「もうお店にはこないのかと思った」
「どうして?」
あれからも何でもなかったかのように倫くんはお店に顔を出した。何食わぬ顔で普通に会話をしてくる。このお店のマスターも、ほかの女の子たちも、お客さんも、わたしが倫くんとここじゃない所で、同伴でもなんでもない理由で会っていたことを知らないのだと思うとなんだか気まずい。
倫くんは何とも思ってなさそうに今日もグラスを揺らしながらわたしの話を聞いている。今は店内に人も少ない。尚且つ向こうにいるお客さんと女の子たちはとても話が弾んでいてキャーキャーと大きな声を出して楽しそうにしている。それを確認して「倫くんは気まずくないの?」と問うてみれば、ぱちぱちと瞬きをした倫くんはグラスに口をつけながら「同じじゃん」と笑った。
「………同じ?」
「なまえちゃんだって外で何してたってりんくんのライブに行ってたくせに」
嫌味ったらしく言われてしまえば反論ができない。わたしが何も言えなくなることを知ってて口に出されたその言葉を、受け止めつつも少しだけむくれていると、それを見た倫くんがまた面白そうに笑った。
「倫くんって全然笑わなそうなのにさ、意外と結構笑うよね」
「なまえちゃんの前だからじゃない?」
「そうやってこっちの気分あげるのもうまいよね」
「うん、ありがとう」
「別に褒めてるわけじゃないんだけどなぁ」
平日のまだ少しだけ早いこの時間は普段からお客さんは少ないけど、今日は特別人がいない。さっきまで盛り上がっていたはずのお客さんは延長はせずに帰ってしまって、女の子たちも裏に引っ込んでしまった。今このフロアにいるのはわたしと倫くんの2人だけ。
「そういえばりんくんがさ」
「…………なに?」
並行な眉毛がピクっと一瞬だけ動いた。少しだけピリっとした空気が流れて、言葉が詰まる。思わず口を噤んだわたしを見た倫くんは少しだけ余裕がなさそうに「ごめん、なに?また何かあったの?」と普段と同じ声色で聞き返してきた。
「いや、えっと」
「ちゃんと言って」
「あの時さ、倫くんの顔みたら、りんくん止まったの、何でかなって、思って」
「………あぁ。どうしてだろうね」
またスっと細められた目を見てキュッと手を握りしめた。「あの時りんくんが言った、俺の名前覚えてる?」との問いかけに「すな、りんたろう?」と記憶を辿りながらたどたどしくも答える。正解だとでも言うように頷いた倫くんは、ポケットから自分のスマホを取り出して、何やら自分の名前を検索しだした。
検索ボタンを押した途端にたくさんの記事が出てくる。そこに書いてある文字や、表示される写真を見てびっくりするわたしを見て「これ、俺」と倫くんは言った。
「バレーボール選手……」
「って言っても俺はそんなに露出ないし、バレーファン以外にはそんなに知名度ないけどね」
この近くの大きな会社だから、所属の社名だけは聞いたことがあった。差し出されたスマホをするすると動かして記事を読む。倫くん、すごい選手じゃん。思ってもない知らない情報が溢れ出てきて頭が混乱する。ヒットした動画サイトに上がっているリンクを押すと倫くんのプレーのハイライトが再生された。倫くんが打ったボールが激しく地面に落ちて会場が盛り上がっている。実況の人も興奮しながら倫くんの名前を叫んでいた。
「驚いた?」
「……………びっくりなんて、もんじゃないよ」
やってしまったと思った。冷や汗が流れる。倫くんはそのままでも思わずハマってしまうくらい危険なオーラをだしてる不思議な人だと思っていたのに。まさか。
「俺のグッズ買ってくれてもいいよ」
「………悪質」
推しの存在がアイデンティティなんでしょ?と怪しく笑う倫くんは随分と楽しそうだった。嫌だ。けど、ドキドキした。ワクワクもした。人はそんなに思考も生き方も変えられないから。せっかく部屋を片付けたのに、何だかまたいろんな物で溢れてしまうんじゃないかと心配になった。
「もう帰るね」
「もう?さっき来たばっかりなのに。寂しいな」
「今日はちょっと早く帰ってやることがあるんだ」
「だから今日はお酒じゃなかったんだね」
一緒にエレベーターのところまで歩いて手を振った。倫くんはいつもと同じように「この後も頑張って」と声をかけてくれる。
「じゃあ、またね」
扉が閉まりきる直前にかけられた言葉はいつもと少しだけ違った。バイバイではなく、またねと言われるのは何だかムズムズする。また次があるんだって期待しちゃう。そういうさりげない一言にいちいち左右されてしまうのが少し悔しい。これを狙っているのかはわからないけど、倫くんならそうであってもおかしくないなと思って、またギュッと苦しくなった。
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退店と同時にメッセージが届いた。真冬の夜の寒さに震えながらかじかむ指先でスマホを開くと倫くんの名前が表示されている。こっちから何かを送ることはあっても、あっちから送られてくることはそんなにないから珍しいな。トーク画面を開いてメッセージを確認する。目に入った文章に体がブワッと熱くなった。
