全部まとめてきたの」
「……え、何その期待するような目。俺が買うの?」
「今買ってくれるって言ったよね」
「ホントちゃっかりしてるよね!別に全然いいけどさ!?」
宮城よりもあったかい南の方。国内でも海外でも、遠く遠く離れた地球の裏側でも、徹が行く場所に私も行く。
もうずっと昔から、どこにでも行く覚悟はできてた。徹と一緒なら、そこがどこだって構わない。