五年前に彼を初めて見かけた時、シンプルに、あぁ良いな。と、そう思った。

私が中学一年生の時。あの日のことは今でもよく覚えている。誰よりも楽しそうな目でボールを追って、誰よりも失敗を悔しそうにしていた。コロコロと変化する表情は見ていて面白くて、それでいて輝いて見えた。


「行くの?治くんのところ」

「うん。ちゃんと、伝えてみる」

「そっか」


人と接すること自体が特別苦手というわけではないけれど、特に必要とは思ってもいなかったからこれといった交流は持たなかった。彼にも決して話しかけることはせず、ただひたすら一方的に目で追うだけ。伝えようとも、報われようとも思わなかった。ただ私が満足のいくように彼を見ていればそれで良い。中学の時に他の女の子たち数人と関係を持っていたことも知っていたけれど、それに悲しむこともなければ、自分もそうなろうと思うこともなかったのだ。


「何してるの」

「っ誰!?」

「今の、さすがにじゃれ合ってたって言い訳じゃ済まないと思うけど」

「…筑波さん、なんでここにおるん」

「たまたま通りかかったら騒がしかったから何事かと思っただけ」


高校に入ってもその考えは変わることはなかった。彼は相変わらず私には無い輝きを放ち続けて、いつだって楽しそうに好きなことに打ち込んでいる。一つだけ変わったことがあるといえば、中学の時のような遊び方はやめたらしいと言うことだ。そして、彼は今はたった一人を見つめているということ。


「ありがとう、また助けられちゃった」


それに気がついたのは、彼自身が気持ちを自覚するよりも、もしかしたら私の方が早かったかもしれない。他の人にはわからないかもしれないけれど、ずっと彼を一方的に見続けていた私は、彼が彼女に向ける優しい眼差しを見逃すことはなかった。バレーボールに向けるそれとはまた少し違う。今までにも見たことのないような慈悲深い眼差し。


「…なんでこんなにやさしくしてくれるの?」

「色出さんのこと、私も大切だと思ってるからだよ」

「…話したこともないのに?」

「そうだね、おかしな話だけど」


私の腕を優しく掴んで引き留めた目の前の女の子は、私には無いものをたくさん持っていた。彼みたいに。良いなと思った。彼に感じたように。彼が大切にしている女の子を、私も大切にしたいと思えた。それが少し嬉しかった。私は彼と同じように、同じ人を大事だと思えている。


「私、治くんのことが好きなの」

「そう」


けれども彼女は彼の双子のもう一人に恋をしていた。私は彼の幸せを願っているけれど、同時に彼女の幸せも願っている。彼女はきっとこのまま幸せになるんだろう。それは嬉しいことだ。きっと彼もそれを望むはず。でも、このままだと彼は幸せにはなれない。

誰もいない教室に一人佇む後ろ姿は、いつも見ている彼よりも一回り小さく感じられるくらいに縮こまっている。泣いているようにも思えるけれど、きっと彼は涙を流してはいない。悔しさとやるせなさを抱えて、それでも大好きな彼女と大切な兄弟の幸せを願った。そんな誰よりも強い彼のその少し震える背中が、やっぱり良いなと、また一層強く思えた。


「宮くん」


バッと勢いよく振り向いた彼は、やはり泣きそうな顔をしながらも泣いてはいなかった。それでもわざとらしく泣いてる?と声をかければ「泣いとらんわ、いきなり失礼なやつやな」なんて強気な言葉を吐かれる。


「失恋?」

「…アホか、モッテモテな俺が失恋なんてするわけないやろ」

「色出さんじゃないの?」

「………何でや」

「宮くん、ずっと色出さんのこと好きだったじゃん」


少し引き攣ったような表情を浮かべながら、今までに聞いたこともないような低い声を発した彼に少しだけ気分が上がった。


「でも振られちゃったんでしょ。うーん、ちょっと違うかな、押し殺したんだよね、自分の気持ち」

「…なんで」

「知ってるかって?見てたから、5年間。宮くんのこと」


ずっと見てきた。それでもまだ見たことのない表情がある。聞いたことのない声がある。私の知らない彼がいる。


「俺が失恋したからそこに付け込もうってか」

「うーん、そうなんだけど、ちょっと違うかなぁ」

「ハッキリせんな、イライラするわ」

「慰めてあげようか。うち基本家に親いないし。目つぶって私のこと色出さんだと思っていいよ」


私にできることなんて何があるのかわからない。これが彼の為になることなのかも。ただ単に私の自己満足なのかもしれない。けれどタイミングはここしかないと思った。私はこうやって密かに彼と接触する機会を無意識に伺っていたのだろうか。関心が無いようでいて、実際はそんなことを心の奥底では願っていたなんて。自分自身に少し驚く。

目に見えてイライラとした様子の宮くんがこちらを睨んだ。ばっちりと視線が合って、また少しだけ気分が上がった。変な女だと思われているんだろう。でも今は自分でもそれが否定できないから、彼のその考えはきっと間違ってはいないのだ。


「もちろん私のこと好きにならなくていいし、付き合わなくてもいいよ。ただ、私が宮くんを慰めてあげる」


人との関わりが極端に少なかった分、私は程よい距離の詰め方もこういう時になんて声をかければいいのかもよくわからない。これからちゃんとそういうことも勉強しなくちゃ。現時点での最善策を考えた上での言動がこれなのだ。これでダメならば今回は仕方がない。


「…なんやねんそれ。笑えな。プライドとかないんか」


初めて目線を合わせた。初めて言葉を交わした。初めて直接彼の名前を呼んだ。そっと伸ばした手のひらに、初めて彼の手が触れた。

悔しそうに歪められた表情が痛々しくて、そのまま手を引っ張って自宅に着くまで後ろを振り向かなかった。見ていないから泣けばいい。それでも泣けないのなら、他の方法で気持ちを発散させればいい。私に無いものをたくさん持っている、憧れ続けた宮くんが崩れないように。私なんかが関わらなくても彼のその輝きは失われないだろうけれど、たった一瞬でも濁ることがないように。

これは、私の人生全てを賭けた、恋と言うにはあまりにも重く、愛と呼ぶにはあまりにも難解な、一世一代の覚悟で挑んだ大勝負の話だ。



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