仄かな温もりを感じてゆっくりと目を開ける。見慣れた天井、見慣れた布団、見慣れた家具。いつもと変わらない私の部屋だ。いつもと違うのは、隣に誰かがいた形跡があるわずかな布団のへこみと、そこがまだあたたかい事。


「起きたか、おはようさん」

「おはよ」


キッチンへと向かうと、ケトルでお湯を沸かした北がドリップコーヒーバッグを取り出しているところだった。勝手に漁った、すまんとの声にいいよと短く返す。なかなか覚醒しきらない頭でボーッと北を見る。北は至っていつも通りで、テキパキと忙しなく朝の支度をしている。

まるで昨夜のことなんて無かったかのように。と思ったけれど、すれ違い様にフワリと頭の上に乗せられた。その手に驚いて振り向きその背中を見つめる。早よこっちおいでやと優しく呼ぶその声の柔らかさに、やっぱり昨夜のことは現実なんだと自覚した瞬間に恥ずかしくなってしまって、顔洗ってから行くとひとまず洗面所に駆け込んだ。

北がこの家に来るのは一度や二度ではなかったし、学生時代の合宿だって、この間だって、朝から北がいるということも初めてな訳では無い。なのに以前とは全く違うのだと意識した瞬間になんだか気分がホワホワとしてきて、モノクロ映画がカラーになったみたいにパッと視界が華やかに見える。

まるで学生時代に戻ったかのような甘酸っぱい感覚がなんだか恥ずかしい。この年でこんなことを考えるなんてとも思ってしまうが、それでもそうとしか言いようがない。

北がいる。非現実が、現実になる。


「今日の予定は?」

「何も無い。北は?」

「俺も」


こんな風に二人で隣同士くっついて座りあう未来なんて、来ないと思っていた数年前のあの日。あの日夢に見た世界が、夢ではなくなってしまったことがまだ信じられない。


「じゃあ、今日は二人でゆっくり」


しようか。そう言葉を続けようとした瞬間、私のスマホが大きく震えた。画面を覗き込むと表示されたのは母の名前で、一瞬で思考が現実に引き戻される。

ごめんと手でジェスチャーをしながらその電話に出ると、案の定簡単な挨拶だけした母が「あれから半年経つけどあんたいつ来るん?」「お父さんもずっと待っとるよ」と、こちらが口を出す隙もない勢いで聞いてくる。

それにあーとかうんとか曖昧な返事で乗り切っていると、貸せと私からスマホを奪い取った北が「お久しぶりです、いきなり代わってもらってすいません、稲荷崎高校バレー部で一緒やった北信介です。覚えとりますか?」と挨拶をしだした。

スマホから漏れてくる母の声のテンションが一気に上がって、「久しぶりやねぇ」「どうして信介くんがおるん?」と、先程の私の話なんか忘れたように嬉しそうに話し出す。北と母が電話越しに話しているのが何だか不思議で、びっくりしてそれをしばらく眺めていると、「ありがとうございます、すみません急で。ではまた後ほど、失礼します」と言った北は通話を終了してこちらを向いた。


「支度せぇ」

「……えっ?」

「聞いてなかったんか?今からお前ん家行くから。俺も一旦帰って着替えんとやし、十四時にお前の家の最寄りな」

「………え!?実家!?」


驚いて大きな声を出すも、それに何も言わない北は「じゃあまた後でな」とそそくさと家を出ていってしまった。一人ぽつんと取り残された私は、どういうことだと頭の処理が追いつかないけれど、とにかく支度はしなきゃと混乱しつつも準備を始める。

実家って、挨拶?だよね?何を着ていけばいいんだろう。いくら実家だからといって、適当な服は着ていけないだろう。背伸びをしすぎても変になるし、持っている中で一番落ち着いている綺麗目のワンピースを手に取った。ヘアメイクを施して、少し早めに家を出る。

実家の最寄り駅へと着いたのは待ち合わせ時間の二十分前で、それでももうその場へと到着していた北は落ち着きのあるジャケットを羽織って、普段よりもきっちりとした格好をしていた。


「早かったな」

「北もね」


北の姿を見た瞬間、緊張が襲ってきた。ガチガチに固まりながら北に駆け寄る。バレバレなその態度を一度笑った北は、いつものように左手を差し出してきた。その手を取れば、いつも通り少し体温の低い北のひんやりとした手のひらにゆっくりと握られて、そのまま指を絡められる。私の家の方向へと歩き出す北は、私とは反対になんだか楽しそうな表情を浮かべていた。

