12時の鐘を過ぎたら ハロウィンを過ぎると瞬く間に木枯らしの季節に移り変わる。稽古の汗があっという間に冷たく冷えて、ダルタニアンは思わずくしゃみをした。 「大丈夫かい? はい、タオル」 「ありがとうございます」 トレヴィルが差し出したタオルを羽織り、その裾で汗を拭う。夜の稽古は星空が綺麗だ。良く晴れて銀砂のように煌めく夜空を見上げ、ダルタニアンはほうっとため息をついた。 トレヴィルは近くのベンチに腰掛け、激しい打ち合いで柄留めが緩んでいないかを確かめている。 「そういえば、もうすぐ創立祭だね」 話を振られて、ダルタニアンはトレヴィルの方へ歩み寄った。隣に座るよう促され、ベンチに腰を下ろす。 「ダンスパーティーに着ていくドレスは決まった?」 彼にしてみれば、何気ない話題のつもりだったのだろう。しかしダルタニアンは曖昧に微笑むと視線を落とした。 「ダンスパーティーには出ません」 「え……っ?」 「着ていくドレスがないんです」 ダルタニアンは正直に告白した。 「ずっと田舎暮らしで華やかな催しには疎遠でしたし、引っ越しが多かったから、余計な荷物は持ってないんです」 年頃の娘がドレスを『余計な荷物』と思わなければならない暮らし。はっとして、トレヴィルは詫びた。 「それは……すまなかった。無神経だったね」 「いいえ。本当は一枚くらい持っているべきなんですけど、父が遺してくれたお金には限りがあるし、学費も先生が推してくれた奨学金で免除して貰っているのに、贅沢は言えません」 パーティーに出るならドレスだけではない。専用の下着や靴やバッグ、髪飾りや化粧品まで、一通り揃えなければならない。 「でもせっかくのパーティーですから、裏方でも参加したいとは思ってるんです。聞いたらポルトスも裏方だって言うし。あ、裏方でもちゃんとご馳走は食べられるみたいですよ」 優しい担任教師に気を遣わせまいと、ダルタニアンは笑顔を見せた。 「どんなご馳走が出るか楽しみです」 「ダルタニアン……」 「さ、先生。良かったらもう少し稽古をつけてくれませんか? 今日はまだ頑張れそうなんです」 「……ああ、構わないよ」 トレヴィルは微笑むと、剣の具合を確かめて立ち上がった。ダルタニアンもタオルを置いて続く。 蒼い翳りに沈む中庭で、二人は再び相対した。 「行きます」 宣言して、ダルタニアンが踏み込んだ。迷いのない真っ直ぐな突きを、トレヴィルの剣がいなす。流された切っ先を、ダルタニアンは手首を閃かせて斜めに斬り上げる。それを見越したトレヴィルの剣が、すぐに脇に引き戻して防御する。 両者はしばらく無言で打ち合った。 初めて剣を合わせた時に比べ、ダルタニアンの動きは確実にキレが良くなっている。目も速いから、状況を読むのも素早い。中々の上達ぶりだったが、かつては隊長の座にあったトレヴィルに及ぶものではなかった。疲れの見えてきたところに鋭い一撃を食らい、ダルタニアンは剣を跳ね飛ばされてよろめいた。 「あっ」 タイミングを誤ったのか、足首を捩って倒れかかる。剣を捨て、彼は素早く彼女を抱き留めた。 「すみません、ちょっとよろけただけです」 「挫いているといけない。見せてごらん」 トレヴィルはさっと彼女をベンチに座らせると、靴を脱がせた。 「先生、あの、大丈夫ですから……!」 焦った声でダルタニアンが止めたが、トレヴィルは構わなかった。彼女は甲高の綺麗な足をしていた。すんなりとした指の先に、貝殻のような桃色の爪が並んでいる。引き締まった足首になめらかな踝。体の割に少し小さい足だった。 「大丈夫そうだね」 トレヴィルは一通り確かめると、彼女の足を放した。ダルタニアンはすぐさま靴を履き直す。恥じらいに、その頬が夜目にも わかる程染まっていた。 「遅くなってしまったね。