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「治くん!」

「……色出さん。どしたん?」


廊下を歩く治くんを見つけて思わず声をかけた。ゆっくりと振り向いたその表情はいつもと変わりなくて少し安心する。駆け足で近づいて、背の高い治くんの顔を見上げると、少し驚いたようにしてフッと目を逸らされてしまった。


「なんか用か?」

「……用事がなきゃ、話しかけちゃいけないの?」


少し突き放すようなその返事に、どうしても私も同じように返してしまう。本当はもっと違う言い方がしたい。だけど、シュンと萎んでいく心と強ばる体が無意識に私をコントロールして、気持ちとは裏腹に冷たい言葉を放ってしまう。

ドキドキと高鳴る心臓は決して良い意味なんかじゃない。話せるのは嬉しいのに、何て言われてしまうか心配で、あの日侑くんと怒鳴り合いの喧嘩していた時に感じたのとはまた違う?怖い?という感情に襲われる。そんなこと、思いたくないのに。


「私、何かしたかな」

「何もしとらんよ」

「……じゃあなんで最近避けるの?」


そ、れは……。と言葉を詰まらせてさらに目線をそらされてしまう。恐る恐る一歩近づいて、そっと手を伸ばしてみた。大きくて太い腕に触れようとしたその時、スっと後ろへと体を引かれた。空気を掴んだ指先はひやりと冷たいまま。

ゆっくりと視線をあげると、不安そうに揺れる治くんの瞳がこちらを見下ろしていた。固く一本に結ばれた口が開くことはない。「いきなりごめん」と小さく謝ってみれば、「こちらこそ」なんてよそよそしい返事が返ってくる。


「治くん」

「………」

「私の事、嫌いになった?」

「っそんなことあらへん!!!」


焦ったように叫んだ治くん。突然の大きな声に驚くと、「すまん!」とさらに取り乱したようにわたわたとしながら、あーとかうーとか唸り出す。ガシガシと頭を掻きながら体を縮こめて「あかん、あかんあかん!」とブツブツと言っている治くんに、「え、どうしたの?大丈夫?」と声をかけると、バッと顔を上げた治くんが「っ色出さん!!」とさっきよりももっと大きな声を出して私の名前を呼んだ。


「ぅえ!?何!?何でしょう!」

「あ、の………」


名前を叫ばれると共にガシッと強く握り締められた左腕が少しだけ痛い。けれど、そこから感じる治くんの体温が今はただ嬉しい。


「えっと、んーと………あんな」

「大丈夫、ゆっくりで大丈夫だから」

「………俺、色出さんと離れたない」

「うん?」

「せやから、あと一週間待って!」

「い、一週間?」

「そしたら俺、もう大丈夫やから」


そん時全部話すから、だから待っとって。と真剣な表情でそう言った治くんは、じゃあ俺部活やから!と走って行ってしまった。突然のことで頭がついていかない。驚きと、久しぶりに触れた治くんにバクバクと高鳴った心臓はなかなか治らない。

一週間。あと一週間我慢すれば、治くんと元通りになれるのだろうか。治くんとこうなってしまった理由はわからないけれど、あの感じから察するに、どうやら何かの理由があるだけで嫌われてはいないっぽい。良かった。ほっと胸を撫で下ろして、私も荷物を取りに教室へ戻ろうと後ろを振り返ると、ポツンと少し遠くの方に人影があるのに気がついた。


「筑波さん?」

「……ごめん、職員室に用事があって。聞くつもりはなかったんだけど」


少し困ったような表情をこちらに向けた筑波さんは、誰にも言わないからと言葉を続けながら、綺麗な髪の毛をひらりと揺らしてこちらへと歩いてくる。

職員室はこの廊下を抜けた先にある。こんな所で話していた私たちが悪いのだから気にしないでと声をかければ、綺麗な顔で「ありがとう」と笑った。


「前にも思ったけど、私、筑波さんってもっと笑わない人なのかと思ってた」

「そう?」

「うん。誰かと話すこともしないのかなって。全然そんなことないね」


少し驚いたように目を見開いた彼女は、その綺麗な顔をこちらに向けて「色出さんにそんなこと言われるなんて思ってなかったから、嬉しいな」とまた控えめに笑った。


「さっきの話聞いてたんだよね」

「うん、頑張って」

「うん」


治くんとの関係を元に戻す。そうしたら前みたいに笑って、たくさん話して、あの幸せそうな顔を向けてもらえる。そう思ったら嬉しくてつい口角が上がった。そんな私を見て「よかったね」と微笑む筑波さんは良い人だ。怖いのかなという最初の印象は今はもう全くない。


「私、治くんのことが好きなの」

「そう」


驚くこともせず、私の言葉を聞いた筑波さんはそのまま黙り込む。突然前振りもなくこんな話をしてしまった私が悪いのはわかっている。それでも言いたくなった。


「いきなりこんな話されて困るかもしれないけど」

「ううん」

「私、やっぱり治くんにも伝えてみようかな」


自分の気持ちを伝えるのは怖い。どう返されるかでその後の関係が変わってしまうから。怖い。けれど伝えたい。そうしないと、いつまで経っても関係は変えられないのだ。


「………告白とか、本当に緊張するけど」

「色出さんなら大丈夫だと思うよ」


「後悔しないようにね」と言いながらふふっと優しく笑った筑波さんはそっと私の手を取ってふんわりと指先を包み込んだ。無意識に少しだけ震えていた体からスっと力が抜ける。肺に酸素がきちんと取り込まれて、周りが鮮明に見渡せるようになった。


「頑張って」

「うん、ありがとう」


私も頑張るね。そう呟いた筑波さんは「じゃあね」と前回のように手を振って職員室の方へと向かっていった。

一週間後、治くんが理由を話してくれたとして、元に戻るだけなのは嫌だと思ってしまった。欲が深いとは思う。以前の関係にも満足してるのに。それなのにもっとだなんて。好きな人にしっかり好きだと言いたい。私のことも意識して欲しい。人を好きになると、こんなにもたくさん我儘な感情が生まれてくるんだな。

怖い。けれど、そこから一歩踏み出さなければ前には進めないんだ。




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