初めての年越し


少し眠そうにする彼女を横目に確認する。両手で抱えたマグカップにはまだいれたばかりの熱いお茶が並々と入っていて、少しでも手を緩ませたらと思うと少しヒヤヒヤした。とろんとした瞳が重く閉じかけ、ベッドの淵に預けていたはずの背中が前へと倒れ込むのと同時に素早くそのマグカップを奪い取った。


「あっぶな」

「……角名くん、ありがとー」


ヘニャヘニャな口調で話す苗字は、こぼす心配も無くなったからかさっきよりも睡魔へ抵抗するのをやめ、ゆらゆらと上体を揺らしながら隣に座る俺に寄りかかってくる。大晦日の、日付が変わる数十分前。朝から張り切って一緒に年越しするんだと騒いでいたのに張り切りすぎて肝心なその時間までに体力使い果たすとか子供かよ。

苗字の部屋の小さなテレビに映し出された画面は毎年恒例の歌番組が先ほど終わりを告げて、新年を迎え入れるための番組に切り替わっていた。すやすやと完全に寝落ちた彼女の肩を引き寄せて、軽く膝にかけられていたブランケットを肩まであげてやる。短く「んー」と唸った後に何かを伝えようと言葉を発していたけれど、俺にはむにゃむにゃとしか聞こえなくて何を言っているのかは一言も理解できなかった。

愛知からここ兵庫へと一人でやってきた俺はもちろん近所に両親がいるわけでも親戚がいるわけでもない。正月くらい実家に帰ったらどうだと言われそうだけれど、俺たちはすぐに春高がある。愛知なんか新幹線に乗ってしまえばすぐに着けるし、日帰りでも行けるけど、それでもこの体をしっかりと休めておきたい春高前最後の完全オフとも言えるこの大晦日と元旦ぐらいは遠出はせずにいたいものだ。

今年も去年と同様年越しとか関係なく普通の日として過ごすのかと思ってたけど、苗字のお母さんが俺のことを誘ってくれて夕飯からずっとお邪魔している。苗字の両親とは何回か地元にいたときに顔を見たこともあったし話したこともあった。俺と苗字は小学校からの幼馴染だから、家族同士で仲が良いとまではいかないけれどお互いの親も顔見知りではある。

苗字は俺と付き合っていることを事前に両親に伝えていたらしく、それを聞いた時は正直父親とはどう接すれば良いのかと頭を抱えたりもした。けれどさすがこいつの家族といったところか、ものすごい勢いで出迎えられ、特に俺たちの話題に突っ込まれることもなくわいわい騒がしく四人で食卓を囲んだ。

苗字のお母さんが張り切ってすき焼きを用意してくれて、それは俺も嬉しかったけど「息子も欲しいと思ってたから楽しいわ」と無理矢理胃に詰め込まないと食べきれないくらいの食材を用意されたのは嘘だろと思ってしまった。あとお父さんもスポーツやってる男子高校生なんだから遠慮なんてしないでどんどん食べろと言ってくれてたけど、残念ながら俺は治みたいな大食いではないから苦しかった。

でも二人とも俺のことを迎え入れてくれてるのは十分すぎるほどに伝わってきて、こうして友達のそれとはまた違う騒がしさに囲まれて食事をするのは久しぶりだったし、疲れはするけどこれはこれですごく楽しかったのも事実だ。

風呂を借りて、またみんなで年越し蕎麦も食べた。あんなに食べたのに入るかなと心配になったけど割とすんなり食べ切ることが出来て一人安心した。けれど、俺が風呂に入っている間に苗字のお母さんが俺の親に泊めることを連絡したらしく、そこで俺と苗字が付き合っていることを打ち明けてしまったらしいことが発覚した。俺はもちろん苗字とのことはまだ両親には伝えてない。次に実家に帰った時になんて言われて揶揄われるか。それを想像すると少しだけげんなりした。

俺の肩に頭を預けて眠る苗字は未だ起きる気配はない。しかし年越しのその時間はもうすぐそこまで迫っている。軽く肩を揺すり名前を呼ぶも、苗字はうんともすんとも言わずに深い寝息を立てるだけ。


「もう年変わるよ」

「ん〜……」

「寝てても良いけどさ、絶対明日起きてたかったって騒ぐじゃん」

「んー、でも眠い……」


もぞもぞと動いてさらに俺の肩に頭を押し付ける。眠いんだったらさっさとベッドで寝れば良いのに。一応は起きていたい気持ちはあるのかそうはしない彼女にため息を吐いて、仕方がないと苗字の肩を掴んで正面に回り込んだ。

床に敷かれた俺用の布団にゆっくり通し倒す。明日起こしてくれなかったと文句を言われるくらいなら無理矢理にでも起こしてしまえ。さすがの苗字もこうすれば焦るだろうと布団に背中を沈めた彼女の耳元に口を寄せて、少しだけ低い声で名前を呼んだ。