しばらくそのまま二人で歩いていると、私もだんだんと緊張がほぐれてきた。少し早く着きそうだからちょっと遠回りするか、と最短ルートではなく近所を少し散歩するような迂回ルートを歩く。こんな実家の近所を北と歩くのは学生のときぶりだと懐かしくなる。もちろんあの時は手は繋いでいないし、テスト勉強や部活の今後についての話し合いのためだったから他の人達もいたけど、それでもこの道をもう一度北と歩くなんて、本当に夢でも見ているみたいだ。


「なぁ、ほんまに、ええんよな」

「うん」


それだけ言うと、黙り込んでしまった北は手を握り直して少しだけスピードをあげる。遠回りしすぎて遅れたとか笑えんから、そろそろ行くか。とこちらを見下ろすその瞳が優しくて、ああやっぱりこれは夢なんじゃないかと思った。





「お久しぶりです、お邪魔します」

「いらっしゃい!ほんまに久しぶりやなぁ北くん。立派になって!」

「すえもお帰り、ほんまに連絡も何もせんで心配ばっかかけよってこの子は」

「ごめんごめん」

「これ、よろしかったらみなさんで食べてください」

「まぁ〜そんな畏まらなくてもいいのに、ありがとうね」


わいわいと騒がしい両親は、久しぶりに会っても以前とは全く変わった様子はなく、むしろ北の登場に普段の数倍テンションが高いように思える。こっちこっちと北をリビングへと案内していく両親についていくと、気楽にしていいのよ〜と予め用意していたであろうお茶を出され座らされた。

私と北、向かいには父と母。なんだか、不思議だ。今日は不思議な感覚しか体験してないように思う。世間話や近状報告をしている北と両親の会話を聞きながら、心を落ち着かせるためにお茶を一口飲んだ。


「で、すえ、聞いていいのかしら?」

「ん?なに、ごめん、聞いてなかった」

「あんた東京で彼氏出来たんじゃなかったん?北くんなん?」

「え、あー、えと、それは…」

「その事についてなんですが、色々あって今は俺がすえさんと一緒に居させてもらってます」

「そうなの、お母さんとお父さんに、話があって」


私たちの雰囲気を感じとったのか、それまでワイワイと盛り上がっていたお父さんとお母さんは二人して背筋を伸ばしこちらを見据える。心臓がバクバクして、続く言葉が出てこない。どうしようと少し俯けば、そんな私に気づいた北がテーブルの下でそっと私の手を握った。ビクリと跳ねた肩を横目で確認した北は、一度こちらを向いて、繋いだ手に力を込めてから真っ直ぐ前を向いた。


「今日は急にお邪魔してしまってすみません、お時間頂きありがとうございます」


いつも以上に丁寧な声色で、ゆっくりと言葉を紡いでいく北の顔を見つめる。その瞳と声に迷いは見えない。


「ご存知の通り、俺とすえさんは高校の時からの仲で、それからの進路は別れてしまったもののこうしてまた再開することが出来ました」


そこまで言って、一度こちらを見た北は、今までに見た事がないくらいに優しく目を細めて笑って、もう一度前を向いた。


「すえさんは、優しい人です。困っとる人がいたら放っておけないし、頼られたらそれを無下に出来ない。他人に対して優しすぎてたまに心配になるくらいです。でも、そこがすえさんの良いところで、好きなところです」


ぎゅっと、痛いくらいに握られた手から北の体温と気持ちが伝わってくる。


「そんなすえさんと、これからの人生を一緒に歩んでいきたいと思いました。いつだって隣にいて欲しいと思えた唯一の人です。必ず幸せにします。どうか、すえさんとの結婚をお許しいただけないでしょうか」


真っ直ぐなその声に、真っ直ぐなその気持ちに、思わず鼻の奥がツンとする。強く握られているその手を同じくらいに握り返して、真っ直ぐ前を向いた。


「お母さん、お父さん。私、いろんな事があった。悲しいことも、辛いことも、たくさんあった。けど、北が、信介さんがいたから全部乗り越えられたの。これからも、この人となら何があったって大丈夫だって思える。私は、この人と、信介さんと、結婚します」


ジワジワと溢れ出る涙を必死に堪えながら、ぼやける視界で両親を見る。北と私の言葉を真剣に聞いていた両親は、二人で無言で見つめあい言葉もなく頷いたあと、ゆっくりとこちらを向いた。


「信介くん、すえをよろしくね」

「俺たちからも、よろしくお願いします」


ほっとした様な笑顔を浮かべながら、「あんたも本当に良い人捕まえたわね」と微笑まれれば、堪えきれなくなった涙が一筋頬を伝った。

そっと隣から伸びてきた手のひらに優しくそれを拭われる。目と目があって、先程のように優しい笑顔を浮かべる彼の姿を見て、やっぱりこの人と生きていきたいと、強く思った。

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