今日はもうここまでにしよう。部屋まで送って行くよ」 「……ありがとうございます」 頷く少女の手を取って、彼は立ち上がった。 創立祭を数日後に控え、クラスの話題はそれ一色だった。今年最後のビッグイベントだ。今年の流行は何色だ、衿の形がどうだ、髪型はこれが可愛いだのと女の子達の情報合戦は凄まじい。 「あたしはねぇ、アラミス様の目の色とあたしの目の緑を混ぜ合わせたみたいな、複雑で綺麗なピーコックのドレスを着るの。お揃いの薔薇のコサージュを髪に飾ってね。こう、裾の後ろがちょっと流れる感じが大人っぽくて素敵なんだ。あんたはどんなのを着るの?」 プランシェに尋ねられたダルタニアンは、控え目に微笑んだ。 「このまま制服で行くよ。裏方だし」 「は? なんで!? せっかくのパーティーなんだよ!? ここでお洒落しないでいつするの!」 「それは……その」 トレヴィルには正直に言ったものの、級友に話すのは躊躇われた。同情を買いたくはないし、かといってプランシェは理由もなく納得するようなタイプじゃない。困っていると、教室の入口でミレディが呼んだ。 「ダルタニアン。ちょっといいかしら?」 「あ……はい」 天の助けとばかりに、ダルタニアンはプランシェに目配せして席を立った。 「貴女、創立祭に着ていくドレスがないんですって?」 校舎の反対側へとダルタニアンを連れて行きながら、ミレディはずばりと言った。かっと頬を染めたダルタニアンに、面白がるような笑みを見せる。 「恥ずかしがらなくてもいいわ。そういう事情のある子は毎年一人や二人必ずいるし。そういう子には授業で用意してるドレスを貸し出しているのよ」 「そうなんですか……」 普段こそ女学生並の短いスカートで闊歩しているミレディだが、マナーや作法の講師もしているだけあって、立ち振る舞いは洗練されている。一度、ワルツの授業でアシスタントとして参加した時の、長いドレスの裾を難なく捌く様は感心したものだ。 「さ、入って」 通されたのは被服室だった。ドアを開け、ダルタニアンは目を丸くする。マネキンに着せられたふんわりと柔らかな薄紅色のドレスがダルタニアンを出迎えていた。 「え……?」 「着てみて頂戴。こういうのは細かいサイズの調整が必要なのよ」 ミレディはさっさと棚に向かうと、メジャーやら針箱やらを手早く取り出す。ダルタニアンはただ戸惑って立ち尽くした。 「でもこれ……どうみても練習用のドレスじゃありませんよね……?」 「いいから、さっさとして頂戴。私もそう暇ではないのよ?」 腰に手を当てて待ち構えるミレディに促され、ダルタニアンは怖々とドレスに指を触れた。滑らかに冷たい絹の感触。目利きではないからどれ程高価なものかはわからないが、恐ろしく手触りが良かった。 「あの……やっぱり私、こんなの着れません」 「それ、用意した本人が聞いたら悲しむわよ?」 困り果てたダルタニアンに、ミレディは艶麗なくちびるを微笑ませた。女の達人らしく、黒々とした睫毛に縁取られた片目を瞑る。 「貢ぎ物は素直に受け取るのが、いい女の嗜みよ?」 ――創立祭当日。 ホールは着飾った生徒達の姿で溢れ返っていた。百万本の蝋燭の灯と壮麗な管弦の音色に、フロアは黄金に輝いている。 通例として、女子は男子生徒にエスコートされて入場する。 だが、ダルタニアンはひとりだった。迷子の子猫のように不安そうに、だが辺りを興味津々に見回しながら、緋毛氈の敷かれた階段を、一歩一歩降りて来る。淡い色のドレスは、普段は凛として気の強そうな彼女を驚く程柔らかく見せた。手入れされ、濃い蜂蜜色に輝く髪に、小さなティアラを乗せている。それが大振りな花を飾るより、華奢な印象に仕上げていた。 「悪くない」 自分の見立ての確かさに、彼は満足した。描いた絵が思い通りに仕上がったようなもので、他意はない。 