「……角名くん?」


何してるの、とでもいうように目を擦りながら俺を見上げる。呑気に首を傾げ、この体勢には何の疑問も持たずに「今何分?」とテレビの方を確認する苗字に、なんでか俺の方が焦ってきた。


「わっ、もうすぐ日付変わる!角名くん、ちょっと起きたいからどいて!」

「……退かない」

「なんで!?もう年変わっちゃうよ!」


苗字の顔の両脇に置いた俺の腕を掴んで訴えてくるけれど、そう簡単にここから動いてやるものか。確かに起こしてやろうとしたのが理由だから、俺の目的はこの時点で果たされてはいるんだけど想像していたのとは全く違う展開だった。別室には苗字の両親もいるし、俺と苗字はまだそういうことはしたことがないから、ここで本気で何かをしようなんてことは全く考えてないけど、それでももう少し恥じらったりだとか焦ったりとかの反応はあっても良いんじゃないのか。

もっと、こう、頬を赤らめて俺のことを見上げるだとか、そんな表情を見られでもすればよかっただけなのに。


「角名くん、聞いてる!?やばいやばい!」

「聞いてる。大晦日だからってその大声は近所迷惑じゃない」

「腕どかして腕!……じゃなかったら這い出る!」

「させるか」


ずりずりと俺から抜け出そうと体を下にずらそうとする彼女の足の間に膝を挟んで動けなくする。あと数分で時計の針が頂点で重なる時間になるが、俺はそんなことはもうどうでもよかった。


「……苗字、何も思わないの」


コツンと額と額をぶつけるようにして、至近距離で視線を合わせる。流石にここまできてやっと俺の体制をしっかりと把握したのか、ずいぶんと遅い自覚をしながら少し上擦った声で「す、角名くん……?」と俺の名前を呼び返した。


「……なんかすごい近いっ!!」

「今更じゃん」


顔を背けることで目の前にやってきた彼女の耳元に唇を寄せる。わざとらしく耳たぶにチュッと音を立てて吸い付いて、そのままフッと息を吹きかけると、苗字は蛇に睨まれでもしたかのように体をカチカチに固め縮こまった。

そうそうこれこれ。この反応が見たかったんだよな。満足げに笑って見せれば、苗字は唇を噛み締めながら気まずそうに赤らんだ瞳をこちらに力無く向ける。揺れるその瞳が俺を捉えて、その後ぎゅっと閉じられた。

あー……なんだかこれ以上はやべー気がする。恥ずかしさからフルフルと小刻みに震える苗字から体を離そうとした時、苗字がもう一度俺の名前を呼んだ。


「角名くん」

「……ん?何?」

「…………」


それ以降何も言わない苗字に首を傾げると、そろそろと俺の首元に腕を回した苗字がゆっくりとその腕に力を込める。もう一度至近距離で視線が交わって、苗字で視界がいっぱいになった。


「苗字……?」

「……あ、のさ」

「何?」

「い、一回だけで良いからちゅーして……」


顔を真っ赤にして、恥じらうように声を小さくしてこっちを見る苗字は、恥ずかしさのあまりか瞳をうるうると湿らせて気まずそうにしている。きっと勇気を出して言ったんだろうに何も反応を示さない俺が怖くなったのか、「ごめん、全然、あれだったら良いから!」なんて言って無理矢理抜け出そうと苗字が体をくねらせてやっと俺は息を吸い込むことが出来た。


「どういうこと?」

「……どういう?って、えーっと……なんか、今年の最後に角名くんとちゅーしたいなぁって唐突に思っちゃって」


ごめん。小さく呟いた苗字が視線を逸らす。ハァと大きなため息を吐くと、何を勘違いしたのかビクッと肩を震わせた苗字がもう一度俺の腕を掴んで「もう日付変わるし、やっぱ起きよ!」と焦ったような明るい声を出した。


「……自分でして欲しいって言ったんだから、ちゃんと最後までしろよ」


ゴクリと息を飲み込んだ苗字の喉の鳴る音が部屋に響いて、テレビから聞こえる楽しそうなカウントダウンの声にかき消されていく。

ちょっとふざけてやろうと思ってただけなのに、まさかこんなことになるなんて思いもしてなかった。俺が苗字に少しの悪戯として仕掛けてやろうと思ってたのに、最終的には自分が知らぬ間に仕掛けられている。

俺の気持ちも知らないで。なんて、先にこうしたのは自分なのに苗字のせいにして。きっとこれからしばらくの間俺は、バレーをしている時以外はこの日の苗字のことで頭がいっぱいになりながら毎日を過ごすんだろうな。悶々とする日々を考えると少しだけ憂鬱になって、気づかれないようにもう一度小さく息を吐いた。

カウントダウンの数字が小さくなっていく。ゼロになる直前で重ねた唇を、ゼロになった瞬間に強く押しつけ直して、新年を迎え騒ぐテレビの歓声を合図に角度を変えてもう一度重ね合わせた。


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