『お疲れ様。もう終わった?この後平気なら家おいで』
思わずにやけそうになった顔を隠した。誰に見られるわけでも、ライブ終わりのように周りにファンの人たちがいるわけでもないのにヤバいと思って鞄の奥にスマホを隠した。もう癖になってしまっているその仕草に自分で笑ってしまった。救いようのない癖だな。あんなに後悔したのに、また同じことを繰り返す。だけど止められなかった。『いまから行くね』と返信をして、ここからそう遠くない倫くんのマンションを目指した。
「いいの?店の外で会っちゃってさ」
「呼び出したのはそっちだよ」
「そうだね」
扉を開けながらクツクツと喉を鳴らすように笑った倫くんが「寒いでしょ」とわたしの肩を抱いて中に入れてくれた。部屋の中はあったかくて、外の空気で冷やされた身体がぶるっと震える。はい、と手渡されたホットミルクに口をつけた。ふかふかの黒いソファは座り心地が良い。ポスンと隣に腰掛けた倫くんは珈琲の入ったカップを片手に何も言わずにこちらを見ていて、それがなんだか気まずくてホットミルクを一気に口に入れた。
「砂糖とか入れたほうがよかったかな」
「ううん、平気」
「気分次第って言ってたもんね」
「…………そんなことまで覚えてるの?」
珈琲や紅茶もいいけど、寒い夜はホットミルクを飲むなんて話を前にしたことがあった。「なんかホットミルクって白くてあったかくて可愛いから」なんていう自分でも呆れるような理由。それを伝えたら倫くんが「くだらねぇ」と馬鹿にしたように笑ったのを覚えている。少し砕けた口調の倫くんがわたしには新鮮で、ちょっとだけびっくりした。
テーブルにカップを置いて、やっと暖かくなった体をぐっと伸ばす。「お疲れ」とわたしの頭にポンと手を置いた倫くんがそのまま肩に手を回して、ぐっと自分の方に引き寄せた。コツンと倫くんの肩にわたしの頭がぶつかる。硬くてゴツゴツとしたそこは服の上からじゃあまりわからないけれど、とても筋肉がついているのが触れるとよくわかる。
線が細いのに意外にも体格が良いなんて狡すぎやしないかと倫くんの顔を見上げると目があった。「なに」と呟いた顔がこちらへと近づいてきて思わずギュッと目を瞑る。五秒くらいして耐えられないとばかりに吹き出すように笑った倫くんが、眉をひそめながらゆっくりと目を開いたわたしを見てさらに大きく笑った。
「ひどい」とむくれたわたしの頬をひと撫でした後、カップを台所のシンクへと下げてこちらへと戻ってきた倫くんが「ノコノコまた着いてきて、痛い目見たのにまだ分からないんだ」とわたしの手を取りながら呟いた。
「倫くんは、りんくんと一緒なの?」
「さぁ、どうだと思う?」
「……………」
「冗談だよ」
「こっちおいで」と引き寄せられて、大きな体に抱き抱えられる。背の高い倫くんは座ってもわたしの頭は肩にしか届かない。そのまま後頭部を抱えられると倫くんの肩で視界が真っ暗になって、他になにも見えなくなった。
そうだ、と体を伸ばした倫くんがテーブルに置いてあった小さな封筒から一枚紙を取り出して見せた。それは一枚のチケットで、バレーボールの試合のものだった。
「ちょうどこの近くであるんだ、おいでよ」
「でもわたしバレー全然知らない。中高でやった授業の知識しかないよ」
「今はそれでいいよ」
「でも……そんな中途半端な感じでいっちゃっていいのかな」
「いいんだよ。それにいずれきっとなまえちゃんも好きになるよ」
推しが好きなものはなまえちゃんもちゃんと好きになってくれるでしょ、と抱き抱えられてベッドへと運ばれる。ぼふっと音を立てて二人して倒れ込んだ。ソファと同じくふかふかなそこにゆっくりと身体が沈んだ。
大きな手がゆっくりと頭を撫でる。倫くんの胸に頭を預けて、そっと背中に腕を回した。ピッと電気が消されて「おやすみ」と告げられたわたしは思わず「えっ」と小さく声を出した。
「もう寝ちゃうの?」
「寝ないの?最近練習激しいから結構疲れてて、俺もうだいぶ限界なんだけど」
「いや………こんな時間に呼び出されたから、てっきり」
そこで言葉を止める。倫くんの少し伏せられた目に見下ろされて動けなくなった。温度のない表情のまま、スッと片方の口角を上げた倫くんが口を開いた。「りんくんは、これで終わらなかった?」と冷たい声が吐き捨てられた。チラッと覗いた舌に視線を搦め捕られる。喉の奥がヒュッと鳴った。
「相手の恋愛歴とかそんなに気にしないタイプなんだけどさ」
「……………」
「そうやって思い込んじゃうくらい染み込んでるの見ると、さすがに過去の男でもウザイね」
倫くんはそう言いながら、本当に軽い挨拶みたいなキスを額に落とした。そのまま抱き抱えられて視界が真っ暗になる。耳のすぐ近くで囁かれた「早く忘れな」というたった一言がジワジワと身体中を巡った。麻酔を打たれたみたいに思考回路が麻痺していく。
倫くんの体温と匂いに包まれて、その暗闇の中で目を閉じた。