ところがだ。 人混みに紛れているつもりだったのに、彼女の視線が彼を捕らえた。 「トレヴィル先生!」 咲きこぼれるような笑顔で、ダルタニアンは彼を見つけて駆け寄った。 「やあ、ダルタニアン」 平服のままの彼は、ぎこちなく笑った。白く滑らかなデコルテに目を奪われる。違和感を感じた。何かが足りない。 「綺麗だよ。良く似合ってる」 「なんだか、灰かぶり姫になった気分です。12時の鐘が鳴ったら、魔法が解けてしまいそう」 「え?」 「実はあちこちコンシーラーだらけなんです。私、稽古とか決闘の傷痕とか痣とかがたくさんあって……プランシェとミレディ先生にすごく怒られました」 「ああ、そういうこと」 恥ずかしそうに長手袋の手で胸元を隠すダルタニアンを、トレヴィルは冷たく見下ろした。それはそうだ、若い娘の柔肌にあのような百合の刻印があれば、普通は隠すだろう。胸元に刺青など、まるで娼婦だ。彼は違和感の理由を、そう納得した。 「このドレスを用意して下さったのって、トレヴィル先生ですよね?」 トレヴィルは肩を竦めて見せた。 「知り合いに服道楽がいてね。着なくなったドレスやアクセサリーを譲ってもらったんだ」 ただ、靴だけはトレヴィルが用意した。彼女の小さな足に似合う、軽やかに踊れるガラスの靴を。 「ありがとうございます。先生は魔法使いみたいですね」 「はははっ。褒め言葉として貰っておくよ」 無邪気すぎる笑顔から、彼は目を逸らした。剥き出しの丸い肩を、ホールの中央に向かって軽く押す。 「さあ、ダルタニアン。君の王子様を探してくるといい」 「あの、トレヴィル先生……」 彼女の声を聞かないふりをして、トレヴィルは人波に紛れた。熱気を避けてバルコニーへ出る。 夜空は冷たく澄んでいた。きらきらと絢爛に輝きながらも、物言わぬ星達は彼の心を癒してくれる。途中、ボーイの持っていた銀盆から攫ったシャンパンのグラスを、星に掲げて一息に煽る。細かな泡が軽やかな旋律と共に喉を滑り落ちた。 「ふぅ……」 しばらくしてホールを振り返ると、ダルタニアンはすっかり壁の花だった。気後れしているのか、何度か誘われているのに断っている。 「何をやってるんだ……」 彼女に?――否、己に。 ダルタニアンを手懐ける為とはいえ、少しやり過ぎではないだろうか。 「魔法使いは魔法使いでも、私は悪い魔法使いだよ」 トレヴィルは独りごちる。 彼女がどんな人混みにいても、彼が見失うことはない。 憎しみ故に。復讐故に。――そのはずなのに。 「君の愛する人間を引き裂いてやりたい」 自分で推挙しておきながら、彼女が誰の手を取るかでやきもきしている。彼女を取り巻く銃士達を、復讐の時を待たずして引き裂いてしまいたくなる。 なのに彼女が自分を見る度、安堵するのだ。嬉しくなるのだ。 彼女が向ける親愛は、まだ父親への愛情の延長のようなものに過ぎない。もしそれを唯一のものに出来たら、そう思った瞬間甘い痺れが背筋を駆け登った。 「彼女が私に恋をしたら」 味わうように、彼は何度も口の中で転がす。その言葉は、復讐と同じ味がした。 ――甘美な。 彼はグラスを手すりに置き去りにして歩き出した。ホールの喧騒を泳いで、彼は彼女の無防備な背中を追う。翼がないのが不思議なくらい綺麗な形の肩甲骨。彼女は気づかず、アラミスを見ている。あんな蝙蝠と踊りたいのか、ただ美しいだけの人形と。彼は冷笑した。或いはアトス、だが王子は職務に追われ、ここからは遠い。彼女はもうすぐそこ、手を伸ばせば触れる距離だ。 「私の可愛いサンドリヨン。12時の鐘を過ぎるまで王子に見初めてもらわなければ、悪い魔法使いに攫われてしまうよ……?」 彼は呟いて、触れなば落ちるその果実に触れた。 2011/11/14 up back |