まよなかのうみ・2



「海、っすか……?」

「うん、行こうよ」


突然そう言われて来てみたはいいものの、今日に限って仕事が長引いてしまったために目的の場所に着いたのはもう日付を超える直前だった。なまえさんは砂浜をフラフラと歩き、そのままそっと腰を下ろす。ザザンと少し荒い音を立てた波は、この暗闇の中じゃ遠くまでは見えない。


「寒くない?」

「オレは平気ですけど、なまえさんは寒くねーんすかそんな格好で」

「大丈夫。…………でもやっぱり、ちょっと寒いかも」


八月の終わりといえど海から吹いてくる風は水気を帯びていて若干冷たい。静かに座り前を向くなまえさんの瞳にはなにが見えているのか、ここからじゃ何も把握できなかった。

なまえさんは時々こうして静かに考え込んでいる。昔からなにを考えているのか掴みづらい猫みたいに気まぐれな人だが、意外にもしっかりしていることも知っている。他の人たちの前では笑顔を絶やさない常に明るい人だけれど、ある日を境にオレの前ではたまにこういう顔をするようになった。

貼り付けたような無表情。定まらない焦点で朧げな瞳を僅かに揺らしているその姿を見る度に、いつか野良猫みたいにフラッとどこかに行ってしまうのではないかという不安が頭を過ぎって、落ち着かない気分を掻き立てられる。

思わず衝動に駆られるようになまえさんの隣へと腰を下ろした。勢いをつけすぎて周囲に砂が舞う。少し驚いたようにこちらに視線を寄越したなまえさんは、そのまま「どうしたの」なんて波に攫われてしまいそうな小さな声を出した。


「それはこっちのセリフです」

「……私はどうもしないよ」

「じゃあなんでそんな顔してんすか」


暗闇の向こうの、さらにその奥を見ている。いったいどこを見ているのか。光もなにもないここから海を見ても、今の時間じゃ黒が広がるだけでなにも見えやしないのに。


「千冬くんはさ、なにも考えたくないなぁってとき、ない?」

「そんなのしょっちゅうっスよ」

「そうなの?」

「そうすよ」

「……そっかぁ」


クッと下唇を噛んだ姿を確認して、前を向いた。前を向けば視界には手前に打ち寄せる波とその奥に広がる黒しかなくなる。なまえさんの顔は見えない。苦しそうな震える息遣いも、時々漏れる小さな声も、鼻を啜る音も、全て波音がかき消していく。

慰めるとは少し違う。励ますとも少し違う。弱っている彼女の背中をさすることも、その頭に手を置いて撫でることも、今のオレに与えられた使命ではないような気がしたから、抱えられた膝にかかったなまえさんのものにしてはずいぶんと大きな黒いパーカーを奪って、そっとその細い肩にかけてやった。


「ありがとう」

「さすがに風邪引きますよ。なまえさんに何かあったら、オレが怒られるんで」

「ふふ」

「笑い事じゃねーんすよ、なまえさんが絡むとマジで怖いんですからね」


口元に手を当て頬を緩めるなまえさんの手先までを覆う大きなパーカーは、冷たくなったなまえさんの身体を包み込み暖める。ひゅうっと一段と大きく風が吹いた。思わず目を瞑る。「やばい」なんて楽しそうに笑いながら髪を押さえる彼女は先程までの不安定さはどこに行ってしまったのか、すっかりいつも通りの明るい表情に戻っていた。


「千冬くん」

「なんですか」

「呼んだだけ」

「はぁ……?」


ケラケラと笑いながら立ち上がったなまえさんが、こんな時間に本当にごめんねと申し訳なさそうにオレを見下ろす。オレもゆっくり立ち上がって、別にいいすよなんて言って、オレよりも背の低い彼女を見下ろした。少しだけ鼻先が赤いままのなまえさんがオレを見上げる。「帰ろっか」と言ったその表情は見慣れたふにゃっとした笑顔で、こんなことを言ったら失礼だから口には出さねぇけどちょっとアホっぽい。


「途中で寝ちゃだめだよ」

「さすがに運転しながらは寝ませんよ。なまえさんは眠かったら寝てていいっすよ」

「私は千冬くんが寝ないようにずっと喋りかけてるから大丈夫」

「……え、別にそんなことしてくれなくていいんだけど」

「まぁまぁ遠慮せずに」

「いや、してねーし」


ザクザクと砂浜を踏みしめ歩く。砂が絡み付いていつもよりもだいぶ重く感じる足元とは裏腹に、気分はなんだか軽かった。

彼女の突拍子のない提案にはもう何年も頭を悩まされてはいるが、それを面倒だと思うことはあれど嫌だと思ったことはない。オレはいつまで経ってもこの人らに振り回されっぱなし。たまに勘弁してくれと言いたくなることもあるが、ずっと変わらない関係でいられるってのは案外良いもんだ。

もう日付もとっくに変わってしまった時間にこんな場所にいるだなんて全くどうかしてると思いながらも、こんな風に時間にも立場にも囚われずに好き勝手生きていた学生時代を思い出して懐かしく感じた。

なまえさんは本当にオレが寝ないようにずっと話しかけてくれるつもりらしく、助手席に座りながら、この前たまたま見たっていうドラマの話や、客と話した内容や、オレに隠れて一虎君がやらかしてたことなど絶えず楽しそうに話し続ける。いつもなら対向車すら滅多に来ないような誰もいない夜道なんかは飛ばして走るけど、今日はそのBGMに耳を傾けながらゆっくり車を走らせた。

もう体を冷やす冷たい風はこの車内には吹かない。けれど彼女を包み込む大きなパーカーは、今もしっかりと彼女のことを温め続けている。



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