15
モヤモヤする気持ちを洗い流すようにシャワーを浴びてもなんだかスッキリとしない。無理やり思考を断ち切ろうと寝ようとしても目はどんどん冴えてくる。
いろんなことを考えすぎて喉が渇いてしまって、部屋を抜け出して深夜の食堂へと向かった。もちろん食堂にはもう誰もいなくて電気もついていない。食べ物はないけれど飲み物ならいつでも飲めるようになっているので、暗い中手探りでコップを探して置いてある麦茶を注ぐ。
ぼーっとしながら暗い中麦茶を飲んでいると、突然背後からガタッと音がして思わず肩が跳ねた。
「あれ?」
振り向くと同じように食堂へとやってきた人が一人。暗い中で顔はよくわからないものの、先ほど発せられた声は治くんのもので思わず全身に緊張が走る。
「なんや、色出さんか。びっくりしたわこんな時間に人いるから」
「お、治くんも。水飲みに来たの?」
「んー。さすがにこの暑さじゃ夜でも喉乾く」
ゆっくりと近づいてきた治くんは私と同じようにコップに麦茶を注いで、壁に寄りかかるように背を預けてこちらを向いた。
「色出さんってバレー下手なん?」
「え!?」
「………さっき言うてたやろ、アイツが」
「梅田くん?」
「ん」
手に持っていた麦茶をグイッと一気に全て飲み干した治くんは、手を伸ばして近くのテーブルへとコップを置くとそのまま話し出した。
「いつの間にそんなに梅田と仲良いん」
「えっと、梅田くんは良い人だから、私にも沢山話しかけてくれて」
「良い人?」
「良い人だよ」
それきり黙ってしまった治くんはもう一度コップを手に取ると再度麦茶を注ぐ。その動作を目で追いながら動けずにいると、元いた場所には戻らずに私の近くへとやってきて、暗くて見えづらかった表情が近づいたことで少しハッキリと見えるようになった。
「あいつ、色出さんのこと好きやで」
私のことを見下ろすように立つ治くんは眉間にシワを沢山寄せて、普段から決して良いとは言えない目つきをさらに悪くさせる。
「…………それはきっとないよ」
「なんで言い切れるん?」
「友達、だし」
「相手はそう思ってへんかもよ」
「…………何が言いたいの」
不機嫌な声色を隠そうともしない治くんはいつもよりも言葉が少し冷たい。結露したコップから流れた水滴が手を通って腕へと伝う。思わずこっちも強い言い方をしてしまって、言った後にしまったと緊張が襲ってくる。
「…………色出さんは」
治くんは再度グッと麦茶を飲み干すと、手を伸ばして私のすぐ後ろにあった棚へとコップを置いた。
私の正面へと立つ治くんが棚へと手を伸ばしたことでぐっと距離が近づいて、少し頭を動かせば彼の胸板と当たってしまいそうなそんな距離に、思わずコップを持つ手に力が入った。
「危機感がないねん」
後ろの棚へと伸ばされた手は、そのまま棚の上に置かれたまま。ゆっくりと視線を上に上げると先ほどよりもさらに眉間にシワを寄せてムスッとした顔の治くんと目が合う。
「……危機、感」
「ない、全然ない」
どうしていいかわからずに視線を左右にせわしなく動かしていると、ハァとため息をついた治くんはもう片方の手も棚へと伸ばした。
両脇に治くんの手があって動くことができない。びっくりして視線を治くんへと戻すと、片手を棚から離して私が持っていたコップを奪い取り、そのまま棚へと戻した。
「お、治くん、近い」
「ん」
「近いって」
「だから?」
「えっと、離れて…」
そっと治くんの胸を押してみるもビクともしない。恐怖なのか焦りなのか緊張なのかわからないドキドキとした心拍が自分でもわかる。
再度グッと押す手に力を入れても状況は何も変わらなくて、それでもこの距離で治くんともう一度目を合わすのも躊躇われて視線を下へと向けて俯いた。
「簡単に閉じ込められとる」
「…………」
「こんな暗いとこで、二人きりで、なんでこんなになるまで何も抵抗せえへんの?」
「こんなことになるとは、思ってなくて」
「こんなん何されても知らんで」
棚に置かれていた手が急に背中に回ってグイッと引き寄せられる。ボスンと音を立てて飛び込んだ治くんの胸板は想像していたよりも硬くて思わず緊張で肩が上がってしまう。
抱きしめられている。治くんに。頭は冷静に状況を判断するけれど、それに気持ちがついて行かない。なんで。どうして。急にどうしたの。いろんな感情が溢れ出てくるけどすべて言葉にできずに消えていく。
体を硬直させたまま何も言わない私を見た治くんは、もう片方の手も背中へと回してギュッと力を入れた。
「お、さむ、くん」
「抵抗せえへんの?」
「え?」
バクバクと激しい心臓の音が治くんに伝わってしまうんじゃないかと気が気じゃなくて。どうにかして静まれ、静まれと思ってみても一向に大人しくはならない。
「嫌やないん?抱きしめられるの」
先ほどまで、いつもよりも少し低くて怒っていたような声だったのに。発せられた声は何だか弱くて。
「他のやつにもこんなんなん」
怒られないように、嫌われないようにと母親の様子を確認する子供のようだった。
「梅田にされても、抵抗せえへん?嫌やない?」
だんだんと弱くなる声色に、ドキドキとうるさかった心臓がギュッと掴まれたような気がして痛い。ギューっと締め付けられるような痛みは苦しいんだけど嫌なものではなくて、経験がないこの感覚に不思議な感じがした。
他の人に。こんなことされたら。
「嫌だなぁ」
「………」
「治くん以外の人には、こんなことされたくないな」
自分でもびっくりするくらいに自然と口から出た言葉は、言った自分自信にも言い聞かせているかのように心に馴染んでくる。
「そか」
「うん」
「なら、ええ」
抱きしめられているせいで顔は見えないけれど、声色からして先ほどのように悲しそうな感じはしなくて。安心したとでもいうようなそんな声に思わず笑みが溢れる。
「腹減った」
「え、今?」
「おん、色出さんなんか持ってへん?」
「今はさすがに持ってないなー」
「え〜、魔法使いなんに、持ってへんの?」
「だからその魔法使いってなんなの」
治くんは腕の力を弱めて、少しだけ距離が離れたためにやっと表情が見えるようになる。それでも離されはしない回された腕の温度を感じ取る背中の熱さが私の頬も熱くさせる。食べ物がなくて絵に描いたようにしょんぼりとした表情を見せる治くんに思わず笑ってしまった。
「あかん、何も食べるもんないって思ったら更に腹減ってきた」
背中を丸めて私の肩に頭を乗せるようにしてすり寄ってくる大きな体が猫みたいで、思わず腕を回してあやすようにポンポンと背中を叩いた。
「明日は朝からいっぱいお菓子用意していくね」
「ほんま!?」
パッと上げたその顔に浮かぶ表情はとても純粋な笑顔で、あぁ、やっぱり、前から思っていたことだけど治くんのこの表情がとっても好きだなぁと思った。
先輩、私たしかに、治くんのこと好きかもしれない。まだ確信はないけれど。だってこんなにも心がポカポカしてこっちまで同じように笑顔になっちゃうんだもん。たった一日で答えが出そうになっていることに少し恥ずかしさはあるけれど、たぶんそうなんだと思う。
たぶん、きっと。そんな言葉が今はまだ付いてしまうけど、もう少し時間が経てばそんな言葉も外れてしまうんじゃないのかなぁなんて思った。