東京に来て、慣れないことがあるとすれば道がわからないことくらいだ。一人暮らしなわけではなかったけれどほとんど同じようなものだった私の生活は、住む場所が変わっただけでやることは特に変わっていない。元々友達だっていないから知り合いがいないということに不安を感じることもないし、退屈だと思うこともなかった。

MSBYブラックジャッカルのサイトを開いて、新しく加入したメンバーのプロフィール欄を見る。そこに宮くんがいることが嬉しくて、事あるごとにサイトを開いてはその存在を確認した。それが今の私の日課であり、日々のやる気を出す唯一の方法だった。


「筑波さん、だよね?ここ座っていいかな」

「うん、いいよ」


大学に入ってすぐに、偶然隣の席に座った子と少しだけ交流を持った。どこまで親しくなれば友達と呼べるのかをよく知らないから、友達と呼んでいいのかは今のところ判断できない。ころころと表情を変えて、可愛い顔立ちをした女の子。優しい彼女は事あるごとに私に話しかけてはたわいもない話をしてくれる。ほとんど相槌を打つだけだったけれど、彼女の話を聞くのは新鮮で楽しかった。


「好きな人が出来たんだけどね、告白しようか迷ってるんだよね」

「そっか」

「振られたらどうしようって思うとなかなか勇気出なくてさぁ、みなちゃんはどう思う?」

「後悔のないようにすればいいと思う」

「……もし振られたら慰めてくれる?」

「うん。いいよ」


週に一度だけの講義の前後にしか話さない子。だけど、そんな私でも、いや、そんな私だからこそなのか何でも話してくれる彼女は表も裏もなくて接しやすい。距離感を測ることは確かに未だに慣れてはないけれど、もともと話すこと自体が苦手な訳でもないし、ただ一人でいることを自ら選んでいただけの私は、こういう交流も良いものだとまた新しい発見をした。

翌週「付き合うことになった!」と笑顔で報告してきた彼女に、素直に「おめでとう」と告げた。嬉しそうな彼女の笑顔を見て、治くんと付き合い始めたあの彼女もこんな顔をしていたことを思い出した。

それから一ヶ月近くが経ったある日。いつもの講義が終わった後のことだった。


「筑波さん、これから少し時間ある?」

「次の講義まで間があるから大丈夫だけど、どうかしたの」


少しだけ元気がない。最近は話しかけられることも少なくなって、こうやって顔を合わせるのも久しぶりな気がする。付き合ったという報告を受けてすぐは楽しそうな様子だったけれど、今の彼女はどう見てもそんな感じではなく、どちらかと言えば落ち込んでいるように見えた。

大学内にあるカフェテラスで二人で向かい合う。こういう時はどんな言葉をかけたらいいんだろう。うまい話の切り出し方が思い浮かばなくて必死に頭を回転させた。どうしようかともたもたしているうちに、頼んだレモンティーに口をつけてそっとテーブルに戻した彼女がこちらを見て口を開いた。


「彼氏と別れる」

「……そう」

「うん。私のこと好きじゃないっぽい」

「……そうなんだ」


重いため息と共に吐き出された言葉は、予想していたものと一致しそうでしなかった。もしかしたらうまく行っていないのかもしれないと心配していたけれど、そんな理由だったとは。


「一方的なのって、辛いなって。まだ一ヶ月だけどさ」

「後悔しないならいいと思うけど」

「………このまま頑張ってみてもなんだか好きになってくれそうもないし。バレーボールに打ち込んでるの見てたらずるずる見込みもなく関係続けても意味ないかなって」


突然出てきたバレーボールという単語に黙り込むと、「相手のこと考えて言ってなかったけど、彼、バレーの選手なんだよね」という言葉と共に以前撮ったという二人の写真を見せられて心臓が跳ねた。

綺麗な金髪、笑うと少し目尻が垂れるところも変わってない。それもそうか、まだ離れてからたった二ヶ月しか経っていないんだ。記憶の中と全く同じ彼が、目の前の彼女のスマホに記録されている。肩を並べて笑う彼女は今と違って幸せそうな顔をしていた。


「………相手のこと、もう少し信じてあげたら?」

「えぇ?うーん、それももちろん考えたんだけど……」


あぁ。なんだろうこの感じ。心の奥底に木枯らしが吹いたみたいな。冷たい空気が勢いよく舞い込んでくるように体の芯が冷えた。

宮くんのこと、もう少しだけ信頼してあげればいいのに。まだ一ヶ月なのに。もっと時間をあげればいいのに。

さっきまで後悔しないならいいんじゃないかと背中を押していたのに、一気に変わってしまった考えを自覚して少し悲しくなった。宮くんの肩を持って、途端に彼女のことが考えられない。そんな自分が嫌になった。最低だ。彼女のことをもしかしたら友達と呼ぶのかもしれないなんて思い始めていたけれど、そうではなかった。彼女のことを考えられない私が彼女のことを友達だなんて呼ぶ資格はない。


――――――――――――――――――


「…………宮くん?」


小さく名前を呼んだ。話しかけるかかけまいかを悩みに悩んで。彼と会うのはあの卒業式の日が最後だったはずだ。それなのに今私の目の前には彼がいる。気づいて。気づかないで。


「宮くん」


少しだけ震える手のひらを押さえつけて、もう一度はっきりと名前を呼ぶ。恐れている暇なんてない。今目の前で項垂れている宮くんのことしか考えられない。


「宮くん!」


後悔しないようにすればいいと、彼女たちに言ったのは私だ。ならば私も後悔しないように行動する。震える手を伸ばして宮くんの頭の上に置いた。触れたふかふかの髪の毛がぺしゃっと潰れて、それと同時に驚いた宮くんが勢いよく顔を上げる。目が合った。手の震えはいつの間にか止まっていた。事態をまだ飲み込めていない宮くんは数秒黙り込んだままだったけれど、小さな声で確認するように口を開いた。


「…………幻覚、なわけないよな?」

「本物だよ」

「どうしてここに」

「ストーカーじゃないよ。偶然見つけちゃった。こんなところで俯いてる背の高い金髪は目立つよ」


ごめんね宮くん。初めて嘘をついたよ。偶然見つけたなんて嘘。彼女が今日ここで会うって言ってたから、来ちゃった。バレないように明るく笑いながら宮くんの横に腰掛けた。


「また落ち込んでるの?」


ゴクリと音を鳴らした宮くんの喉仏のあたりをチラッと横目で見た。未だに信じられないような顔をしてこちらを見る宮くんは、私の問いかけには答えない。


「慰めてあげようか」


ニッコリと笑った私を、まるで理解が出来ないというような表情で見ながらもゆっくりと頷いた彼の手を取った。目の前で揺れる瞳がまた真っ直ぐに前を向けるのを願って。


『ずっと強くあり続けるためにはどこかで力を抜かなきゃならない場所も必要だよ』

『………せやな』

『だから、私が唯一の逃げ場になってあげるの。他の人の前ではいつだって強くいられるように』


いつだったか。確か高二の春高のあとだ。彼に言った言葉を思い出した。私は、いつだって強い宮くんの、唯一の逃げ場になる。

六月の初めの生暖かい風が頬を撫でる。もうどうやっても彼に出会う前の私には戻れないことを悟ってしまった。



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