まよなかのうみ
海が見たいだなんて夜中に何度もかかってきた電話で無理矢理起こされた。
ここに着いてからもう数十分が経過した。ザザァと静かで激しい波の音が真っ暗闇に響く。ここらにはオレたちの他には誰もいねぇし、街灯でさえも離れた場所にしかない。砂浜のど真ん中に突っ立ったままのオレの視界には、2m程前に腰掛けるなまえのシルエットがぼんやりと浮かんでいるだけで、それ以外にはなにもなかった。
「飽きねぇの」
「うん」
いつでもどこでもうるせぇコイツがこうも静かだとどこか落ち着かない。膝を抱えながらただ前を向き、暗闇の奥でぼんやりと揺れる波を見つめる視線の先を辿る。暗すぎて水平線すらもうまく認識できない。
夏だといっても風の強い夜の海辺は随分と冷える。寒くねぇのと聞いてみれば先ほどと同じくうんと短い返事のみが返ってきた。
「……やっぱりちょっと寒い」
「どっちだよ。んな格好で来るからだろ」
わざとらしくため息を吐きながらなまえに近づき、同じように隣に腰を落とす。昼間は素足で立つことすら出来ないほどに日光で温められているはずの砂浜は、陽が落ちて随分経った真夜中の今は驚くほどに冷たかった。
二人の間に空いた僅かな隙間を埋めるように近づいてきたなまえが暖をとるように寄りかかってくる。潮風に晒されっぱなしの細くて頼りねぇ肌の面積を少しでも少なくしてやる為に、腕を回して半分覆うように引き寄せてやった。
お互いに真っ直ぐ前を向いているからこんなに近くにいるのにその表情まではわからない。常に何を考えてるのか解らねぇコイツの思考は、もちろんここでこうして二人きりでくっついてたって解るわけがなかった。
ただ、コイツは周りの奴らが思っている以上に普段から割といろんなことを考えていて、能天気そうに見えながらもしっかり周りを見ているし、他人や自分の状況を意外にも冷静に判断している。空気は読まねぇけど読めねぇわけでもない。でもコイツも自分で思っている以上にやっぱりバカだから、時々こうしてキャパを超えて理由もなくパンクしては訳もわからず途方に暮れている。
パンクの理由も何もわかんねぇからこそ、それがまた不安を加速させていく。そんなクソみてェな悪循環。きっと誰にだって経験あんだろ。
考えても仕方ねぇことはどんだけ考えても仕方ねぇ。うだうだ考えずに寝るのが一番だとオレは思うが、どうやらなまえは違うみてぇだ。こういう時に海が見たくなるだなんていうコイツの気持ちはオレには全くわかんねぇ。けど、なまえにとっては、心を無にしてひたすら暗闇の中で打ち寄せる波音に耳を傾けることが、いっぱいいっぱいになって濁りかけた思考回路を透明に戻す一番の方法らしかった。そういうことならオレだってコイツの気の済むまで付き合うしかない。静かな夜の海が見たくなる気持ちはわかんねぇが、こうしているとなんとなく気持ちが落ち着くのにはオレも共感できる。
「成績とか、進路とか、人間関係とか、周りの目とか、他人の気持ちとか、なにも考えずにいれたらいいのになぁ」
「考えなけりゃいいじゃん」
「そういうわけにいかないんだよ、困ったもんだね」
「考え過ぎじゃね」
「そういうくせにバジは意外としっかり考えてるじゃん」
「オマエほどでは無ぇよ」
もぞもぞと動いたなまえがうずくまるようにして体を預けてくる。サラサラと風に踊る髪の毛が首元を優しく掠ってくすぐったい。たった十数センチの距離なのに、一秒たりとも止むことのない波の音に息遣いすらもかき消される。潮の匂いに混じって嗅ぎ慣れたなまえの香りがほんのりと漂う。不意に発せられた「圭介」とオレの名前を呼んだその声は、蚊が鳴くほどの小さな音でも波音に攫われることなくしっかり捉えられた。
「なに」
「呼んだだけ」
「ンだよ」
「…………」
「なまえ」
「なに」
「呼んだだけ」
口を尖らせながら顔を上げたなまえの額を軽く指で小突いた。先にやったのはなまえだろうが。ポスンともう一度オレの肩に頭を埋めたなまえの肩が小刻みに揺れる。堪えきれず漏れてきたいつも通りのアホみたいな笑い声に、知らぬ間に強張っていた体から力が抜けた。
「帰るか」
「うん」
「途中で寝んじゃねーぞ」
「じゃあ私が寝ないようにずっと話しかけてて」
「は?テメーが一生喋りかけてろ」
進む速さは同じなはずなのに歩幅の関係で歩数はオレよりなまえの方がずっと多い。砂浜を踏みしめる二人分の足音は、歩きづらいと文句を垂れながらもずっと笑い続けているなまえの声に存在感を奪われる。
バイクを停めていた近くは街灯に照らされていて、ここに来てやっとお互いの表情がはっきりと見える。最後に見た時よりも明るくなった顔にほんの少しだけ安心しながら、念のためと思って持ってきていたパーカーをなまえに投げつけた。
「着とけ」
「いいの?」
「寒ぃって言ってただろ」
ぶかぶかなそれを羽織ったなまえが後ろに跨る。オレの腰に腕を回し、しっかりと捕まったのを確認して、いつもよりゆっくりと静まり返った道を走った。
一生喋りかけてろとは言ったが、コイツは本当にそれを実行する気らしい。止まることを知らないなまえのくだらねぇ話をBGMに、二人で風を切って同じ帰る場所を目指す。
「たまにはさっきみたいに静かになってみやがれ」
「え?何か言った!?うまく聞こえないんだけど!!」
「ウルセーって言ってんだよ」
「えー!?」
「バーカ」
「悪口反対だよ!!」
「痛って、なんでそういうのだけは聞こえてんだおかしいだろ」
「なにー!?」
「もういいから勝手に喋ってろ!」
「そうするー!」
よくわかんねぇ不安の塊は波の音と共にどんどん遠ざかっていって、やがてどっかに消えていった。寝静まった街には相変わらずバイクの音となまえの声だけが響く。なまえが笑うたびに背中から伝わった振動が徐々に波紋のように全身に広がっていって、左胸の奥の柔らかいところまでをも揺らした。
真夜中に叩き起こされるのは勘弁してほしいが、たまにはこんな夜も悪くはねぇ。